フランツとヴィルヘルム-6
砕けた窓が捉える申し訳程度の陽光さえ消え失せた、おそらく空の残照さえ消えようかという頃、フランツは最後の一筆をキャンバスに置いた。
手にしていた絵筆とパレットを重ねて、足元に下ろす。
暗闇の中で出来上がった一枚の絵画に視線を滑らせて、大きく息を吐く。
「――終わったよ、ヴィル」
今までの癖でそう声を上げるが、いつも通りの声は返ってこない。目の前の小さな世界に閉じ込めた彼からも、返答はない。
当然だ、もう彼はいないのだから。自分の馬鹿さ加減に呆れて、絵の具やそれ以外のもので汚れた手で髪を掻き上げる。
フランツは頭から手を離し、自分のスーツのポケットを探る。適当にねじ込んで持ってきた細葉巻の箱とマッチ箱を取り出して、細葉巻の箱を開ける。一本だけ残っていた細葉巻が、箱の中で斜めになっていた。
もし空だったらどうしようかと思った、そう安堵して息を吐く。
元々喫煙者だから煙草も葉巻も好きだが、殺しを終えた後――言い換えれば絵を描き終えた後に吸う煙は特に良い。何となく落ち着くから。まるで、何かを得ようと尖っていた自分のあらゆる神経が緩やかに活動をやめて、普段通りに戻っていくような感覚があるから。
一種の鎮静剤か何かのようなものだ。そして同時に、ある意味では自分を労わる儀式だった。
フランツは取り出した細葉巻を咥え、空き箱を適当に放り投げる。
マッチ箱からマッチを一本だけ出して、箱側面のヤスリで擦る。先端に灯った火で細葉巻に点火して、マッチの軸を親指で弾いて消して、それも足元に落とす。火事がどうとか、そういうのはどうでもよかった。自分の家でもないのだし。
白く濁る息を吐いて、フランツは再びキャンバスを見た。
そういえば、自分と一緒に過ごした相手を殺したのは初めてだった。ふと気付く。
今までは通りすがりか自分とすれ違っただけの、全く何の関係もないような人間ばかりを題材にしていた。
それは友人や知人を手にかけたくない良心の呵責というよりは、単純に惹かれる相手が無関係の赤の他人であることが多い、というだけだ。何より、そこまで交友関係が広いわけでもないから、必然的に標的は見知らぬ誰かになりやすい。
最初――人を殺すことで絵を描くことを覚えて最初の殺人は確か、道端で出会った見知らぬ女だった。
どこで出会ったかはもう記憶にないが、気取らず、傲慢でもなく、そして美しい女だった。自宅に招いたとき、シャワーを浴びると言って浴室に入っていった所を殺した。
次は確か若い男だ。見たところ普通の男だったが、妙に気になったからそれはそれでテーマになるのだろうと短絡的に考えて、路地裏ですれ違った所をそのまま殺した。
その次は青年になるかならないかといった年齢の少年だ。この少年と青年の狭間にある状態を描いてみたかったと、家で殺した死体を前に一人悦に浸っていた事を思い出す。
そしてその次は――その次は。まだ少女と呼ぶのも憚られるほど、幼い少女だった。だが、フランツは彼女を殺してはいない。殺す前に、死んでしまった。自分の眼の前で自分の手にかからず死んでいく存在を見たのは、あれが最初で最後だろう。
皆フランツと関係があったわけではないし、フランツ自身何も関係ないと分かっている。
ただ描きたいと思った、絵として残しておきたいと思ったから殺した。それだけの話だ。
それはさながら、一般的人間の愛情に似ている。綺麗だ、可愛い、何か惹かれるものがある。その琴線に触れたものを、人は愛でる。
フランツの場合はそれが絵として残すという行為になり、そして絵を描く行為が殺人に結びついている。
至極単純な事だ。
ふう、と煙ごと溜め息を吐き捨てて、フランツは椅子から立ち上がった。壁に凭れかかるようにさせたヴィルヘルムへと近付いて、座っている彼を見下ろす。
「ヴィル、有り難う。お陰でいい絵が描けた……と思うよ。
……言い切れないのは許してよ。何かね、描いても思ったよりすっきりしなかったんだ。何でだろうね」
世間話でもするように、眼前の死体へと話しかける。
何でだろうね。そう言いながら、自分が満足しないのが何故なのか、フランツは心の何処かでは分かっていた。
きっと、仕上げが終わっていない所為だ。絵の工程自体は全て終わったが、その後にやるべきことがまだ残っている。
やるべきこと。やらなければいけないこと。頭の片隅でちらつき続けたそれらを寄せ集めて、フランツは静かに決意する。
何故これをやらなければいけないと感じたのか、フランツ自身にもよく解らない。ただこうしなければ、きっと自らが描いた絵に満足する事など一生ない。
その確信だけが、やけに明瞭に心に凝っている。その明白さは、恐らく決意するよりも前に無意識に知覚している。
それはフランツにとって、死よりも遥かな苦痛だった。
まだ半分も吸い終わっていない細葉巻を口から離して、足元に落として、踏み締める。ざりざり、と数度足を動かしてから、フランツはその場で膝を折った。
「…………ねえヴィル」
そっと、先程まで絵筆を持っていた手を伸ばす。冷えた指先で触れたヴィルヘルムの頬は、まだ少しだけ温かく感じた。
少し赤黒く汚れてしまった髪に指を通すように手を動かして、壊れ物でも扱うように持ち上げる。
「俺、前に言ったよね。俺にとっては万物がモノでしかなくて、俺自身も例外じゃないって」
片腕で抱き締めて、掻き抱いて、抱き抱える。もう片方の手ではヴィルヘルムの懐を探って、身体とは違って酷く冷たい拳銃を手に持った。
そうだ、自分にとっては全てが静物。それは自身も例外ではない。
作品をより良い物に、より素晴らしく変貌させる為なら、自分さえも題材に出来る――違う。しなければならない。
それは自分が画家の道を歩み始めたときから決めていた事だった。
フランツは立ち上がり、完成を間近に控えた絵画に背を向ける。
部屋から出る所で一度肩越しに振り返り、戯画絵師の男は今まで通りに薄気味悪い笑みを見せた。
「行ってくるよ、ヴィル」
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