第8話
「明日香さん、おはようございます」
「明宏君、おはよう。早いわね。9時まででいいって、言ったのに」
「いやぁ、早く目が覚めたもので、来ちゃいました」
「そう。感心ね」
「明日香さんこそ、早いですね」
僕は、いつものように8時までには探偵事務所に出勤をしていた。明日香さんもいつものように、8時ちょうどにやって来た。
「私も、早く目が覚めたのよ」
と、明日香さんは言ったけど、それは嘘だろう。
「コーヒーでも、入れますね」
「ありがとう」
僕は二人分のコーヒーを入れると、席に着いた。
「おはよう。ちょっと早いかと思ったんだが、さすが二人とも準備万端だな」
と、鞘師警部も早めにやって来た。
「鞘師警部、おはようございます」
と、僕と明日香さんは、同時に言った。
「いやぁ、コーヒーのいい香りがするな」
「普通のインスタントのコーヒーですよ。鞘師警部も、飲みますか?」
と、僕は聞いた。
「ああ、いただくよ」
僕は、手早くコーヒーをもう一杯入れると、ソファーに座る鞘師警部の前に置いた。
「明宏君、ありがとう」
「仕事の方も、これくらい手早くやってくれると、助かるんだけど」
と、明日香さんが言った。
「努力します」
と、僕は言った。
「しかし、鞘師警部、早かったですね」
と、明日香さんが言った。
「ああ。
「鞘師警部、凶器の方は何か分かったんですか?」
と、僕は聞いた。
「凶器かい? 今、調べているよ。何か分かれば、私の方にもすぐに連絡をしてくれるようには言ってある」
つまり、まだ分からないということか。
もしも、金づちから、北川さんの指紋でも出れば、北川さんの家にあった金づちということになる。
そうなったら、北川家の誰かが逮捕されてしまうんじゃないだろうか? 早く、真相を突き止めないと。
「そうですよ、鞘師警部! こんなところで、コーヒーなんか飲んでいる場合じゃないですよ!」
と、気づいたら僕は叫んでいた。
「こんなところとは、なによ。失礼ね」
と、明日香さんが言った。
「す、すみません。そういう意味では――」
「よし、分かった。明日香ちゃん、せっかく明宏君が、やる気を出しているんだ。さっそく、駐在所に向かおうじゃないか」
「そうですね。明宏君、コーヒーカップはちゃんと洗っておいてよ。汚れが、落ちなくなるから」
「はい」
明日香さんは、意外とこういうところも細かいのだ。僕は、手早くコーヒーカップを洗うと、鞘師警部の車で駐在所へと向かった。
「こちらが、ここの駐在所の
「どうも、初めまして。佐藤です」
と、佐藤さんは、僕たちに頭を下げた。
「こちらこそ、初めまして。探偵の桜井明日香です」
と、明日香さんは、佐藤さんに名刺を渡した。
「これは、ご丁寧にどうも。探偵ですかぁ、すごいですね。僕も、子供の頃は、探偵にあこがれていたんですよ」
と、佐藤さんは言った。
「そうなんですか?」
「ええ。子供の頃に読んだ、探偵マンガにはまりましてね。警察が解決できない難事件を、どこからともなく現れた探偵がスカッと解決する。いやぁ、あこがれましたねぇ」
佐藤さんは、明日香さんを、あこがれの眼差しで見つめている。まさか、この警察官、明日香さんに一目惚れしたんじゃないだろうな?
鞘師警部の後輩とはいえ、明日香さんは渡さない!(※桜井明日香は、誰のものでもありません)
僕は、佐藤さんを睨みつけた。
「あなたも、探偵さんですか?」
と、佐藤さんは、僕の視線に気づいているのかいないのか分からないが、僕に聞いた。
「えっ? 僕ですか? 僕は、桜井の助手の、坂井明宏です」
「そうなんですか! うらやましいですねぇ。美人探偵に探偵助手。コンビで難事件を、いくつも解決してきたんですね」
「いや、まあ、それなりには」
まあ、僕はいてもいなくても、関係ないんじゃないかとも思うけど。すると、佐藤さんが急に小声で、僕に耳打ちしてきた。
「危険をともにしていく中で、お互いに相手を好きになっちゃうようなことってないんですか?」
「えっ? い、いや……、そんなことは――」
急に、何を言い出すんだ、この人は。本当に、警察官なのか?
