第2話
先週の金曜日、午後6時58分――
「お母さん、そろそろ行ってくるね」
と、私は母に告げると、食材を持って玄関に向かった。ちなみに、食材は昼間のうちに買ってある。
私は、毎週水曜日と金曜日は、これくらいの時間に、月曜日は洗濯や掃除もするので、二時間ほど早く出かけている。
もう少し早く行ってもいいのだが、お義父さんは夕食を食べる時間が遅い人なので、自然とこの時間になってしまった。
それでも、早く行けばいいといえば、いいのだが、せめて一食だけでも、作りたてを食べてほしいのだ。
「涼子。ちょっと雨が降っているから、運転は気をつけてね」
「うん、分かってる。それじゃあ、いってきます」
私が外へ出ると、少し雨が降っていた。まあ、雨とはいっても、この程度の雨だ、たいしたことはないだろう。
私は、小走りに車庫へと向かい、助手席に食材を乗せると、自分も車に乗り込んだ。
このワゴン車は、父の車で、私が結婚をした頃に買ったものだ。
父は、私に子供がたくさん生まれたら、この車にみんなを乗せて、旅行に行こうと笑っていた。
私は、『お父さん、そんなの気が早いわよ。まだ、一人も生まれてないんだから』と、言っていた。
結局、一人も生まれることはなく、和彦さんは、ちょうど一年前に亡くなってしまった。
原因は、癌だった。若かった為、進行が早く、癌だと分かったときには、もう手の施しようがなかったのだ……。
結局、今は、父は運転をすることはほとんどなく、私が運転をしている。
私は、いつものようにエンジンをかけると、アクセルを踏み込んだ。庭から道路へ出ようとしたところで、ミラー越しに、母が駆け寄ってくるのが見えた。
雨の中、どうしたんだろう?
私は、もしかして、父になにかあったんだろうかと思い、慌ててブレーキを踏んだ。
父は、お風呂に入っていたはずだけど――
「お母さん、どうしたの?」
私は、車を停めると、窓を開けた。
「涼子、電話よ」
「電話? 誰から?」
とりあえず、父になにかあったわけではないと分かり、ホッとした。
「お隣の、
「吉岡さんから? なんだって?」
吉岡さんとは、三ヶ月程前に、空き家になっていた隣に引っ越してきた、60代の一人暮らしの男性だ。どうして、そんな年齢になってから引っ越してきたのか不思議ではあったけれど、とても人当たりのいい穏やかな人だ。
「さあ、分からないけど、涼子に代わってくれって」
「分かったわ」
私はエンジンをかけたまま車を降りると、母と一緒に家の中に戻った。
「もしもし、吉岡さん?」
「涼子さん、出かけるところ申し訳ない。帰ってからにしようかと思ったんだけど、忘れるといけないから」
ちなみに、吉岡さんは、私が和彦さんのお父さんの家に行っていることを知っている。二ヶ月くらい前に、話したことがある。
私が、しょっちゅう夜に出かけて行くのを不思議に思って、どこに行っているのか聞かれたのだ。吉岡さんは、そんな私の行動に、とても驚いていたようだった。
「なんでしょうか?」
「ゴミ袋を頼むのを、忘れていたもんでね」
「あっ、はい。ゴミ袋ですね。分かりました」
私たちの地区では、班長がまとめてゴミ袋を注文することになっている。今年は、私の家が班長の番だった。
「この前と、同じだけでいいから。よろしくお願いします」
と、吉岡さんは言うと、さっさと電話を切ってしまった。
「吉岡さん、なんだって?」
と、母が聞いた。
「うん。ゴミ袋の注文だって」
「それだけ? ゴミ袋だったら、わざわざ涼子じゃなくて、私に言ってくれたらいいのに」
「私に言われても、知らないわよ」
私は台所に入ると、注文用の伝票に書き込んだ。
「なんだ涼子、まだいたのか」
と、父がお風呂から上がってきた。
「うん。もう、行くよ」
「気をつけてな」
と、父は言いながら、テレビをつけた。
「うん? こんな時間に映画をやっているのか、珍しいな」
そういえば、明日から人気映画の新作が公開されるとかで、前作を地上波初放送するとか、コマーシャルで見たような気がする。
9時からは、海外でのサッカーの国際試合の生中継があるため、この時間になったとか、ワイドショーで言っていたような気がする。
しかし、私は地上波の映画放送は、あまり好きではない。何故なら、放送時間の関係上、カットされる部分が多いからである。特に、エンディングテーマやエンドロールのカットは腹立たしい。そこまであっての、映画だろう。
今日も、7時から8時54分までの放送なので、カットされまくりだろう。まあ、今は、そんなことを考えている場合ではない。早く行かないと、遅くなってしまう。
「いってきます」
私は再び外に出ると、駆け足で車に乗り込んだ。
チラッと、隣の吉岡さんの家に目をやると、台所の明かりがついているのが見えた。食事中だろうか? まあ、いいや。
私は、今度こそ、坂口家へ向かって、車を走らせたのだった。
私は、7時40分に坂口家にやって来た。
いつもより5分遅く出ただけだけど、いつもより10分遅く着いてしまった。気のせいかもしれないけれど、車の調子が悪いような気がした。
どういうふうに悪いのかと言われても、上手くは説明できないのだけど……。
