シオンのうた(The song of Zion)

社会科学研究会

シオンのうた


母へ



 ここは東京。この街の一角に、ソフィアは住んでいる。彼女は、この街に慣れていない。その理由は、彼女が日本人ではないからだ。しかし、それだけではない。ソフィアは、おそらくどこへ行っても、自分の居場所はないだろうと感じていた。


 ソフィアの一日は、朝起きてコーヒーを淹れるところから始まる。そして、着替えてから、窓を開け、外にいる猫に餌をやる。もうずっと前から同じような一日の始まりを続けているように感じる。だから、ソフィアは、自分がおばあさんになったような気がする。


 ソフィアは一人で暮らしている。彼女には、子どもも夫もいない。家族を持つことなど、考えたこともない。それが彼女にとっての普通だった。他の人間にとっては自分が普通で、ソフィアにとってもまた、自分が普通だった。


 天気の良い日、ソフィアは外出する。どこに行くわけでもない。特定の居場所があるわけでもない。ただ。あまり考えすぎないようにするためだ。行くあてもなく歩く。何が起こるわけでもないが歩く。


 ソフィアは、自分には守るべきものは何一つないと思っていた。家族も、社会的な地位も、財産も、彼女は何も持っていない。持っていないから失うこともない。それで良いと思っていた。それが良いと思っていた。


 春が来たと思うと、あっという間に夏が来る。夏の暑さに疲れていると、知らぬ間に風が冷たくなっている。日本には四季がある。季節は、人間の気も知らず、残酷に過ぎ去っていく。だが、季節を気にしたりしなければ、心を揺り動かされることもない。ソフィアは、早く時が過ぎれば良いと思っていた。しかし、時が過ぎ去って一体何になる?何を待っている?そんなことはわからない。


 ソフィアにとって、人生は過ぎゆくもの。それは透明で、実感がなく、何の重みもなく、そして彼女にとって無関係なもの。彼女は、自分が生きているのか、死んでいるのかわからなかった。彼女は生きるように死んでいた。あるいは、死んだように生きていた。


 ある夜、ソフィアは夢を見た。彼女は、一瞬それが夢か現実かわからなかった。彼女は、真っ暗なトンネルのような場所にいた。その場所から抜け出そうとして、彼女は歩いた。しかし、歩いても歩いても出口は見えなかった。彼女は、その場に崩れ落ちた。彼女は跪き、自分の無力さを責めた。

「どうして…。どうして、こんなことになってしまったの?私は何もわからない。どうすれば?どうすれば?」

ソフィアの目から涙が溢れ出した。

「どうして…?どうして、涙が出るの?今まで泣いたことなんてなかったのに…」

涙は止まらなかった。その時、彼女は目を覚ました。彼女は、ベッドの上に寝ていた。時計を見ると、いつも起きる時刻だった。彼女の眼は濡れていなかった。泣いた形跡もなかった。彼女は、不思議な体験をした気がしたが、そんなことは気に留めず、さっさと忘れてしまおうと思った。そして、いつものようにコーヒーを淹れ、着替え始めた。


 それから一か月くらい経ったころ、ソフィアは再び夢を見た。

 彼女は、ある小さな村にいた。彼女は、どうやらその村の住人の一人のようだった。村人たちはみな笑顔で互いに他愛ないことを話したり、一緒に食事をしたり、働いたりしていた。ソフィアも、村人の中に溶け込み、生活を共にしていることに何の疑いも持たなかった。

 そのとき突然、今まで晴れていた空が闇に覆われ、辺りが真っ暗になった。ソフィアは驚いて、辺りを見回した。すると辺りには、さっきまで一緒にいたはずの村人たちが一人もいなかった。ソフィアは不安になり、村人たちを捜した。彼女は、村人たちの家を一軒一軒回った。しかし、いくら呼んでも返事はなかった。彼女はひとりぼっちだった。彼女は、その場にひざまづいた。

 「どうしてこうなってしまったのか、完全にはわからない…。だけど、少しだけなら思い出すことができそうな気がする。ほんの少しだけなら…」

 ソフィアは、自分の記憶をたどった。しかし、彼女は何も思い出せなかった。

 「何も思い出せない。ああ…。でも一つだけ確かなことを思い出したわ。そう、これはすべて私のせいなの…。ごめんなさい。ごめんなさい…」

 ソフィアの目から涙がこぼれた。

 そのとき、彼女は目を覚ました。彼女はベッドの上にいた。彼女は、自分の頬が濡れていることに気づいた。時計を見ると、もう正午だった。彼女は頬を手で拭った。彼女の全身は汗でびっしょり濡れていた。彼女は、放心状態でベッドの上に座っていた。


 それから一か月ほど経ったある夜、ソフィアはまた夢を見た。

 彼女は、自分が夢の中にいるとわかっていた。突然、辺りの風景が変わった。ここはどこだろう、と彼女は思った。そして辺りをよく見ると、そこは見覚えのある風景だった。そこは彼女の住んでいる部屋だった。それは夢ではなかった。彼女は動こうとした。しかし、彼女の身体はまるで金縛りにあったかのように、ぴくりとも動かなかった。彼女は、猛烈な喉の渇きと苦しみを感じた。

 そのとき、彼女の目の前に強烈な光が現れ、辺りのものはすべて照らされた。彼女は目がつぶれるかと思った。しかし、彼女は目を閉じなかった。すると、彼女の目の前がいよいよ真っ白な光に満ちた。彼女は懸命に目を開けていた。

