第3話
「桜井さん、今日はわざわざ来ていただいて、本当にありがとうございました」
と、涼子さんは深々と頭を下げた。
「涼子さん、頭を上げてください。まだ、事件を解決したわけではないですから」
と、明日香さんが言った。
その通りだ。まだ、事件は始まったばかりだ。本当に大変なのは、たぶんこれからだ。
涼子さんの話を聞き終えて、僕たちは、家の外に出てきた。
「そういえば、涼子さん。先ほど、車の調子が悪いとおっしゃっていましたよね?」
と、明日香さんが聞いた。
「あっ、はい」
「具体的に、車の何が悪かったんでしょうか?」
「それが……、たぶん私の気のせいだったんだと思います。アクセルを踏んでも、いつもより、なんとなく加速が悪いというか……。それと、あとで思い返してみると、何か後ろの方から音が聞こえたような気がして……。でも、土曜日に父に見てもらったんですけど、特に異常は見つからなかったです」
「涼子さんのお父さんは、車に詳しいんですか?」
と、僕は聞いた。
「はい。父は定年まで40年近く、自動車の整備士をやっていたので」
「そうですか。ちょっと、車の中を見せてもらってもいいですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「車の中ですか? もちろん、いいですけど。それじゃあ、ちょっと待っていてください。すぐに、カギを取ってきますので」
涼子さんは、車のカギを取りに、家の中に戻っていった。
「明日香さん、車を見て何か分かるんですか? 車のこと、詳しかったですっけ?」
ちなみに、僕は車のことは、全然詳しくない。
「別に、詳しくはないけど。ちょっと、見てみるだけよ」
と、明日香さんは言った。
「明宏君。この車、何人乗りかしらね?」
と、明日香さんが、運転席側から車の中を覗き込みながら言った。
「そうですね――八人か九人くらい、乗れるんじゃないですか? シートが、三列ですし」
と、僕は、助手席側から車の中を覗き込みながら言った。
そのとき、僕は、誰かの視線を感じたような気がして、ゆっくりと振り返った。
「あれっ? 誰ですかね? 隣の家から誰かが、こっちを見てるみたいなんですけど」
と、僕は、明日香さんの方を振り返って言った。
「えっ? どこよ?」
と、明日香さんが、僕の指差す方向を見ながら聞いた。
「あそこですよ――あれっ?」
僕が、再び振り返ったときには、その人物の姿は、すでになかった。
「おかしいなぁ。確かに、誰かがこっちを見ていたと思うんですけど……」
高齢の男性で、けっこうがっしりした体型の人に見えたけど……。
まさか、こんな真っ昼間から、幽霊が出たなんてことは、あるまいし――ま、まさか……。涼子さんの、お義父さんの幽霊が――
ひーっ!
涼子さんの、お義父さんが、自分を殺した犯人を早く捕まえてくれと、僕に訴えているのだろうか……。僕は、背筋が寒くなる感じがした。
「明宏君、どうかしたの? 気分でも悪いの? 顔色が、よくないわよ」
「い、いえ……。お義父さんが……」
「何?」
明日香さんが、こいつ、何を言ってるんだ? という目で、僕を見つめている。
そこへ、涼子さんが、お父さんと一緒に戻ってきた。
「涼子さん。亡くなられたお義父さんって、がっしりした体型の人ですか?」
と、僕は聞いてみた。
「いいえ。お義父さんは、痩せていましたけど……。それが、なにか?」
涼子さんも、こいつ、何を言ってるんだ? という目で、僕を見ているような気がした。
「あっ、いえ。なんでもないです。気にしないでください」
と、僕は、笑ってごまかした。
よかったぁ。お義父さんの、幽霊じゃなかったんだ。
――それじゃあ、誰だ?
ま、まさか……。違う人の幽霊か?
