第18話

「――さん? 明宏さん! ねえ、明宏さんってば! 起きてよ!」

「――は、はひ? あ、明日香しゃん……。ご飯ですか?」

「ご飯? 何を、言ってるの? もう、映画終わったよ」

 何故か、明日菜ちゃんが、僕の顔を覗き込んでいる。

「――えっ?」

 どうして、明日菜ちゃんがいるんだろう? 僕は、しばらく今の状況が飲み込めなかった。

「だから、映画終わったよ」

 と、明日菜ちゃんが改めて言った。

「僕は……、明日菜ちゃんの部屋で、寝ちゃったのか……」

 と、僕は、つぶやいた。その瞬間、後ろから頭をバシッと叩かれた。

「痛い!」

「あら、失礼。死んでるのかと思ったわ」

 と、言ったのは――

 もちろん、明日香さんである。

「お姉ちゃん。何も、叩かなくてもいいじゃない」

 そうだ、そうだ。明日菜ちゃん、もっと言ってやって。

「明宏さんが、ますます頭が悪くなっちゃうよ」

 そうだ、そうだ――うん?

「それは、困るわね。まあでも、これ以上、悪くなりようがないでしょ」

「ふーん。そっかぁ」

 と、明日菜ちゃんは、納得している。

 ――そっかぁ……。

「明日香さん、すみません。僕、寝ちゃってましたか?」

「『寝ちゃってましたか?』じゃないわよ。始まって、すぐにイビキをかいていたじゃない」

「す、すみません。疲れていたもので……」

 ふかふかのソファーが気持ちよくて、ついつい眠ってしまったみたいだ。

「ちょっと、顔を洗ってきなさいよ」

「は、はい」

 よだれとか、たれてないかな?

「あ、明宏さん、ちょっと待って。すぐに、新しいタオル出すね」

 と、明日菜ちゃんと一緒に、洗面所に向かった。


「はい、明宏さん。これを、使って」

 と、明日菜ちゃんが、まだ使っていない新しい白いタオルを出してくれた。

「ありがとう、明日菜ちゃん。こんな新品じゃなくても、使い古したものでもよかったのに」

「気にしないで。もらっても使っていないタオルが、たくさんあるから。よかったら、いくつか持って帰ってもいいよ」

「いや、大丈夫だよ」

 と、僕は笑った。

 本当は、喜んで持って帰りたいところだけど(タオルなどは、いくらあっても困らないのだ)、明日香さんに、せこい男だと思われたくはないのである。

 僕は冷たい水で、顔を洗った。冷たい水で顔を洗っていると、少し頭がすっきりとしてきた。

「いやぁ。また、明日香さんを怒らせちゃったかな?」

 と、僕は、タオルで顔を拭きながら言った。

「明宏さん。そのタオル、洗濯機の中に入れておいて。明日の朝、洗っちゃうから」

「うん、分かったよ」

「――でもね、明宏さん。お姉ちゃんは、口ではあんなことを言ってるけど――」

 僕は、明日菜ちゃんの話を聞きながら、タオルを洗濯機に入れようと、洗濯機の蓋を開けて、洗濯機の中を覗き込んだ。

 うん? こ、これは――

 洗濯機の中に入っている水色の布は――もしかして……。

 あ、明日菜ちゃんの下着では?