 彼女の目の前に現れた方は、まぎれもなく、天と地を創造され、それらを司り、人間を創造された私たちの父であられる神(God)であった。

 彼女には、そのことがわかった。彼女は、驚きとおそれ、そして、神の愛(the love of God)とに満たされ、とても身動きをとることができなかった。

 神(God)は仰った。

 「ソフィア」

 彼女は身動きがとれず、声を出すこともできなかったが、目をしっかりと開けて、耳を澄ましていた。

 「お前は、今度の満月の夜、一人の男の子を産むだろう。そのことは、お前のほかに誰も知りえない。お前はその子のために、これから大変な体験をする。今から起こることは、そのほんの一部にすぎない。ソフィア。お前は今、三つの約束をしなさい。一つ目は、これからどんなことが起こっても決して目を背けないこと。二つ目は、決して恐れないこと。三つめは、いのちを守ること。お前はこれから、私が命じた地に行くことになる。約束を守りなさい。約束を思い出しなさい。私の声にきき従いなさい。」

 ソフィアは、御言葉を最後までしっかりときいた。そして、静かに決意をした。何があっても、神(God)との約束を守る決意を。

 その日から、ソフィアの人生は動き出した。


 ソフィアは毎日、外に出るようになっていた。彼女は毎日、家の近所を掃除し、駅前に座っているホームレスの人々に食べ物を配った。そして、目の見えない人や身体の不自由な人、困っている人々を見つけると、彼女は迷わず手を差しのべた。

 ときには、こんなこともあった。

 ある日、ソフィアは一人の老人が困った様子で何かを捜しているところに出くわした。ソフィアは老人に声をかけ、事情をきいた。すると、その老人は自動販売機の下の隙間に小銭を落としてしまって取れない、と言う。

 ソフィアはすぐに自動販売機の下をのぞき込み、小銭を捜した。しかし、小銭はなかなか見つからない。彼女は持っていた鞄を一旦地面に置き、自動販売機の下をくまなく捜した。しかし、小銭は見つからない。彼女は、自分の持っているお金を老人に分け与えようと思い、立ち上がって後ろを見た。

 すると、さっきまでそこにいたはずの老人はいなく、置いていたソフィアの鞄はなくなっていた。彼女は、老人が鞄を持って行ったのだと思い、安心した。彼女は誰も恨まず、憎まなかった。手持ちのお金はなくなったが、今月の食費を切りつめて空腹を我慢すれば何とかなる、と思った。彼女は毎日の空腹には慣れていた。それも、困っている人を見つけると、すぐに自分の持っている物を与えてしまうためだった。


 神(God)との約束の日からだいぶ月日が経った。ついにそのときが来た。満月の夜が。

 ソフィアは、いつもの時刻に就寝の準備をして、ベッドに横になった。彼女は目を閉じ、約束を思い出していた。そして、彼女はよろこびに包まれながら眠りについた。


 ソフィアが目を覚ますと、もう朝になっていた。彼女はベッドから起き上がり、神(God)の御言葉を思い出した。

 ”お前は、今度の満月の夜、一人の男の子を産むだろう”

 ソフィアは、赤ん坊がいないか捜した。しかし、捜しても捜しても、彼女の部屋に赤ん坊はいなかった。彼女は赤ん坊を捜しながら、自分の目から大粒の涙があふれてくるのを感じた。彼女はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。こんな風に泣くのは、子どものとき以来だった。

 ソフィアは、泣きながら自分の部屋を飛び出した。走りながら、彼女の足は河の方へ向かっていた。彼女はつらいときや思い悩んだとき、よく一人で土手に座って河を眺めていた。

 彼女は土手に着くとそこに座り、そのまま一人で泣きつづけた。彼女には、周りの風景も周りの音も関係なかった。彼女はひとしきり泣きつづけた後、立ち上がって自宅の方へ歩き始めた。彼女はまるで抜け殻のようだった。

 ソフィアは自宅の前に着いた。するとそこには、しゃがんで、顔を伏せて泣いている一人の子どもがいた。見たところ、小学生くらいの男の子だった。

 ソフィアは、男の子に話しかけた。

 「どうしたの?」

 男の子は何も答えず、ただ泣いていた。

 「どうしたの?何かあったの?」

 男の子は何も答えなかった。

 「とりあえず、部屋の中に入ろうか。ここ寒いから」

 そう言って、ソフィアは泣いている男の子を立ち上がらせて部屋の中に入れた。

 部屋の中に入っても、男の子はまだ泣いていた。ソフィアは男の子を座らせ、お湯を沸かした。彼女は、男の子に温かいコーンスープを出した。そして、男の子のために毛布を出した。男の子はしばらく泣いていた。

 ソフィアは、男の子のために何か食べる物を買って来ようと思い、外に出た。

 彼女が買い物を済ませて部屋に帰って来ると、男の子は毛布にくるまって眠っていた。置いておいたスープはなくなっていた。彼女は、男の子のために枕と毛布をもう一枚出し、男の子をベッドの上に寝かせた。


 翌朝、ソフィアはソファの上で目覚めた。彼女は、ベッドの上に男の子が寝ているのを見て、昨日起きたことを思い出した。彼女は起き上がり、男の子の着替えを用意して、ベッドの横に置いた。そして、朝食の準備をした。しばらくして、彼女がベッドの方を見ると、男の子は目を覚ましていた。彼女は、男の子に、着替えて朝食を食べるように言った。男の子は服を着替えて、食卓の方へ来た。

 朝食を並べたテーブルに向かい合って、ソフィアは男の子に尋ねた。

 「お家の電話番号、わかる?」

 男の子は黙ったまま、首を横に振った。

 「住んでいるお家の場所は?」

 男の子はまた、首を横に振った。

 ソフィアは困って男の子に尋ねた。

 「自分の名前、わかる?」

 男の子は首を横に振った。ソフィアは肩を落として言った。

 「電話番号も、住所も、名前さえわからないのね…。せめて、お母さんやお父さんに連絡する方法があれば…」

 すると、男の子がはじめて口を開いた。男の子はうつむきながら、小さな声でつぶやいた。

 「お母さんもお父さんもいないよ…」

 その瞬間、ソフィアは男の子の身体を抱きしめていた。

 ソフィアはすべてを理解した。

 そして決心した。自分の手でこの子を育てる決心を。


 男の子は、自分の名前がわからなかった。ソフィアは、彼を何と呼べばよいかと考えていた。

 ある日、ソフィアは台所に立って夕食の準備をしていた。ソフィアがふと男の子の方へ目をやると、男の子は床に座りながらテレビの画面をじっと見つめていた。ソフィアは一度手を止めて、男の子の近くに歩いて行った。そして、彼女はテレビの画面を観た。すると、テレビの画面には、チーターが草原の中で獲物を追いかけている映像が映っていた。チーターは、素早い動きで獲物を捕らえていた。それを見て、ソフィアは思った。

 ”あの夜、神(God)の御言葉をきいたときも、ほんの一瞬だった…”

 彼女は、男の子のことを”しゅん”と呼ぶことに決めた。彼女は、男の子に向かっておそるおそる尋ねた。

 「あなたのこと、しゅんって呼んでいいかしら?」

 男の子は、ソフィアの方を見て小さくうなずいた。こうして、男の子の呼び名は”しゅん”になった。


 ソフィアは、しゅんを小学校に入学させる手続きをした。彼女は、しゅんのためにランドセルを買い、学校に来ていく服も買った。しゅんは、新しいランドセルを買ってもらってよろこんでいた。彼はソフィアに言った。

 「ありがとう」

 しかし、彼はソフィアのことを何と呼べばよいのかわからなかった。


 ある日、ソフィアはいつものように二人分の夕食をつくって、しゅんの帰りを待っていた。しかし、いつもの時間になっても、しゅんは帰って来ない。ソフィアは、しゅんが学校に残って遊んででもいるのだと思い、変わらず待っていた。しかし夜遅くなっても、しゅんは帰って来ない。ソフィアは心配になり、学校に電話をかけた。しかし、学校の先生によると、しゅんはもうとっくに学校を出たとのことだった。

 ソフィアは急いで上着を着て、外に出た。外は真っ暗だった。彼女は、家の近くの公園という公園をくまなく捜した。

 「しゅん!どこに行ったの?」

 ソフィアは交番にも行った。

 「あの…、小学生の男の子を見ませんでしたか?しゅんという名前なんです!」

 警官は、「そんな男の子は見ていない」と言った。

 ソフィアは暗い夜道をひとりで歩きながら、肩を落としていた。ふと、彼女の脳裏にしゅんの姿がよぎった。彼女は泣きそうになった。涙をこらえて、彼女はまた歩き出そうとした。しかしそのとき、彼女の目から涙がこぼれた。やがて、涙があふれてきて止まらなくなった。彼女はその場に崩れ落ちた。

 彼女は、神(God)に祈った。

 「ああ、神(God)よ。どうか私の願いをおききください。あなたが私の息子を創造し、そして私とめぐり合わせてくださいました。しかし今、私は自分の息子と離ればなれになってしまいました。どうか、どうかお願いです。息子と…。息子とふたたび会わせてください」

 彼女は涙を流しながら、祈った。

 彼女が顔を上げると、そこにはしゅんが立っていた。彼女は目を疑った。しゅんは恥ずかしそうに、下を向いて言った。

 「ごめん」

 ソフィアは立ち上がり、しゅんを思い切り抱きしめた。しゅんの肩に、ソフィアの涙がこぼれ落ちた。

 「よかった…。よかった…」

 ソフィアはただ、しゅんの身体を抱きしめていた。

 やがて、ソフィアはしゅんの身体を離して言った。

 「さあ、帰ろう」

 しゅんはうなずいた。

 ソフィアはしゅんの手を握り、家に向かって二人で歩き始めた。ソフィアは、しゅんに何も尋ねなかった。ただ、しゅんが無事でいることが、そして、しゅんが自分のそばにいることが彼女のすべてだった。


 しゅんは、学校でいつもひとりでいた。授業中も、休み時間も、帰るときも、いつもひとりだった。クラスの中の誰一人として、しゅんのことを気にする子はいなかった。

 新しく学校に入学したしゅんには、友だちが一人もいなかった。学校では誰も、しゅんと関わろうとしなかった。先生さえも、しゅんのことを気にかけていなかった。しゅんが学校を休んだときも、誰も心配することはなかった。

 しゅんは時折、授業中に教室にいなかったが、先生もクラスメイトも誰一人気にしなかった。また、しゅんはいつも、給食の時間には教室にいなかった。教室でクラスの皆と一緒に給食を食べるのが嫌だったからだ。彼は給食の時間、屋上か階段の隅っこにいた。そして、昼は何も食べずに水を飲んで過ごした。しゅんは、学校が終わるといつも家にまっすぐ帰らず、ひとりで街の方や河原へ行った。そして、辺りが暗くなるまでひとりで時間を過ごした。そして辺りが暗くなってから、彼は家に帰るのだった。


 ある日、しゅんが熱を出した。ソフィアは、しゅんに毛布をかけながら言った。

 「しゅん。お母さん、今お薬買って来るからね。横になって大人しく待っているのよ」

 しゅんは、黙って小さくうなずいた。

 ソフィアはしゅんに尋ねた。

 「しゅん、何か食べたいものある?」

 しゅんは、「べつに」と答えた。

 「じゃあ、ヨーグルトかゼリーでも買って来ようか」とソフィアは言った。

 しゅんは小さくうなずいた。

 「じゃあ行って来るからね」

 ソフィアは出かけた。

 家を出て歩いていると、ソフィアはふと思った。

 ”しゅんはちゃんと大人しく寝ていてくれるだろうか。またひとりで、どこかへ行ってしまわないだろうか”と。

 そう思うと、ソフィアは足早に歩いた。

 ソフィアは買い物を済ませて、部屋に帰って来た。

 「ただいま」

 しかし、ベッドの上にはしゅんがいなかった。ソフィアは買い物袋を床に置いた。

 「しゅん!」

 彼女はベッドの下や台所、トイレなどを捜した。

 彼女が風呂場を捜しているとき、彼女の背後に気配がした。振り向くと、しゅんが立っていた。彼は手に、パン屑が入った小瓶を持っていた。しゅんは言った。

 「外に鳥がいたから、これあげてた…」

 「またいなくなっちゃったのかと思った…」とソフィアは言った。

 彼女の目には涙が溜まっていた。しゅんは、黙ってうつむいていた。

 ソフィアはしゅんに近寄り、彼を抱きしめた。

 「さあ、朝ごはん食べて、お薬飲んで寝よう」


 ある日曜日の午後、ソフィアとしゅんは買い物に行った帰り、家まで一緒に歩いていた。しゅんは両手に買い物袋を持ち、ソフィアは片手に買い物袋を持ちながら歩いた。ソフィアは、いつものように自分に対する周囲の人々の視線を感じていた。それはまるで、異質な物体をもの珍しそうに見るような視線だった。いつもは自分一人だから平気だ。しかし、今日はしゅんと一緒だから事情が違う。

 良く晴れた日だった。ソフィアはしゅんに言った。

 「ねえ、しゅん。」

 しゅんは顔を上げた。

 「しゅん。お母さんが外国人で恥ずかしくない?」

 しゅんは、何も答えなかった。

 ソフィアは、「ごめんね」と言った。

 すると、しゅんは急に立ち止まった。そして言った。

 「謝らなくていいよ。なんで、お母さんが謝るんだよ。なんで…」

 しゅんの目には涙が浮かんでいた。

 ソフィアは驚いて立ち止まった。しゅんが自分のことを「お母さん」と呼んでくれたことが何よりもうれしかった。それは、はじめてのことだった。

 ソフィアの目から一粒の涙が流れた。


 クリスマスの時期が近づいていた。ソフィアは、しゅんと一緒にクリスマスツリーの飾りつけをしていた。そのとき、しゅんがぼろぼろにすり切れた大きな紙を手に持って眺めていることに、ソフィアは気づいた。ソフィアはしゅんに近寄り、言った。

 「しゅん。それ、何?」

 その紙をよく見ると、それは大きな世界地図だった。ソフィアとしゅんはしばらく、大きな世界地図を眺めていた。突然、しゅんが口を開いた。

 「お母さんが生まれた場所ってどこ?」

 ソフィアは地図を指さして言った。

 「ここがお母さんの生まれた場所よ」

 ソフィアの指さした場所を、しゅんはよく見た。

 「ここが日本よ。そして、こっちがお母さんの生まれた場所」

 しゅんは地図を見つめて言った。

 「イスラエル…?」

 そのとき、ソフィアは、しゅんをまだ自分の生まれ育った場所に連れて行ったことがないことに気づいた。


 ある日、しゅんは学校から帰って来ると、ソフィアに言った。

 「あのさ…。ききたいことがあるんだけど」

 ソフィアは、いつも自分から話さないしゅんが口を開いたことに少し驚いた。

 「あのさ、僕の名前の由来って何?」

 ソフィアは、しゅんの突然の問いに一瞬とまどった。ソフィアが黙っていると、しゅんが恥ずかしそうに言った。

 「今度の土曜日、授業参観があるんだけど。それで、自分の名前の由来をきいてきなさいって言われてて…」

 ソフィアは、しゅんが学校のことを話すのをはじめて耳にした。今まで、しゅんと学校のことを話すことは殆どなかった。以前、ソフィアが学校のことについて尋ねたとき、しゅんが黙ってしまったことがあったから、彼女はなるべく学校の話題について触れないようにしていた。

 彼女はしゅんに言った。

 「しゅんっていう名前にはね、自分の信じた道を駆け抜けてほしいっていう思いが込められているの。そして、その一瞬一瞬を大事にしてほしいっていう思いが込められているのよ」

 しゅんは黙って、ソフィアの話をきいていた。

 「だから、しゅんは大丈夫。神さま(God)が、しゅんのこと、きっと見守ってくださっているからね」

 ソフィアが話し終えると、しゅんは小さな声で言った。

 「ありがとう」


 ソフィアは、土曜日の授業参観のことで悩んでいた。彼女は、土曜日も仕事に行かなければならないからだ。仕事を休むと、生活費を稼ぐことができない。ソフィアは少しでも生活が楽になるために、そして、しゅんに美味しい物を食べさせるためにできるだけ仕事を多く入れるようにしていた。

 彼女は、仕事を早く終わらせて、しゅんの授業参観に行こうと考えた。

 ソフィアはしゅんに言った。

 「しゅん。お母さん、授業参観に行ってもいいの?」

 しゅんは小さくうなずいて、「うん」と言った。

 ソフィアはうれしかった。


 土曜日の授業参観当日、ソフィアは朝早くから仕事に出かけた。工場での仕事。つらい仕事だ。彼女は、早く仕事を終わらせてしゅんの授業参観に行こうと考えた。

 工場に着くと、ロッカーに荷物を入れ、作業着に着替えた。更衣室で、ソフィアは今日の授業参観の時間割をメモした紙をポケットから取り出した。

 ”早く仕事を終わらせてその足で学校へ向かえば、間に合う。大丈夫。しゅん、お母さん必ず行くからね”

 ソフィアは紙をポケットにしまい、仕事へ向かった。

 定時に仕事を終えたソフィアはすぐに、着替えに行こうと更衣室へ向かった。そのとき、工場長がソフィアの方へ近づいて来た。そして、ソフィアに向かって言った。

 「ちょっと話があるんだが…。いいかね?」

 ソフィアは「はい」と言い、うなずいた。

 工場長は、その場で話をつづけた。

 「実は。今日出勤する予定だった人が出られなくなってしまったんだが…。代わりに今から作業を頼めないかな?」

 ソフィアは答えた。

 「でも…。きょうはこれから用事があるので…」

 すると、工場長は慌てて言った。

 「もちろん、残業手当は払うよ。頼むよ、少しでいいから。ほかに頼める人がいないんだよ…」

 困っている工場長の姿を見て、ソフィアは放っておけなくなった。

 しかし、このままではしゅんの授業参観には間に合わない。ソフィアは、考えた末に言った。

 「わかりました。二時間だけだったらできます」

 それをきいて、工場長はとてもうれしそうに言った。

 「本当かい?ありがとう、ありがとう。助かるよ」

 工場長のうれしそうな姿を見て、ソフィアはうれしかった。

 ”しゅんの授業参観には途中から行けばいい。残業をしても、三時間目には間に合うはずだ”

 ソフィアは、工場長の指示で作業に取りかかった。


 作業が終わり、ソフィアは工場長に挨拶をして、急いで工場を後にした。着替えるのは後でよいから、とにかく急いで学校へ向かわなければ、と思っていた。

 彼女は作業着のまま、最寄りの駅まで全力で走った。幸い、ソフィアが駅のホームに到着した丁度そのとき、電車が到着した。彼女は電車に乗った。電車が動き出し、彼女は腕時計を見た。

 ”駅に到着したらすぐに走ろう。駅から走れば、三時間目には間に合う…”

 ソフィアは電車の手すりを掴みながら、瞼が重くなってくるのを感じた。

 どれくらい時間が経っただろうか。気づくと、ソフィアは手すりから手を離し、電車のドアにもたれかかっていた。

 彼女は、自分が今まで眠っていたことに気づいた。電車の中はざわついていた。

 ソフィアは、今自分が乗っている電車が動いていないことに気づいた。彼女は焦った。時計を見ると、三時間目の授業が終わる時刻だった。電車が動き出す気配はなかった。車内には、電車の停車を知らせるアナウンスが流れていた。

 それから三十分くらい経っただろうか。やっと電車が動き出した。ソフィアは時計を見た。四時間目の終わりに間に合うかどうかという時刻だった。

 駅に到着し、電車のドアが開いた。ソフィアは走った。走りながら、彼女は泣いていた。途中、彼女は転んだ。彼女の膝は擦り剝いて、血が出ていた。やっとのことで、彼女は学校の近くまでたどり着いた。学校の前には、おしゃれをした大勢の保護者が集まり、楽しそうに会話をしていた。学校から、次々と子どもたちが出てくる。

 それを見て、ソフィアは引き返した。彼女の目は涙で濡れていた。彼女が着ている作業着は汚れていた。

 ソフィアは、今来た道を一人とぼとぼ歩いていた。彼女の足は自然と河の方へ向かっていた。土手に着くと、休日のためかいつもより多くの人々がいた。ソフィアは人があまりいない場所に座った。そして、ひとりで泣いた。

 ”どうして早く、しゅんの授業参観に行ってあげられなかったんだろう?どうして…”

 ソフィアは悔やんだ。彼女の目から、大粒の涙があふれてきた。

 突然、彼女の肩をやさしく叩く感触があった。彼女は顔を上げ、後ろを振り向いた。

 そこには、しゅんがいた。

 ソフィアは涙を両手でぬぐった。彼女は、何と言えばよいかわからなかった。しゅんに合わせる顔がなかった。

 突然、しゅんはソフィアの額にキスをした。

 ソフィアは驚いた。しゅんは横を向きながら、言った。

 「帰ろう」

 ソフィアは、もう涙をふかなかった。

 彼女は言った。

 「うん」


 ある日、ソフィアの家のポストに一通の手紙が届いた。それは、母国に住むソフィアの親戚からの手紙だった。ソフィアは、手紙を開封して読み始めた。そこには、ソフィアの母が病気になったということが書いてあった。そのため、すぐに国へ帰って来るように、とのことだった。ソフィアは考えた。

 ”しゅんは学校があるから、連れて行くことができない…。私だけ帰ろうか?でも、しゅんを日本に一人残して、大丈夫だろうか…?”