「これは、探偵さん。どうもありがとうございます。わざわざ、家まで来ていただいて」
と、北川さんは頭を下げた。
「何か、家の車に気になることでも?」
「いえ、特に、そういうわけではないです。整備士の北川さんが見ても、何もなかったということですから」
と、明日香さんが言った。
「そうですか」
「ちょっと、カギを開けてもらってもいいですか?」
「はい」
北川さんが、車のカギを開けると、明日香さんは運転席に乗り込んだ。
明日香さんは運転席に座ると、特に何をするでもなく、ハンドルを握ったり、ミラーで後ろの座席を確認したりしている。
僕と北川さん親子は、そんな明日香さんの様子を、黙って見つめていた。
「あの……、明日香さん? 何か、分かりましたか?」
と、僕は聞いてみた。
「そうね――分かったことといえば、この車は、かなり大きいっていうことくらいね」
と、明日香さんは真面目な顔でそう言うと、車から降りた。
「北川さん。車に、おかしなことは、特になかったんですよね?」
と、明日香さんが聞いた。
「はい。私も、40年近く整備士をやってきましたからね。この車も、ちゃんと整備をしていますから、おかしなところがあれば、すぐに分かりますよ」
と、北川さんは言い切った。
「分かりました。それでは、これで失礼させていただきます。一度、現場を見てから、またお話を聞かせていただくと思いますので」
「現場に、入れるんですか?」
「ええ。ちょっと、警察に知り合いがいるもので」
その知り合いとは、もちろん鞘師警部のことだ。
「警察に知り合いが? それは頼もしいですね。やっぱり、桜井さんに依頼をして正解でした」
と、北川さんは言った。
まあ、警察に知り合いがいるからといって、それで僕たちに有利な結果がもたらされるとは限らないけれど。
僕たちが、帰ろうとしたときだった。北川さんが、何か思い出したように、こう言った。
「そういえば、事件とは関係ないかもしれないんですけど。車庫に置いておいたはずの工具が一部、見当たらないんですよね」
「工具ですか?」
と、僕は聞き返した。
「ええ。車庫の奥の方に、置いていたはずなんですけど」
と、北川さんは、車庫の奥の方を指差した。
「何がなくなっているのか、分かりますか?」
と、明日香さんが聞いた。
「そうですねぇ……。ドライバーとか、金づちとかですかね」
「いつから、ないんでしょうか?」
「うーん……。二週間前には、あったと思うんですけどねぇ。どうだったか……」
北川さんの記憶は、あいまいなようだ。
「お父さんの、勘違いなんじゃないの? どこかで使って、しまい忘れただけなんじゃないの?」
と、涼子さんが言った。
「そうかな? もしかしたら、誰かが持っていったのかもしれないし」
「お父さんも、もう年なんだから。そのうち、出てくるわよ。だいたい、そんなもの、誰が持っていくのよ?」
確かに、そんなもの(なんて言ったら、失礼か)盗んでも、高く売れるとは思えないけど。
「北川さん。もしも、誰かが持っていこうと思ったら、簡単に持っていけますよね?」
と、明日香さんが聞いた。
「はい。見ての通り、シャッターが付いているわけではないですから、誰でも自由に入れますけど」
「そうですね――」
明日香さんは、何か考え込んでしまった。
「もうっ、お父さん。そんな関係ないことを、言わないでよ。桜井さんも、困ってるじゃないの」
「いえいえ。何がヒントになるか、分からないですからね」
と、僕は言った。
実際に、些細なことから事件が解決することも、珍しいことではない。しかし、これは関係ないだろう。
「明日香さん。そろそろ、行きましょうか」
「…………」
「明日香さん?」
「えっ? ああ、ごめんなさい。そうね、行きましょうか。それでは、北川さん。これで、失礼します」
僕たちは、北川さんの家を後にした。
「明日香さん、どこかで、お昼を食べてから行きますか?」
時刻は、ちょうどお昼時だ。
「そうね」
と、明日香さんは、うなずいた。
「何を、食べますか?」
「明宏君、止めて!」
と、明日香さんが、いきなり叫んだ。
僕は、あわててブレーキを踏んだ。車は、キーッと音を立てて止まった。
「明日香さん、どうかしましたか?」
「もうちょっと、優しく止まりなさいよ」
と、明日香さんは言った。
そんなむちゃな。いきなり止まれと言われたら、こっちも焦ってしまう。
「明宏君。ちょっと、戻って」
「何か、忘れ物ですか?」
北川さんの家を出てから、まだ100メートルも進んでいない。
「いいから、戻って」
「はい。分かりました」
狭い道なので、Uターンするのは難しいから、僕は車をそのままバックさせた。
後ろから車が来たら、迷惑この上ないな。
数十メートル、バックさせたところで、
「明宏君、ストップ」
と、明日香さんが言った。
「まだ、北川さんの家じゃないですよ?」
「いいから、止めて」
僕は、車を停車させた。
明日香さんは、車を降りた。
ここは、北川さんの隣の家だった。さっき、涼子さんの話に出ていた、吉岡さんという人の家だ。
明日香さんは、すたすたと玄関に向かって歩いていく。いったい、吉岡さんに何の用があるのだろうか?
