第6話
「どうも、すみませんでした。まさか、探偵さんだなんて思わなくて。てっきり、坂口さんを殺した犯人が、何か証拠隠滅でもしに戻ってきたのかと思ったもので」
と、僕に向かって頭を下げているのは、
女性とはいっても、身長は僕とほとんど変わらないくらいで、体重は(こんなことを言ったら、失礼かもしれないけど)僕よりも遥かに重そうだ。
そして、鞘師警部の話によると、新田さんが坂口さんの遺体を発見した、第一発見者であり通報者だそうだ。
「勘弁してくださいよ。身体中が、痛いですよ」
僕は、泣きたいくらいだ(っていうか、本当に涙が出たのは、明日香さんには内緒だ――恥ずかしい)。
「しかし、新田さん。怖くは、なかったんですか? もしも、明宏君が本当に犯人だったら、新田さんも危なかったかもしれませんよ」
と、鞘師警部が言った。
「すみません。たまたま家の庭から見ていたら、いかにも弱そうな男が、一人で入って行くのが見えたもので。刑事さんと、そちらの女性は見えなかったもので。一対一なら、負けないかなと思いまして。私、こう見えても、学生の頃からレスリングと柔道をやっていたので、自信があったもので」
こう見えてもって――そういうふうに、じゅうぶん見えますけど。なんなら、他にも相撲やプロレスもやっていますと言われても、納得するだろう。
「それにしても、情けないわね明宏君。『明日香さーん、助けてー』なんて、男なんだから、鞘師警部を見習って、もっとしっかりしなさいよ」
と、明日香さんは呆れている。
いやいや、明日香さん。新田さんの話を、聞いていなかったのだろうか?
レスリングと柔道をやっていた人に、野球をちょこっとやっていたくらいの僕が、勝てるわけがない。
「明日香さん、もう少し、労ってくれても……」
「甘えるんじゃないわよ」
と、明日香さんは、いつものように素っ気ない。
「そういう割には、真っ先に飛び出していったのは、明日香ちゃんだけどな」
と、鞘師警部が言った。
「えっ? そうなんですか?」
正直、僕は、あまりの痛さで涙が出て、よく分からなかった。
「あ、あれは――私の方が、ドアの近くにいたからですよ。それに、飛び出してなんて……」
と、明日香さんは言った。
「あのう……。私、何もなければ、もう帰ってもよろしいでしょうか?」
と、新田さんが言った。
おっと、今は事件の調査中だった。忘れるところだった。こんなことで、揉めている場合ではない。
「すみません、新田さん。もしよろしければ、坂口さんの遺体を発見したときのことを、お聞かせいただけませんか?」
と、明日香さんが言った。
「そのことなら、もう警察の人には、お話をしたんですけど」
「実際に発見された方から、直接お聞きしたいんです」
と、明日香さんが頭を下げた。
「私の方からも、お願いします」
と、鞘師警部も頭を下げた。あわてて、僕も頭を下げた。
「分かりました」
と、新田さんは、坂口家の玄関で、遺体を発見したときのことを話始めた。
「あの日の朝、私は、洗濯をしていたんです――」
現在、時刻は午前7時過ぎ。
今日から町内会の温泉旅行に出かける、お義母さんを送り出したところだ。
主人も、7時前に、すでに出勤している。
子供たちは、今日は休みなので、まだ眠っているみたいだ。子供たちが起きてくる前に、洗濯をしてしまおう。
私が、洗濯機から洗い終わった洗濯物を取り出していると、自宅の電話が鳴っているのが聞こえてきた。
時計を見ると、7時30分を少し過ぎたところだった。
こんな時間に、いったい誰からだろう? 主人かしら? 何か、忘れ物でもしたのかしら? お弁当は、ちゃんと渡したと思うけど。
「はいはい。ちょっと、待ってね」
と、私は一人言をつぶやきながら、玄関へ向かった。
電話のディスプレイに表示されていたのは、主人の名前ではなく、見覚えのない電話番号だった。
いや――なんとなく、見たことがあるようなないような……。誰かしら? 市外局番は、この辺の番号だけど。
「もしもし、新田です」
と、私は受話器を取った。
「もしもし、純子さん? 私だけど」
電話の向こうから聞こえてきたのは、お義母さんの声だった。
お義母さんは、もう年齢は80が近いが、すごく元気である。集合場所の集会所までも、歩いて出かけていった。
「あら、お義母さん? どうされたんですか? 7時30分に、出発じゃなかったんですか?」
「7時30分に集合で、7時45分に出発よ。今、集会所から電話をしてるんだけど。時間になっても、和夫さんが来ないのよ」
集会所の番号か、どうりで見たことがあるような気がしたのか。
「和夫さんって、お向かいの坂口さん?」
「そうそう、坂口さん。家に電話をかけても出ないから、申し訳ないけど純子さん、ちょっと様子を見てきてくれる?」
「はい、分かりました。一度、電話を切りますね」
私は電話を切ると、外に出て坂口さんの家に向かった。
坂口さんったら、どうしたのかしら? まさか、直前になって、気が変わったのかしら? 坂口さんだったら、あり得そうな気もするけど。
私は、玄関のチャイムを鳴らしてみた。
しばらく待ったけど、坂口さんが出てくる気配はなかった。
どうしたのかしら? まだ、寝てるのかしら?