まあ、いいや。帰ってから、父に聞いてみよう。
私は、家の裏へと車を回した。裏から作業場の方へ回った方が、少しだけだが屋根があるので、多少は雨に濡れないですむ。
私は、作業場の前で車を停めた。
坂口さんは、金属を加工したりする仕事をやっていた。和彦さんが亡くなってからは、仕事も辞めてしまったけれど。
何人か従業員を雇っていた頃もあったのだけど、二年前に最後にいた若い従業員が事故で亡くなってからは、一人だけでやっていたみたいだ。
私は、玄関に回ると、チャイムを鳴らすことなく扉を開けた。
これは、いつものことだ。最初の頃は鳴らしていたけれど、繰り返すうちに、鳴らしても和彦さんのお父さんは出てこなくなった。
いちいち鳴らさなくても、この時間に訪ねて来るのは、私だと分かっているからだろう――と、私は判断をして、今では鳴らさずに入っている。
「おじゃまします」
それでも、無言で上がり込むのは気が引けるので、声はかけている。おそらく、聞こえてはいないだろうが。それでも、帰るときは書斎を覗いて、顔を見てから帰っている。そのときも、お義父さんは、あまり話はしたがらないのだけど。
私は、台所へ向かった。
あれ? 珍しく、台所に明かりがついている。
私が台所に入ると、お義父さんがイスに座っていた。
「こんばんは。珍しいですね、どうかされましたか?」
「うん……。ああ、実はな、明日から、一泊で温泉旅行に行くことになってな」
「えっ!? 温泉旅行ですか?」
私は、お義父さんの口から、温泉旅行などという言葉が出てくるとは思ってもみなかったので、とても驚いてしまった。
「そんなに、驚くことはないだろう」
「いえ、すみません。お義父さん、私が美術館にでも行ってみませんかと誘っても、出かけるのは嫌いだとおっしゃっていたから。つい――」
「美術館は、単に興味がないからだ。温泉旅行も、そこまで興味があったわけではないが、近所の連中に、無理やり誘われてな。あまりにもしつこいから、一回くらいは行ってやることにした」
「そうですか。それは、よかったですね。楽しんできてください」
「別に、よくは、ないがな。だから、今日の夕食だけでいいぞ。明日の朝は、残り物を食べるから」
『よくは、ない』と、言いながらも、少し楽しそうに見えたのは、私の気のせいだっただろうか?
「分かりました。それでは、すぐに作っちゃいますね」
「ああ」
お義父さんはそう言うと、台所から出ていった。おそらく、書斎に行ったのだろう。
さて、どうしようかしら?
そうならそうと、事前に言っておいてほしかったのだけれど。まあ、それでも、ほとんど外出をすることがなかったお義父さんが、外出をする気になってくれただけでも嬉しいことだ。
しかし、食材がたくさん余ってしまう。とりあえず、来週の月曜日でも使えるものは、冷蔵庫に入れておこう。
私は、普段は、今、食べる分を最後に作って、一食だけでも作りたてを食べてもらうのだけど、今日はその一食だけということだ。
私は、さっそく調理に取りかかった。
私は、30分程で調理を終えて、台所を簡単に片づけると書斎に向かった。
ドアをノックして、
「お義父さん、もう少しでご飯が炊けるので、炊けたら食べてください」
と、声をかけた。
「ああ、分かった」
と、ドア越しに声が聞こえた。
「それじゃあ、私、帰りますから、旅行を楽しんできてください」
と、声をかけて、玄関に向かった。
外に出ると、もう雨は止んでいた。しかし、水たまりが、所々にできている。短時間で、けっこう降ったみたいだ。
私は、水たまりを避けながら、車に戻ると、自宅へと向かった。
私は、9時ちょうどに自宅に帰ってきた。
帰りは、特に車の調子が悪いとは感じなかった。私の、気のせいだったのだろうか? それとも、雨のせいでそう感じただけだろうか?
こっちの方は、雨はすぐに止んだのだろうか? あんまり濡れていないし、水たまりもできていない。
私は、車から降りると、何気なく吉岡さんの家に目をやった。まだ、台所に明かりがついている。普段は、消えているのに。まさか、まだご飯を食べているのだろうか? まあ、他人のことなど、どうでもいいのだけど。
「ただいま」
「おかえりなさい、早かったわね」
と、母が迎えてくれる。
「うん。明日から、温泉旅行に行くから、一食分だけでいいんだって」
「そう、珍しいわね」
「近所の人に、しつこく誘われたんですって。その割には、嬉しそうに見えたけどね」
「涼子、お風呂に入っちゃう?」
「うん。お父さんは?」
玄関に、父の靴がなかったような気がする。
「ああ、お友達から電話がかかってきてね、急に麻雀のメンバーが一人足りなくなったんだって。それで、自転車で出かけていったわ。涼子が出かけてから、10分後くらいだったかしら? 雨も、すぐに止んじゃってたから」
「そう。それじゃあ、お風呂に入ってくるわ」
そして、私は、翌日の夜のニュースで、お義父さんが殺されたことを知ることになるのだった――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます