戯画と飢餓-2
「――なあ、もう一つ聞いていいか?」
ざばざばと途切れなく流れ続ける水の音をBGMに、ヴィルヘルムは男の背中に問い掛けた。
草臥れた黒いスーツの上着を脱ぎ、これまた薄汚れたシャツの袖をまくった男が「んー?」と声を上げる。
その両腕には見ているこちらが痛みを感じてしまいそうなほどに歪な傷痕が重ねられていた。古い傷痕の上に新しい傷痕が重なり、一番上には新しく血が凝固したかさぶたが張っている。相変わらず自傷癖の直らない男だ。
自傷行為に耽る男の部屋に入った時のことを思い出して、ヴィルヘルムは僅かに眉を顰めた。
「何? 明日の朝食ならポーチドエッグとマフィンを出す予定だけど」
「いやそっちじゃねえよ。人を食い意地張った奴みたいに言うな、美味そうだけど」
はあ、と吐息にも似た曖昧な返答。「だったら何?」と続けられて、ヴィルヘルムはテーブルに置いていたカップを手に取った。
中に満たされているのは赤茶の液体ではなく黒々としたコーヒーで、その香りに少しだけ眼を細める。
「お前の絵って戯画だよな。何で戯画にしたんだ?」
戯画とは面白可笑しく描いた絵である。風刺などを含む場合も多く、男の場合は確かに風刺を含んだ薄気味悪くおかしい“戯画”だ。
しかし何故彼が、数ある技法の中で戯画を選んだのか。それを知らないし、聞いたこともなかったなと唐突に気になってしまったのだ。
ヴィルヘルム自身、絵に詳しいわけではない。それでも、どうしてその作風に至ったのかという純粋な興味はある。
丁度皿を洗い終えたのか、きゅっと蛇口を捻る音がした。
男がタオルで手を拭いながら身体の向きを変え、ヴィルヘルムに向き直る。
「それってさあ、例えば軍人に何で軍服着てんのって言うようなもんだと思う」
「は? いやそりゃお前、軍人だからだろ?」
「あ、いや違うね。これはアレだ。豚にお前何で豚なのって言うのに似てる」
「意味が分かんねえ、人間の言葉で喋ってくれ」
確かに言葉の意味は分かりづらいが、何となく言いたいことは分かる。
きっとそれに理由などない、何故戯画を選んだか聞くのはおかしい、何故それで創作活動に勤しむのかと問うのは創作家に対する興味の皮を被った凶器でしかないと、そういうことを言いたいのだろう。おそらく。
男はそれを説明する事なくタオルを元あった位置に戻し、ふああと欠伸をした。
しかし椅子に腰を下ろすことはなく、洗ったばかりのグラスを取って再び蛇口を捻る。
溢れた水でグラスを満たし、口を付けて一気に飲み干していく男を見てヴィルヘルムは珈琲を啜った。
ぷはー、と息を吐いた男がグラスをシンクに置く。
「でもまあ、売れないのは少し悲しいんだよ本当に。寂しいだろ、自分の作品が認められてないんだから。飢えるよ〜俺はいつも飢えてるよ〜」
わざとらしい溜め息と、仰々しいくらいのやれやれという動作。それを気にせず、ヴィルヘルムはカップから口を離した。
「分からなくはないけどな。それってつまりアレだろ。どんだけ訓練を頑張っても上官に努力が認められねえようなもの……」
「意味分かんないからヴィル語やめて」
「殺すぞ」
「ごめん」
凄むとあっさりと退いた男が面白そうに肩を揺らす。
承認欲求とはその通り、誰かに認められたいという欲求だ。自分が価値のある人間だと誰かに認めて欲しい、誰かが自分のことを認めて必要として欲しい――そういう事だ。
人間の欲をピラミッド型に表記したものでは、承認欲求とは生理的欲求・安全の欲求・所属と愛の欲求の次に位置する。そしてこの欲求を満たすことによって最終的に自己実現の欲求へと移る事が出来るとされる。
その上には更なる欲求があるとも言われているが、まあ、基本的にはこうなのだろう。ヴィルヘルムは古い知識を引っ張り出すのをやめる。
自分も訓練に明け暮れていた頃は何をやっても認められずかなり辛い日々を送ったな、なんてことを思う。どれほど訓練でいい成果を出せても、上官に叱咤されるだけでその結果を受け入れられたことはなかった。
仕方のないことだと分かっていても、辛いことはどうしようもない。
ああ、懐かしいな、と目を細めて、ヴィルヘルムははたと気付く。
普段ならば過去のことを思い返せば途端に全てが塗り変わる程の錯覚を感じていたというのに、今日は何故だかそれがなかった。
何事もなく昔の記憶に浸ることが出来た、ただそれだけのことに、ヴィルヘルムは静かに目を瞠る。
「……とはいえ、俺は絵を描くのも楽しいからいいんだけど。だから早くヴィルを絵にしたい」
耳にはいってきた、笑いを含む男の声。
口にした男の笑みは、珍しく普通の青年が浮かべるような“普通”の笑顔だった。
「……どうせ絵にするなら、戯画もいいがまず似顔絵がほしいな」
くくっ、と喉の奥から笑い声を漏らしたヴィルヘルムもまた、同じように笑っていた。
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