「本当は、明宏さんのことを――」

 い、いかん、いかん! 見ては、いかんぞ、明宏。

 目を閉じて、素早くタオルを投げ入れて、洗濯機の蓋を閉めるんだ。

 僕は、急いで目を閉じた。

 で、でも……。ちょっとくらいなら……。

 僕は、そっと、目を開こうとした。

「ちょっと、明宏さん。聞いているの? 明宏さん!」

「は、はい! ――痛い!」

 その瞬間、何が起こったのか、すぐには分からなかったが、どうやら慌てて振り向こうとして、洗濯機に頭をぶつけてしまったようだ。

「明宏さん! 大丈夫?」

 明日菜ちゃんが、心配そうに、僕の顔を覗き込んでいる。

「だ、大丈夫だよ……。これはきっと、天罰だ……」

「天罰? 何の?」

 と、明日菜ちゃんは、不思議そうな顔をしている。しかし、本当のことを言えるはずなどなかった……。

「明宏さん。ちゃんと、私の話を聞いてた?」

「話? えっと……、何だっけ?」

 確か、明日香さんが、どうとか言っていたような――

 そのとき、

「ちょっと、二人とも、何をやっているのよ?」

 と、明日香さんも洗面所にやってきた。

「明宏君。洗濯機で、顔を洗うつもりなの? 私が頭を叩いたせいで、おかしくなったのかしら?」

 と、明日香さんは、不思議そうに言った。


「明日香さん。映画を見て、何か分かりましたか? 吉岡さんの、話していた通りでしたか?」

 と、僕は聞いた。

「――そうね。確かに犯人は、依頼人の女性だったわ。こんな簡単な事件、私なら解決に二時間もかからないわ」

 いや、いくら明日香さんでも、さすがに二時間では解決できないだろう。

「まあ、それはいいとして。吉岡さんが言っていたシーンは、二つともなかったわね。助手が妄想をするシーンも、エンディングのNGシーンも――というか、エンディングテーマが最後にちょっとだけ流れて、出演者やスタッフの名前が凄いスピードで流れて、それで終わったわ」

 ということは、僕が覚えていなかったわけではなくて、本当になかったんだ。

「でも、鞘師警部も、そういうシーンはあったって、言っていましたよね? 鞘師警部の、勘違いでしょうか?」

 鞘師警部も人間だ、たまには勘違いくらいするだろう。

「いいえ。確かに、そういうシーンはあったのよ」

 と、明日香さんは、よく意味の分からないことを言った。

「それって――」

「いい、明宏君。明宏君と吉岡さんは、テレビで見たのよね?」

「はい、そうです」

 と、僕は、うなずいた。

「それじゃあ、鞘師警部は、どこで見たって言っていた?」

「確か、映画館で見たって――あっ! そういうことか」

「そうよ。映画本編が120分だとしても、民放のテレビだとCMがあるし、全部は放送できないからカットされる部分が出てくるのよ。つまり、吉岡さんが言っていたシーンは、テレビ放送では全部カットされていたのよ」

「ということは、吉岡さんがテレビを見ていたというのは、真っ赤な嘘ですね」

「そうね。その可能性が、高いとは思うけど――」

「何か、気になることでもあるんですか?」

「過去に、映画館でも見たことがあって、そのときの記憶と混同した――とでも、言われるかもしれないわ」

「な、なるほど」

 確かに、そう言われたら、それを嘘だと証明するのは難しいかもしれない。

「お姉ちゃん。私、眠くなってきちゃった」

 と、明日菜ちゃんが言った。

 時計を見ると、もう午前2時が近い。僕は、さっき二時間近く眠ってしまったので、まだ大丈夫だ(威張れたことでは、ないけれど)。

「ねえ、お姉ちゃん。帰る? それとも泊まっていく?」

「もう、こんな時間か。そうね――」

「明宏さんも、泊まっていく?」

「えっ? ぼ、僕も?」

 あ、明日香さんと――お、お、同じ部屋に!(※同じ部屋とは、言っていない)

「私とお姉ちゃんは、寝室で寝るから。明宏さんは、この部屋でよかったら、そのソファーで寝て。さっきも眠っていたんだから、寝れるでしょう? 毛布は、あるから」

「――あっ……。ここで……。そ、そうだね」

 と、僕は落胆した。

 まあ、よく考えてみれば、当たり前じゃないか(よく考えなくてもだが)。

「このソファーだったら、高級ホテルのスイートルームのベッドよりも、ぐっすりと眠れるよ」

 と、僕は笑った。

「そんな、大げさな」

 と、明日菜ちゃんも笑った。

「だめよ、明宏君。やっぱり、帰りましょう」

 と、明日香さんが言い出した。

「お姉ちゃん、遠慮しなくてもいいよ」

「私一人だったら、もちろん遠慮なんてしないわよ。でも、やっぱり明宏君は、だめよ。きっと、何かよからぬことを考えていたんでしょう? 今の、喜びから落胆の表情が、すべてを物語っているわ」