 とりあえず、ソフィアはしゅんに事情を話すことにした。

 「しゅん。お母さん、少し話があるんだけどいい?」

 しゅんは、洗濯物をたたむ手を止めて「うん」と言った。

 ソフィアは、しゅんに事情を話した。すると、しゅんは言った。

 「お母さん、僕も行きたい」

 ソフィアは迷ったが、しゅんの学校がない日を選んで一緒に行くことにした。

 彼女は二人分の航空券を手配して、しゅんと一緒に荷物の準備をした。


 出発当日、ソフィアとしゅんは荷物をまとめたスーツケースを持って家を出た。空港に行くまでの電車の中で、ソフィアとしゅんは、ソフィアの故郷についての話をしていた。

 「お母さん。”こんにちは”って何て言うの?」

 「”シャローム”よ。”シャローム”は、”さようなら”っていう意味もあるのよ」

 しゅんは、ソフィアの話を熱心にきいていた。

 「しゅん。お母さんの生まれた場所に行くの、楽しみ?」

 「うん」

 しゅんは、スーツケースとは別にリュックサックを持って来ていた。リュックサックの中身は、ソフィアには知らせていなかった。

 空港に着くと、ソフィアは言った。

 「しゅん。お腹空いた?」

 しゅんは首を横に振った。すると、ソフィアは言った。

 「じゃあ、売店でサンドイッチでも買って持って行こうか」

 しゅんは、「うん」と言った。 

 飛行機が出発する時刻になり、二人は搭乗口へ向かった。

 しゅんは、飛行機に乗るのがはじめてだった。しゅんは尋ねた。

 「お母さん。飛行機乗るのってこわくない?」

 ソフィアは微笑みながら答えた。

 「大丈夫、こわくないわ。お母さんもついているのよ」

 二人は飛行機に搭乗した。機内で、ソフィアはしゅんに言った。

 「しゅん。寝られるときに寝ておきなさい。ここから長いから」

 しゅんは寝ようとしたが、はじめて乗る飛行機の中では、なかなか寝ることができなかった。

 飛行機が離陸するとき、しゅんは本当にこわかった。はじめての体験だったが、もう飛行機には乗りたくないと思った。飛行機の離陸時、しゅんはずっとソフィアの手を握っていた。


 しゅんが目を覚ますと、ソフィアがしゅんのことを呼んでいた。飛行機は止まっていた。

 「しゅん。もう着いたわよ」

 しゅんは周りを見回した。周りの乗客はすでに飛行機から降りていて、機内に残っているのはソフィアとしゅんだけだった。ソフィアとしゅんは荷物をまとめて、飛行機から降りた。

 空港では、きいたことのない言葉が飛び交っていて、しゅんは困惑した。彼は、ソフィアの後について行った。

 ソフィアとしゅんは空港の外に出た。空港の外には、沢山のタクシーが停まっていた。ソフィアはその場で立ち止まっていた。しゅんは、ソフィアの表情をが不安の色を帯びているように感じた。

 「お母さん」としゅんは言った。

 「お母さん!」

 ソフィアは、はっとしてしゅんの方を見た。そして言った。

 「そうだったわね。家に向かわなきゃ」

 彼女は、バッグの中から一枚の紙を取り出した。そして紙を見たが、彼女の顔の不安の色は消えないままだった。彼女の足は動かなかった。彼女は言った。

 「とりあえず、タクシーに乗りましょう」

 ソフィアとしゅんは、そこに停まっていた乗り合いタクシーに乗った。ソフィアは、持っている紙を運転手に見せて一言、二言話した。タクシーは動き出した。

 タクシーからの眺めは、しゅんにとって異質なものだった。はじめての風景、はじめての街、はじめての色…。空の青さも東京とは全然違った。

 タクシーはしばらく走った後、次々と乗客を降ろしていった。タクシーから見える風景が、徐々に都会の風景になっていった。タクシーが停車し、運転手がソフィアに何かを言った。ソフィアはしゅんの手を取り、言った。

 「ここで降りるわ」

 ソフィアとしゅんが降りた場所は、にぎやかな都会だった。周りには市場があり大勢の人々が歩いていた。人混みの中で、ソフィアは呆然と立ち尽くした。彼女の頭は、何かを思い出そうとしていた。

 突然、辺りに強い風が吹き抜け、ソフィアは我に返った。そして、彼女はしゅんがその場にいないことに気づいた。

 ソフィアの記憶は、はるか彼方へ遡った。


 ソフィアの一日は、朝早くに始まる。エルサレムの朝は早い。工場の号令は、いつも時間通りだ。彼女は、朝の冷たい風も、駅から工場までの長い道のりを歩くことも苦には感じなかった。彼女にとって一番苦痛なのは、工場に着いてからの集団行動、おしゃべり、上司からの忠告といった人間関係から派生する諸々の事柄だった。