僕は、このまま路上駐車しておくわけにはいかないので(明日香さんだったら、するかもしれないけど)、庭に車を入れた。
僕も、車を降りると、急いで明日香さんを追いかけた。
玄関には、
明日香さんがチャイムを鳴らすと、すぐに60代くらいの(北川さんと、同じくらいだろうか?)、年のわりにはがっしりした体格の男性が顔を出した。
「何か、ご用ですか?」
と、その男性は、僕たちを見つめている。
あっ!
その顔に、僕は見覚えがあった。さっきの幽霊だ。ということは、幽霊ではなく、生きた人間だったのだ。
よかったぁ。僕は、ホッとした。
「吉岡さんですよね? それは、こちらのセリフです。私たちに、何かご用でしょうか?」
と、明日香さんが言った。
「ええ、吉岡ですけど。どうして私が、あなた方に用があると?」
と、吉岡さんは聞き返した。
「ずっと、私たちの方を見ていましたよね? 私たちの車が吉岡さんの家の前を通りすぎたときも、門の陰から見ていましたよね?」
「見ていたら、だめなんですか?」
「吉岡さん。先ほど、私に『何か、ご用ですか?』と、聞きましたよね? 『誰ですか?』とは、聞かなかった。私が探偵だと、知っているんじゃないですか? 知っていながら、こっそり見ていたのは、何か理由があるんじゃないでしょうか?」
「北川さんの奥さんから、探偵さんが家に来るっていう話を聞いていたから、どんなものか気になって、見ていただけですよ」
「そうなんですね。それは、失礼しました」
と、明日香さんは、頭を下げた。
「いえいえ、構いませんよ。北川さんの娘さんが、疑われているんですよね? あんな、いいお嬢さんが、人を叩いて殺すなんてあり得ないですよ。いくら、打ち所が悪かったとはいっても、あんな華奢なお嬢さんが、男性を殺せますか? それに、相手は、旦那さんの父親なんでしょう? どうして、義理の父親を殺すんです? おかしいですよ」
「そうですね。私も、涼子さんと話してみた感じでは、殺人を犯すような人には思えませんでしたね」
と、明日香さんは、うなずいた。
「吉岡さんは、こちらには、お一人でお住まいなんですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「ええ、そうです。お恥ずかしい話、だいぶん前に、離婚をしましてね。一人息子も、
正子というのは、別れた奥さんの名前だろう。
「そうでしたか――すみません、嫌なことを思い出させてしまいましたね……」
「いえいえ、お気になさらないでください。もう、昔のことですから」
と、吉岡さんは笑った。
「吉岡さんは、どうしてこちらに引っ越しをされたんですか?」
「今まで住んでいたところが、もう古くなりすぎましてね。それで、いっそのこと引っ越してしまおうと思い立ちましてね。いろいろと探していましたところ、ここを見つけたんです。近所の方々もいい人たちばかりで、ここを選んで正解でした」
「息子さんは、今は、どうされているんですか?」
と、僕は聞いた。
「――息子ですか……。さて、どうしているんでしょうね」
「分からないんですか?」
「ええ。息子は、遠くにいるもんでね」
と、吉岡さんは、遠くを見るようにつぶやいた。
遠く? 海外にでも、いるんだろうか?
「そろそろ、よろしいでしょうか? 昼から、病院に行かないといけないんで、早くご飯を食べてしまいたいんでね」
「お車ですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「まあ、車といえば車ですけど、タクシーです。私は、免許を持っていないものでね」
「それでは、これで失礼します」
僕たちは、吉岡さんの家を後にした。
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