そのとき私は、玄関の扉のすりガラス越しに、廊下の灯りがついていることに気がついた。ということは、いることは間違いないだろう。やっぱり、寝ているのかしら?
しかし、坂口さんが、こんな時間まで寝ているなんて珍しい。もしかして――中で、倒れているなんてことは……。
私は、扉が開くかどうか試してみた。
まあ、開くわけは――開いた!
私は、外から頭だけを玄関に入れて、
「坂口さーん」
と、呼んでみた。しかし、返事は聞こえてこなかった。家の中は、とても静かだった。
どうしよう……。
もしも、倒れていたら、大変なことになるかもしれない。私は、少しためらったけど、靴を脱いで上がり込んだ。
「坂口さん? いませんか?」
私は、おそるおそる奥に入っていった。
いくらご近所とはいっても、そんなに入ったことはないので、どこに何があるのかは分からないのだが。
私は、廊下を真っ直ぐ進み、台所へ入っていった。台所には、電気はついていなかったけど、テーブルの上には昨日の夕食だろうか? 食べた形跡はなく、そのまま残っていた。
確か、坂口さんの亡くなった息子さんの奥さんが、作りに来ているはずだ。昨日も、車の音が聞こえていた。
私は台所を出ると、そっと洗面所を覗いてみた。そこにも、坂口さんの姿はなかった。っていうか、私は、どうしてこんなに、こそこそしているんだろうか? 泥棒じゃないんだから、もっと堂々としていよう。
洗面所にもいないとなると――私は、お風呂場のドアに目をやった。お風呂場のドアは、閉じられている。
「…………」
もしも――もしも、坂口さんがお風呂に入っていたら、このドアを開けたら、全裸の坂口さんとご対面してしまう。
さすがに、それは……。しかし、もしも中で倒れていたら。
私は、ドアに耳を当てて、中の音を聞いてみた。
「…………」
何も、聞こえない。シャワーの音も、しないようだ(シャワーがついているかどうかは、知らないけど)。
私はドアをノックすると、
「坂口さん、開けますよ!」
と、声をかけ、そっとドアを開けた。
そして、そっと中を覗き込むと、そこには全裸の坂口さんが――もちろん、いなかった。
私は、ホッと一息ついた。ここにもいないとなると、他の部屋だろうか?
一応トイレも覗いたけど(トイレも覗いたなんて言うと、変な意味に取られそうだが)、やっぱり、いなかった。
私は廊下に戻ると、手近な部屋のドアを開けてみた。寝室にはベッドがあったけど(布団じゃなくて、ベッドなんだ)、使った形跡がなかった。
いったい、どこにいるんだろう?
カギをかけないまま出かけたとも、思えないけど。
あっ、もう一部屋あった。ここにいなければ、あとは二階だけど。でも、二階は、もう何年も使っていないと言っていた。
ここは、書斎だったかしら?
「坂口さん、いますか?」
私は、ドアをノックしてから、そっとドアを開けた。
ドアの隙間から、中を覗き込んで見たけど、ここも電気はついていなくて、カーテンが閉まっているので薄暗い。
ここにも、いないか――と、ドアを閉めようとしたとき、床に足のようなものが見えた。よく見ると、それは、足のようなものというか、足そのものだった。
なんだ、こんなところで寝ていたのか。
「ちょっと、坂口さん、起きてくださいよ。もう、皆さん、集合されていますよ。もうすぐ、出発の時間ですよ」
と、私は廊下から、声をかけた。
しかし、坂口さんから返事はなかった。
ぐっすり、眠っているのかしら?
しかし――何か、おかしい。どうして、こんなところで寝ているのだろうか?
寝室まで行くのが面倒だったとしても、書斎の床というのは……。この書斎には、ソファーも置かれている。まだ、ソファーで寝ているのなら分からないでもないけれど。
「坂口さん、入りますよ」
私は、書斎の中に入ると、電気のスイッチを入れた。
電気ががつくと、部屋の中は明るくなった(そんなの、当たり前だけど)。
「坂口さ――」
うん? 何か、様子がおかしい。
坂口さんは、両目を見開いたまま、眠っていた。
いや、眠っているわけではなかった。坂口さんは、額から血を流して、倒れていた。
死……、死んでる?
ま、まさか、そんな……。死んでるなんて、そんなわけ――
しかし、どう見ても、生きているようには見えなかった。
私は、自分でも驚くくらい冷静だった。柔道やレスリングの練習中に、鼻血を流している人を見たことは、あるにはあるけど。
こんなに額から血を流している人を見るのは、初めてだった。
と、とりあえず、警察に電話をかけないと。私は、急いで書斎を飛び出すと、警察に電話をかけたのだった。
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