 働いているとき、ソフィアは何も考えないようにしていた。考えても何もよいことはない、と彼女は思っていた。

 昼休みの時間、同僚は誘い合わせて一緒に食事をとっていたが、ソフィアはいつもひとりで食べていた。

 終業時刻が来ると、彼女はまっすぐ家に帰った。一人暮らしの家に。家に帰ると、ソフィアは一人の夕食をとり、後片付けをしたら眠ってしまう。そしてまた明日も、今日と同じような一日が始まるのだった。


 神さま(God)

 僕は生まれてこの方 自分の母を知りません

 それどころか 僕は自分の名を知りません

 僕は自分がどこから来たのかを知りません

 僕はあなたのためにすべてを捨てることを決心しました

 御名があがめられますように僕は祈ります

 御心が地でも行われますように僕は祈ります

 御国が来ますように僕は祈ります

 願わくは 僕の名を教えてください

 願わくは 僕の母を教えてください

 願わくは 僕を母に会わせてください


 空はどんよりとした曇り空だ。最近はいつもこんな天気だ。

 ソフィアは部屋の隅にある椅子に座っていた。電話がかかってくることもないので、とても静かだ。一週間のうち、一日だけある休日。ソフィアは何もしなかった。何をする気にもならなかった。何かをするとその分、余計に考えなければならなくなる。よいこと、悪いこと、起こってほしいこと、起こってほしくないこと…。

 考えることは、必ず悪い結果を生む。

 考えることは、彼女の存在すべき領域ではなかった。


 神さま(God)

 今日も 僕は母を見つけることができませんでした

 朝日が昇る前に出発し ひたすら僕は母を捜しました

 母を見つけるためだったら 足が棒になるまで歩くことなど大したことではありません

 昼に空腹を覚えましたが いつものようにお金がないので我慢し ひたすら歩きつづけました

 あっという間に 今日も日が暮れてしまいました

 今日も泊まるところがないので どこかの草むらで眠ろうと思います

 御名が いつまでも いつまでもあがめられますように


 休日になると、多くの人々は教会や礼拝堂へ足を運ぶ。

 しかし、ソフィアは行かなかった。

 彼女は信仰を持たなかった。

 彼女は、信仰には救いがないと思っていた。

 彼女は、信仰によって人間が救われることはないと思っていた。

 彼女は、自分の力で道を切り開かなければならないと思っていた。

 彼女は、自分の力で道を切り開くことのできない者が、そしてそのための努力をしない者が、信仰にすがりつくのだと思っていた。


 神さま(God)

 あなたは人間を男と女につくられました

 あなたはあなたを信じる者をみな兄弟 姉妹 母につくられました

 しかし 僕は自分の母をしりません

 それは僕が愚か者だからです

 僕に信仰が足りないからです

 しかし 僕は母を捜すことがやめられないのです

 不信仰な僕にどうか戒めをお与えください

 どうかいつまでも御名があがめられ 御国が来ますように


 ふと、ソフィアは我に返った。そして、今見たことは夢だったのだろうかと思った。ソフィアは、しゅんのことを思い出した。

 ”しゅんは、今どこにいるのだろうか?”

 ソフィアは何もわからないまま、とぼとぼと歩き始めた。

 歩きながら、彼女の目から涙が流れた。彼女はその場に崩れ落ちた。

 そのとき、ソフィアは生まれてはじめて、神(God)に祈った。

 

 天にいます私たちの父よ

 御名があがめられますように

 御国が来ますように

 御心が天で行われるように地でも行われますように

 私たちは御名を信じます

 私たちは御言葉に従います

 御名の下で世界が永遠に平和でありますように


 ソフィアの目から一筋の涙が流れ、地面に落ちた。

 彼女は立ち上がり、歩き始めた。

 やがて、ソフィアは一つの丘のふもとにたどり着いた。

 丘のふもとで、ソフィアは声を振り絞って叫んだ。

 「しゅん!」

 彼女の声は、辺りにこだました。

 「しゅん!」

 彼女はもう一度叫んだ。しかし、やはり、彼女の声がこだまするだけだった。

 「しゅん!」

 彼女は三たび叫んだ。

 そのとき、かすかに誰かの声がきこえた。

 「…さん」

 ソフィアはゆっくりと目を閉じ、耳を澄ました。

 「おかあ…さん」

 そのとき、ソフィアの閉じた目から涙が流れた。

 ソフィアは、丘の上へ向かって歩き始めた。

 丘を登っていくにつれて、きこえる声の大きさが徐々に大きくなってくる。

 「おかあ…さん」

 ソフィアは涙を流しながら、丘を登った。

 ”しゅん。待っててね、今行くからね…。お母さん、今度は絶対間に合うからね…”

 やがて、ソフィアは丘の上にたどり着いた。

 丘の上には、誰かがいるようには見えなかった。

 ソフィアは、その場にひざまづいた。

 そして祈った。


 天にいます私たちの父よ

 御名があがめられますように

 御国が来ますように

 御心が天で行われるように地でも行われますように

 私たちは御名を信じます

 私たちは御言葉に従います

 御名の下で世界が永遠に平和でありますように


 そして、彼女は言った。

 「しゅん!」

 そのとき、確かにしゅんの声がきこえた。

 「お母さん!」

 ソフィアは、声がきこえる方へ走った。

 「しゅん!」

 「お母さん!」

 もう、すぐそこまで、しゅんの声が近づいていた。

 「しゅん!」

 ソフィアが立ち止まった先には、しゅんが立っていた。

 「お母さん!」

 ソフィアはしゅんの方へ駆け寄り、しゅんはソフィアの方へ駆け寄った。

 二人は抱き合った。

 ほかに誰もいない丘の上で、ソフィアとしゅんは抱き合った。

 それは、ほんの一瞬だった。

 しかしその一瞬は永遠だった。

 「お母さん、これ…」

 しゅんは、背負っていたリュックサックの中から何かを取り出して、ソフィアに渡した。

 それは手紙だった。

 ソフィアは、手紙を両手でしっかりと持った。


 突然、空が真っ暗になり、辺りは闇に覆われた。

 それと同時に天から、神(God)の御声がきこえた。

 「ソフィア。これから起きることが、最後の出来事だ。これから起きることは、お前にとっては、まるでこの世の終わりのように映るだろう。だが、それは決して終わりではない」

