フランツとヴィルヘルム-5
「ヴィル、俺の名前覚えててくれたんだ」
フランツ・ミュラー=ヴィーラントは、友人に話しかけるように呟いた。
今彼が居るのは、いつ雨が降り出してくるとも知れない屋上ではなく、その下の階――ビル全体で言えば最上階に当たる適当な部屋だ。
荒廃しきった部屋の中、割れた窓から入り込む風に身体を震わせる事もなく、フランツは絵筆を握っていた。
埃の積もった床に折り畳み椅子を置き、その前に画架を立て、枠組みに置いた真っ新なキャンバスと向かい合う。書き上げたばかりの風景画は、取り敢えず屋上へ続く階段に置いておいた。
ただでさえ曇りのせいで日光が少ないというのに、今は初冬だ。太陽が顔を覗かせる時間はやたらと短い。
日が暮れかけている所為で、廃墟の一室に入り込む光も随分と減っていた。
それがフランツを急かし、自らを落ち着けようとするかのように口を動かせる。
今目の前にあるものを描き損じぬように。
今目の前にある生物であった“静物”を余す所なく、キャンバスに閉じ込めるように。
フランツは“ヴィルヘルム”と対話するように、絵筆を動かしながら饒舌に語っていた。
「愛は、何によって定義されると思う? 生憎俺は恋人も居ないし愛情なんてものも解らないし、愛を我が物顔で語る奴って嫌いなんだけど」
絵筆を動かし、絵の具をキャンバスに塗っていく。
それは今まで何度も間近で観察してきた彼の肌の色だ。
軍人だしやはり服の下には傷があるんだろうか。確か拾ったばかりの頃、衰弱しきった彼を風呂に連れ込んで洗ってやったことがあった気がするが、どうにも思い出せない。
どうせ文句も言われないし確かめてみようかと思ったが、時間の無駄だと諦める。
「俺、ケーキではチーズケーキが一番好きなんだよね。東区に続く通りにあるケーキ屋があるだろ、あそこのチーズケーキが一番美味しい」
また新しい絵筆を持ち、黄の絵の具を重ねていく。
それは自分が薄汚いと称した彼の頭髪だ。薄汚くて綺麗だと、それが自分なりにささくれた褒め言葉だということは多分気付かれていない。
気付けよ、と思わず呟いたが、返事はない。
「ヴィルも言っていたけど、人は死んだらどこにいくんだろうね。
……ごめん、ヴィル。実は分からないって嘘吐いたんだ。
俺はね、死んだらその人は、自分が造り出した自分の世界に還るんだと思う。だからヴィルはきっと、死んでも戦場からは逃れられないと思うよ。
言っていればお前、まだ生きてたかなぁ」
ぺた、と暗い色の絵の具をキャンバスに重ねる。
それは彼が纏っていた服の色だ。黒い外套と、薄汚れたシャツやスラックス。
それを洗濯して、たまにほつれていた所を直していた事を不意に思い出した。
結局、彼はそんな自分の見えない優しさも知らぬままだったのだろう。なんて。別に恩を着せたいわけではないが、少し寂しかった。
「幸せになるとはつまり、他人の幸せを奪うことだ。金も仕事も、この世の全ての人間に与えられている訳じゃあない。
だから幸せな人間っていうのは、皆一様にして自己中心的なエゴイストなんだよ。そして自分が自己中心的な人間だと気付かないからこそ、幸せでいられる」
細い絵筆に持ち替え、彩度の高い絵の具を載せる。
それは彼の外套に、申し訳程度にくっついていた金具の色だ。
みっともなく錆び付いていたそれは軍の紋章で、本来なら軍服の布地で誇りと共に光り輝いていたであろう金属だった。
きっとこれが何よりも、彼を過去に繋ぐ鎖だったのだろう。
苦痛でしかない記憶を繋ぎ留める縛鎖など捨てればよかったものを、軍に返せばよかったものを。過去を捨てきれない真面目さに、少しだけ同情する。
「――だから、ぶっちゃけた話俺は不幸でいいんだよね。人を蹴落としておきながら私は幸せだわ~なんて気持ち悪い。
でもその割に、趣味の為に意味もなく人の幸せも不幸も命も奪ってきた。
だから俺ほどの利己主義者はそういない、自負がある」
絵筆に、真っ赤な液体を絡ませる。
暗い色に、白い肌に、薄汚く綺麗な金糸に、錆び付いた誇りに、色を載せていく。
それは彼が流した涙の色だ。この世から解放され、怨嗟の海に堕ちる事が出来ると歓喜に咽んだ彼の、泪の色だ。
乾きかけたそれを絵筆の先で伸ばし、フランツは僅か、訝しむように眼を眇めた。
もうすぐこの絵は完成する。
素晴らしいことで、願ってやまないことの筈なのに、そこに思ったほどの達成感を感じない。
ヴィルヘルムほどの題材ならば今まで感じたこともないような感覚を感じられるかと思ったが、片鱗すら感じ取れなかった。ああ、間違えてしまっただろうか。後悔じみた思いが頭を過ぎり、振り払うように首を振った。
たとえこの達成感の欠乏が深い後悔の予感だとしても、作品を投げ出すような事はしない。
それはヴィルヘルム・アレントというセイブツに対して非常に失礼な行為だと分かっていたし、何より自分自身のプライドが許さなかった。
ヴィルヘルムの命が赤くこびりつく手で絵を描く。汚れた手は、気付かぬ内に小刻みに震えていた。
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