第3話

「おっと、いい質問ですね」


 桃子は振り返り、ニヤリと口元を歪めた。先ほどまでの、俺に対する殺意は霧散したらしい。いや、それはそれで何かを企んでいるようで、安心材料にはならないんだが。


「せっかくですし、一旦外に出てみましょうか」


 え? 外に出る、って言ったって、このフィールドはどうなるんだ?

 などと思っていたら、桃子はその場からてくてくと歩き、特別何の動作もなしにフィールドをすり抜けた。もちろん、桃子以外は何も動いてはいない。いや、桃子が呼吸困難に陥っていないところを見ると、桃子周辺の空気は動いているのだろう。軽い摩擦音が聞こえるところからすれば、桃子が踏みしめている原っぱも、彼女に合わせて動いてくれているようだ。


「先輩、何やってるんですかー? 早くこっち側へ、フィールドの外に来てくださーい」


 手でメガホンを作りながら呼びかけてくる桃子に、俺は抜き足差し足で近づいた。無論、俺たちの間には、湾曲したフィールドの境界面がある。


「む……」


警戒しながら手で触れてみると、


「?」


 何の感触もない。俺の右腕はフィールドの外に出て、ひんやりとした空気に触れている。

 思い切って一歩、境界面の外に足を踏み出す。すると、ほわわん、という何とも気の抜けた音がして、俺はこれといった抵抗もなくフィールドから脱出することができた。

 セピア色に見えていた世界が、元の極彩色に戻る。呼吸もできるし、踏みしめた地面からは雑草の折れ曲がる軽い音が聞こえた。ただし、俺の身体と極めて近い部分以外は、車も草木も、川の流れまでも止まったままだ。


「どうです先輩、なんてことはないでしょう?」

「あ、ああ」


 上の空で返事を返す。深呼吸してみたが、俺の身体の方にも異常は認められない。

 振り返ってみると、今度は逆にフィールドの内側の方がセピア色に見えた。犬はもはや虫の息で、動けそうもない。


「よしっ、フィールド解除!」


 そう言って桃子がパチン、と指を鳴らすと、ドーム状のフィールドが上からどんどん溶けるように消えていき、完全に消滅した。と、まさに同時。


「どわっ!」


 俺は慌てて耳を塞いだ。先ほどと同様、無音状態だったフィールド展開状態から元の世界に戻り、自然音の波に飲まれたのだ。車は動きだし、木々の葉は揺らぎだし、川は流れを再開した。


「ささ、滝川先輩、こちらへどうぞ!」


 観光ガイドのお姉さんよろしく、桃子が恭しく道を示す。だが、その前に聞きたいことは、相変わらず山ほどあった。

 クエスチョンマークが俺の顔に書いてあったのか、桃子は解説を始めた。


「ああ、あのフィールドですか? 『マジック・フィールド』とでも呼べばいいんでしょうけど、私たちは単に『フィールド』って呼んでます。能力者ならいつでもどこでも作れますし、怪物の方から展開してくる場合もあります。まあ、私『たち』能力者にとっては、特別奇妙な現象、ってわけでもないんですけれど」


 聞けば、フィールドを展開すると、その外側の場所は時間が止まる。そうやって、悪徳魔術師もその対抗組織である桃子たちも、人知れず活動しているというわけだ。


 って、ちょい待ち。


「お前今、私『たち』って言ったよな?」

「ええ」

「おかしいじゃないか! 俺には何にも能力なんてないんだぞ? そんな俺がどうしてフィールドの境界面を通り抜けられたんだ?」

「いや、だって先輩も能力者ですもん」

「あ、そう。……へぇ?」


 な、何だと? 俺はいつの間にそんな能力を……というか、俺に備わった能力って、一体何だ?


「あらら、ちょうどいいところに」


 桃子は俺に背を向け、てくてくと走っていく。そこには、


「それって……ロールスロイスか?」


 車体前方のマークから、俺にはそれが超高級車であることが分かった。映画の中でしか見たことはないし、ましてや乗ったことなどない。そして桃子、やたらめったら楽しそうである。


「今から先輩の『能力』を確かめたいと思います!」


 何をするつもりだ? なんだか嫌な予感しかしないのだが。

 すると桃子はふっと息をつき、ダランと両腕を下した。脱力したまま、高級車の方へと向かう。そして勢いよく、空を斬りながら釘バット振り上げた。


「おいおいおいちょっと待てえええええええ!!」


 俺の絶叫とともに、金属製の何かが思いっきりひしゃげる音がした。


 やりやがった! こいつ、本当にこの高級車ぶっ壊しやがった!