 ソフィアは確かに、神(God)の御声をきいた。

 突然、丘のふもとの方から叫び声がきこえてきた。それとともに、銃声がきこえた。

 丘のふもとでは、戦闘が始まったようだった。街は赤く染まった。

 しゅんはソフィアの手を取り、言った。

 「お母さん、逃げなきゃ!」

 ソフィアは、その場から動くことができなかった。

 しゅんは、もう一度言った。

 「お母さん!逃げよう!」

 ソフィアは動かなかった。

 しゅんは言った。

 「諦めちゃだめなんだよ!そんなに簡単に諦めちゃだめなんだよ!」

 しゅんの目は涙で濡れていた。

 しゅんは、ソフィアの手を引いて歩いた。

 戦火はすぐそこまで迫っていた。

 しゅんの声がきこえた。

 「生きなきゃだめなんだよ!」


 ソフィアは目を覚ました。

 そこは、病院のベッドの上だった。

 ソフィアが目を覚ましたことに気づくと、ベッドの周りにいた人々が言った。

 「ソフィア。目を覚ましたのかい?」

 ソフィアは、今自分がいる状況を飲み込むことができなかった。

 しかし、ソフィアは思い出して言った。

 「しゅん!しゅんはどこ?」

 周りにいる人々は、怪訝そうにソフィアを見た。

 ソフィアは、もう一度言った。

 「しゅんはどこなの?」

 その声を遮るかのように、別の声が響いた。

 「ソフィアが目を覚ましたぞ!」

 それをきいて、ソフィアの周りには人が次々と集まってきた。


 親戚や知人が帰って行き、ソフィアのベッドの周りは静かになった。

 ソフィアのベッドの横に座っていた親戚の叔母さんが口を開いた。

 「気の毒に、また戦争が始まってね…。幸い、うちの親戚はみんな無事だけど」

 ソフィアは、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 「あなたが日本に行っていたから、あなたのお母さんも心配していたのよ。ソフィアは元気かって…」

 叔母さんは溜息をついてから、言った。

 「あなたもこっちに帰って来なさい。そして、またこっちで家族みんなで暮らしましょう」

 ソフィアは黙って、窓の外を眺めていた。叔母さんが尋ねた。

 「何か伝えておきたいことはある?」

 ソフィアは言いかけた。

 「しゅ…」

 そして、ソフィアは首を横に振った。

 「じゃあ、またお見舞いに来るから」

 叔母さんは病室から出て行った。

 


 「あれ?」

 ソフィアは、ペンを持っている手を止めた。

 「この手紙、誰に書いていたんだっけ?」

 ソフィアはペンを置き、目を閉じた。

 すると、彼女の閉じた両目から涙があふれてきた。

 ソフィアは一人で泣いていた。

 突然、どこからともなく声がきこえたような気がした。

 「お母さん」

 ソフィアは、自分の胎内(体内)から声がきこえることに気づいた。

 「お母さん」

 ソフィアは耳を澄ました。

 「お母さん、僕だよ」

 ソフィアは、それが確かにしゅんの声だとわかった。

 ソフィアの目から涙があふれてきて、止まらなくなった。

 「どうして?どうして涙が出てくるの?うれしいはずなのに…」

 ソフィアは、神(God)に祈った。

 机の上には、ソフィアが書いていた手紙のほかに、もう一つ別の手紙があった。

 そこには、こう書かれていた。



 お母さんへ


 僕がお母さんに手紙を書くのははじめてだね

 お母さんに伝えたいこと色々あるから 書くよ


 僕が一人で困っているとき助けてくれて ありがとう

 お母さんが助けてくれたから 僕はひとりじゃないって思えた


 僕にしゅんっていう名前をつけてくれて ありがとう

 しゅんっていう名前 大好きだよ


 ランドセルを買ってくれて ありがとう

 お母さんが買ってくれたランドセル すっごく気に入ったんだよ


 僕が家に帰ってこないときに捜しに来てくれて ありがとう

 お母さんが捜しに来てくれたとき うれしかった

 いつも心配かけてごめんね


 お母さんが日本人じゃないってこと 全然気にしてないよ

 お母さんはお母さんだから


 お母さんが授業参観に来てくれたことうれしかったよ

 授業参観に間に合うように 走ってきてくれたんだよね

 ありがとう


 お母さんと一緒に旅行できてうれしかったな

 飛行機はこわいからもう乗りたくないけどね


 お母さん

 ずっとずっと大好きだよ


 やっとお母さんを見つけられた

 僕を生んでくれてありがとう

 そして 生まれてきてくれてありがとう


 しゅん

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シオンのうた(The song of Zion) 社会科学研究会 @zion1226

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