「なるほど、なるほど、分かりました。やっぱり、あるんですね」
と、佐藤さんは、一人で納得している。
「がんばってください」
と、佐藤さんは言った。
「は、はい」
なんだ、いい人じゃないか。
「ちょっと、明宏君。何を、こそこそ話しているのよ?」
と、明日香さんが聞いた。
「い、いえ。なんでもないです」
「そう?」
明日香さんは、怪訝そうな顔をしている。
「さあ、佐藤。無駄話はそのくらいにして、話を聞かせてくれ」
と、鞘師警部が言った。
「えっと……何の話でしたっけ?」
「佐藤、お前は高校の頃から、相変わらずだな。よく、警察官になれたもんだ」
「冗談ですよ。鞘師先輩は、相変わらず真面目ですね。坂口さんのところに、怒鳴り込んで来た人のことですね。よく、覚えていますよ。あの日、僕はいつも通り
今日も一日、平和だなぁ。大都市東京だけど、この辺りでは、ほとんど犯罪は起こっていない。
もちろん、まったく起こらないわけではないけれど、ここ最近は暇で仕方がなかった。
こういうことを言うと誤解されそうだけど、まあ、我々警察官が暇なのは、とてもいいことだ。それでも、僕も鞘師先輩のように、捜査一課で活躍したいものだ。
そんなことを考えているときに、駐在所の電話が鳴った。なんだろう? 何か、事件だろうか?
僕は、少し不謹慎かもしれないけれど、ちょっとドキドキしながら受話器を取った。
「もしもし? ――」
と、僕が言うのと同時に、受話器の向こうから、かなり慌てたような声が聞こえてきた。
「もしもし!? 駐在さん? 新田ですけど」
受話器から聞こえてきたのは、僕もよく知っている、新田さんのお婆さんの声だった。新田さんのお婆さんは、とても元気で、僕の顔を見かけると、いつも元気に声をかけてくれる。
「新田さんのお婆さんですね? どうしました? そんなに慌てて、何かありましたか?」
「今すぐ、家の前の、坂口さんのところに来てちょうだい!」
僕は、新田さんのお婆さんの剣幕に驚いて、何が起こっているのかもよく分からずに、坂口さんの家に向かうことにした。
僕は自転車に飛び乗ると、坂口さんの家に向かった。坂口さんの家は、駐在所のすぐ近くだ。
僕が坂口さんの家の前に到着すると、路上にタクシーが停まっていた。その横には、50代後半くらいのタクシーの運転手と思われる女性と、新田さんのお婆さんが立っていた。
僕は、自転車から降りると、新田さんのお婆さんの元へ駆け寄った。
「新田さん! 何事ですか?」
「駐在さん! 早く早く、坂口さんの家の中に!」
と、新田さんのお婆さんが、坂口さんの家を指差している。
「私じゃ、止められなくて」
と、タクシーの運転手の女性は、顔が真っ青になっている。
「いったい、何が?」
僕は、恐る恐る坂口さんの家に向かった。玄関に近づくにつれ、家の中から男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「お前のせいで、息子は死んだんだ! 黙ってないで、何とか言ったらどうだ!」
僕は、急いで中に上がり込んだ。
声が聞こえてきたのは――あそこか。ドアが、開いている。
僕は、その部屋に入った。
ここは、書斎か――
「ちょっ、ちょっと! 何を、やっているんですか!」
僕は、今にも坂口さんにつかみかかろうとしている60代くらいの男性を、必死で止めに入った。
坂口さんは、何をするでもなく、ソファーに座ったままだった。
「なんだ! 離せ! 私は、何もやってないだろう!」
「落ち着いてください! ――坂口さん、いったい何があったんですか?」
「駐在さん。その方を、離してあげてください。なんでもないですから。悪いのは、すべて私ですから」
と、坂口さんは、静かにそう言った。家の中は、さっきまでの騒ぎが嘘のように、静かになっていた。
「いや、しかし――なんでもないっていうことは、ないでしょう?」
「本当に、なんでもありませんから」