 と、明日香さんは、まるで探偵みたいに指摘してみせた(いや、探偵みたいではなく、れっきとした名探偵だ)。

「そ、そ、そんなこと――ないですよ。僕は、そんな……、明日香さんと、何もないですよ」

 僕は、自分でも何を言っているのか、ちんぷんかんぷんだ。

「本当に、分かりやすく動揺するわね。私が運転してあげるから、帰りましょう」

「わ、分かりました」

 明日香さんの運転か……。しかし、今は断れる雰囲気ではない。

「お姉ちゃん、安全運転でね」

「明日菜に、それを言われたくないわよ」

 明日菜ちゃんは、運転があまり上手ではないのだが、明日香さんの運転は……。

 いや、決して下手ではないのだが、とにかく運転が荒くて怖いのである。もちろん、交通事故などは、起こしていないけれど。

「それじゃあね、明日菜ちゃん。おやすみ」

「明宏さん、おやすみなさい」

「そうだ、明日菜。さっき、話が途中になっちゃったけど、どうして車の中であんなことをしたのよ」

 と、明日香さんが聞いた。

「あんなこと? ――ああ、あれね。私も、誰かにやってみたかったの」

「どういうこと?」

「それが……。逆ドッキリだったの」

 と、明日菜ちゃんは、ソファーに座り込みながら言った。

「逆ドッキリ? 仕掛人だと思っていた方が、実は騙される方だったっていう?」

「うん……」

 と、明日菜ちゃんは、うなずいた。

「まあ、そうよね。明日菜に、仕掛人なんて務まるわけがないわよね」

 と、明日香さんは納得の表情だ(正直、僕も、明日香さんと同意見だ)。

「はぁ……。すごく、楽しみにしていたんだけどなぁ……」

「明日菜ちゃん、どんな逆ドッキリだったの?」

 と、僕は聞いた。

「放送前だから、あんまり詳しくは言えないけど――さっき私がやった、車の後ろから突然人が出てくるやつが、めちゃくちゃ怖かったの……」

 と、そのときのことを思い出したのか、明日菜ちゃんは涙目で言った。

「それで、悔しくて、明宏君にやってみたのね」

「うん」

 と、明日菜ちゃんは、うなずいた。

「でも、明日菜。後ろに誰か乗っているって、気づかなかったの? 注意力がないわね」

「お姉ちゃん。そんなことを言ったって、後ろに誰か知らない人が乗っているなんて、普通思わないよ。ねえ、明宏さん」

「うーん……。確かに、そういうことは考えないかな」

 僕も、一人で車に乗るときに、いちいち後ろの座席を確認したりはしない。

「ほら、お姉ちゃん。普通は、気づかないわよ――ちょっと、お姉ちゃん。聞いてる? 寝てるの?」

「…………」

 明日香さんは目を閉じて、何か考えているみたいだ。

「――まさか……。そんな、単純な方法で?」

 と、明日香さんは、つぶやいた。

「何が、単純なの? 私が、単純なやつっていうこと?」

「明日菜、ちょっと黙ってて」

 どうやら明日香さんは、何か分かったことがあるみたいだ。

「そうよ――それなら、説明がつくわ」

「明日香さん、何か分かったんですね?」

「明宏君。今日は、もう遅いから、明日の朝一番で鞘師警部に連絡を取るわよ」

「分かりました」

「明日、すべてを解決するわ。それじゃあ、帰りましょうか」

 やっぱり、帰るのか……。

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