「おい何やってんだよ!?」


 俺は桃子の肩を握り、ぐるり、とこちらを向かせる。


「これ超高級車だぞ! それも人様の! どうやって弁償するつもりなんだよ!?」


 しかし桃子はといえば、釘バットを弄びながら余裕綽々の様子。


「そうですねー、高級車ですねー。弁償なんかできませんねー」

「だったら壊すなよ! 器物損害の上に民事裁判で訴えられたら……!」

「そこで先輩の出番です」

「そうだよ、だから俺は……って何?」


 桃子は真顔に戻り、俺と視線を合わせた。


「まあとりあえず、この車が直るように祈ってみてください」

「へ?」

「さあさあ、ポーズは自由ですから」

「祈るだけで直るんだったら誰も苦労しねえよ! 大体俺は普通の――」


 と言いかけて、俺は今さっきのことを思い返した。

 

 果たして俺は『普通の人間』なのか?


 さっき見かけた犬らしき怪物や、外界の時間を止めてしまうフィールドの存在を知った今、俺は自分を『普通』だと言い切れるだろうか?


「ほら先輩! 早くしないと、車の持ち主、戻ってきちゃいますよ?」


 特に確信があったわけではない。自信など微塵もない。だが、胸の奥で何かが唸りを上げているのを、俺は感じた。『俺には直せる』と。


「先輩、だから考えてないで……」

「黙ってろ!」


 思いの外、大声が飛び出した。流石の桃子も怯んだようだ。

 俺は右腕を突き出し、目を閉じて、かつてそこに存在していたロールスロイスの車体を思い浮かべた。ジリジリと、腹の底から何かが湧いてくるような不思議な感覚。すると、桃子が声を上げた。


「うわあ……!」


 うっとりとした声に、俺は額から染み出してきた汗を左腕で拭い、ゆっくりと目を開いた。


「なっ!」


 そこに展開されていた光景。それは、バラバラになった車体が元通りに原型を成していくという眺めだった。窓ガラスの破片、ソファの繊維、基礎となる金属部品、その他ありとあらゆるパーツが、ひゅんひゅんと飛ぶようにして車体の姿に、すなわち収まるべきところに収まっていく。

 あたりには、ロールスロイスを中心に風が吹き荒れ、あたかも虹の渦中にいるような七色の色彩の中に、俺と桃子は立っていた。


 俺はまるで第三者になってしまったような心地で、その様子を眺めた。パーツの飛び方も綺麗なもので、俺や桃子を避けるように、迂回しながら飛んでいく。

 やがて車体は破砕される前の状態にまで復活し、淡く白い光に包まれて、修復が完了した。


「よっしゃあ!」


 これは俺ではなく桃子の台詞だ。かく言う俺は、


「……」


 自分の右手を開いたり閉じたりして、何が起こったのかぼんやりと考えた。

 直した? 俺が、この手で? しかも物理的な意味ではなく、超能力的な原理によって?


「やったじゃないですか、先輩! これで先輩は立派な『フィクサー』ですよ!」

「な、何? 『フィクサー』?」


 先ほどの厳しい顔つきから一転、桃子はさも嬉し気に、首を縦に何度も振った。


「これからもよろしくお願いしますね、滝川竜介先輩!」


 と言って俺の右手を自分の両手で包み込み、ぶんぶんと振り回した。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 俺は右手を桃子から解放してもらい、その掌をじっと見つめた。


「ふむ……」


 俺が自分の右手を閉じたり開いたりしている、その時だった。


「!」


 桃子は咄嗟に、俺の肩を思いっきりどついた。吹っ飛ばされる俺と、その反動で跳躍した桃子。その間数センチのところを、さっきまで行動不能だった犬の怪物の牙が通過していく。あいつ、まだ生きていやがったのか。

 三本足になりながらも、闘志を失ってはいないらしい。犬は左右に離れた俺と桃子を見て、隻眼となった真っ赤な瞳で俺を捉えた。


「まっ、待て! 俺を食っても美味くないぞ! ただの高校生――」


 と言いかけて、俺は自分が普通でないことを思い返した。

 そうは言っても、戦えるわけではない。喧嘩だってしたこともない。できるのはせいぜい、『ものを直す』ことだけだ。

 すると、犬もそれに気づいたらしく、ぐいっと視線を変えて桃子の方を見遣った。

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