僕は、どうしたらいいのか少し迷ったが、見たところ坂口さんにケガはなさそうだし、坂口さん本人がなんでもないと言うのなら。
僕は、男性から、両手を離した。
「ふん! もういい! 私は、もう帰る。じゃましたな」
と、その男性は言うと、書斎から出ていった。
「あっ、ちょっと待ってください!」
僕は、男性を呼び止めた。
いくら坂口さんがなんでもないと言っても、警察官として、そのまま男性を『さようなら。お気をつけて、お帰りください』と、帰らせるわけにはいかないのだ。
しかし、男性は、もちろん待つことなく、どんどん歩いて行く。僕が、男性を追いかけようとしたとき、
「ゴホッ! ゴホッ!」
と、坂口さんが咳き込むのが聞こえた。
「坂口さん! 大丈夫ですか?」
僕は、慌てて書斎に引き返した。
「大丈夫です……。大丈夫です……」
と、坂口さんは言った。
「坂口さん。ちょっと、座って待っていてください。すぐに、戻ってきますから」
と、僕は言うと、再び書斎を出て家の外に飛び出した。
「はぁ……、はぁ……。あれ? お婆さん、さっきの男性は?」
そこに立っていたのは、新田さんのお婆さんだけだった。
「あれ? タクシーは?」
そこには、僕の乗ってきた自転車だけで、タクシーの姿はなかった。
「出てきてすぐに、タクシーに乗って、あっちに行ってしまったよ」
と、新田さんのお婆さんは、タクシーの走り去って行った方向を指差しながら言った。
「そうですか……。お婆さん、タクシーのナンバーか運転手さんの名前は分かりませんか? タクシー会社の名前でも、いいんですけど」
「いや、分からんねぇ」
「そうですか……」
それはそうだろう。警察官である自分が見ていなかったのに、お婆さんに見ておけというのは、酷である。
まさか、自転車で追いかけるわけにはいかない。こんなことなら、パトカーに乗ってくればよかったかもしれない。しかし、今さらそんなことを言っても仕方がない。
「お婆さん。ここはもういいですから、家に帰っていてください。あとから、お話を聞かせてもらいますから」
と、僕は、新田さんのお婆さんを一度自宅に帰らせると、再び坂口さんの家に戻った。
書斎に入ると、坂口さんは、ソファーに座って目を閉じていた。
ま、まさか――死んでるなんてことは……。
僕も、職業柄、死体を見るのは一般の人よりも慣れてはいるけれど、だからといって気持ちのいいものではない(当たり前だけど)。
僕は、恐る恐る、坂口さんに近づいていった。僕が、坂口さんの肩に触れようとしたときだった。坂口さんが、パッと目を見開いた。
僕は、『ギャーッ!』と、思わず叫び声を上げそうになったが、なんとか堪えた。しかし、驚いたはずみで、帽子を落としてしまった。
「駐在さん。帽子が、落ちましたよ」
と、坂口さんが言った。
「あ、ああ、はい。すみません」
僕は、急いで帽子を拾って、かぶり直した。
よかったぁ、生きてた。
「坂口さん。具合は、大丈夫ですか?」
「ええ、すみません。大丈夫です」
「今の方は、いったいどなたですか?」
「私の会社で働いていた、内藤君の父親だそうです」
「内藤君というと、この前、事故で亡くなった――」
「ええ、そうです」
と、坂口さんは、うなずいた。
「しかし、息子さんが亡くなったのが、坂口さんのせいだというのは、どういう意味でしょうか?」
「…………」
坂口さんは、僕の問いかけにしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「それは、私が内藤君に、無理に残業をさせていたからです」
「そうですか。お忙しかったんですね」
「ええ――まあ……」
と、何故か坂口さんは、言葉を濁した。
「これが、あの日の出来事です。ちなみに、新田さんのお婆さんからも、大した話は聞けませんでした」
と、佐藤さんは言った。
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