罪と罪-2

 酒を呷る。

 アルコールで痺れた口と酔った味蕾では、味はもう分からなかった。

 それで構わなかった。どうせ、味があったところでそれを楽しむことはない。酔う為だけに飲んでいるものに、味や香りは不要だ。

 随分軽くなった瓶を傾ける。飲み尽くせなかった分の酒が口の端から垂れるが、それを勿体ないと思う余裕も今のヴィルヘルムにはない。

 最後の一滴まで飲み干して、瓶を軽く放る。絨毯の上に転がったそれを見て、半開きの唇から酒の匂いに溢れた吐息が漏れた。

 雨がこの家全体を打つ音が、遠く聞こえる。もう冬になったのに、まだ雪にはならないのか。

 飲みすぎた、だろうか。まだほんの少し回る頭で、ヴィルヘルムは思う。

 目の前がゆらゆらと揺れている。まだ酒が中途半端に入っているグラスに伸ばした手が空を切る。空を切った手は、先程投げた酒瓶のように床に落ちた。

 床に座り込んで、残り僅かな自分の金で買った瓶に囲まれて、ヴィルヘルムはぼんやりと窓の外を眺めていた。

 日光を閉ざす鈍色の空から降り落ちる雨が、少し白く曇った窓を叩いている。

 狂い雨とは、よく言ったものだ。切れ間なく鼓膜から入り込み脳髄を侵していく雨音達は、確かに聞いているだけで気が狂いそうになる。

 もしかしたらとっくに自分は、雨に当てられて壊れているのだろうか。そう、普段なら考えもしないことが酩酊した思考回路を掠めていく。

 根も葉もない都市伝説で、語り手すら嘘だと自白した大嘘で出来た雨。それが犯した罪を洗い流すわけはないし、ましてや罰してくれるわけではない。――自分の頭が壊れているのは、逃げ続けた酒のせいだ。

 だから、自分は雨とは無縁だ。そう、信じている。

 それでも、狂った音階の雨音は、いつの日かあの戦場に出る前に聞いたラジオのノイズに似ていた。戦場に出る前の、ざあざあと激しいノイズ。戦場の――。

 ……ああ、ダメだ。アルコールが回ったところで、そのアルコールで壊れた脳は、たったこれだけのことでまた狂っていく。

 これが嫌だから、せめて酔って感覚を鈍らせたいだけだというのに。結局駄目なのかという落胆と、少しばかりの絶望を感じた。

 ぞわぞわと、何かが這い回る感覚にも似た悪寒が体の末端から駆け上がる。

 耳元で誰かが啜り泣く声がする。目の前で、誰かが喚き散らす声がする。頭の中から、誰かが語り掛ける声がする。

 その内容は満足に聞き取れなかったが、想像はついた。何度も何度も、あの時から毎日殆ど四六時中聞いているものだ。手に取るように分かる。

 頭の真横で囁く誰かは、言っていた。「助けてください」と懇願していた。

 眼前で喚く誰かは、叫んでいた。「お前の所為だ」と罵倒していた。

 そして自分の頭の中に居る自分は、ただただ機械的に、一言。「死ね」と繰り返していた。

 この生々しい幻聴には何をしても無駄だと、ヴィルヘルムは分かっている。それでも逃れようとするかのように、手が無意識に動くのを止められない。

 満足に動かない両手が、左右の耳を覆う。当然、助けを求める声も責める声も、短い命令の声も防げやしない。


「――やめて、くれ」


 絞り出された情けない言葉は、本当に自分のものだろうか。

 分かっている。全部、わかっている。

 助けられなかったのは自分だ。

 そしてそれは、自分の所為だ。

 だから、自分も死ぬべきだ。

 それくらい分かり切っているから、せめて、こうして多方向から責め抜くのは止してほしい。やめてくれも何も、これが罰なら、甘んじて受け入れるべきなのだろうが。

 吐き気がする。周囲の声という声が酒精と混ざって、腹の中と頭の中を引っ掻き回している。

 耳を押さえて俯くヴィルヘルムの体が、ふらりと傾いだ。

 力なくその場に横たわり、瞑目。大勢の声は、未だ降り続ける雨の音と合わさって襲ってくる。

 今日はいつになったら消えてくれるだろう。もう少し酒を追加したら、去ってくれるだろうか。

 ふらふらと、取ろうとして取れなかったグラスを掴もうとヴィルヘルムの手が伸びる。


「それ以上飲んだら死ぬよ」


 不意に、はっきりとした声がした。

 閉じていた瞼をゆるゆると持ち上げると、滲んだ視界に黒いスラックスが飛び込んでくる。

 そしてその足が、痛みを感じない程度の強さで自分の手を踏みつけていた。


「酒のことはあんまり知らないけどさ、多分死ぬよ。そういえばショウユだっけ? 東洋の調味料は一リットル飲むと死ぬんだってさ」


 耳慣れた長ったらしい台詞。その場に屈む細い体躯。草臥れた黒いスーツ。

 ああ。あいつだ。幻と酒に飲まれていたヴィルヘルムの意識が、嫌っている男の姿に引き上げられていく。

 草臥れたスーツの袖から伸びる細い手が、おもむろにヴィルヘルムの体を掴んだ。

 抱き起こす、というよりは引っ張り上げられるように、体を起こされる。いつも好んでいる細葉巻だろうか、伸ばされた男の細腕からは微かに煙の匂いがした。


「それとも、何。お前死にたいの」


 軽い口調でかけられた言葉に、ヴィルヘルムは上手く焦点の定まらぬ目を動かす。

 自分を怨嗟の幻覚から救った男は、血色の悪い唇で緩く微笑んでいた。

 弧を描く口には、予想通りと言うべきか、薄く煙を漂わせる細葉巻が咥えられている。目を凝らさなければ見えないくらいに薄い煙が、自分と男の間に満ちていた。

 煙たい霧の向こうの薄気味悪い笑顔に、ほんの少しだけヴィルヘルムの頭に理性と知性が戻ってくる。


「…………お前には、関係ない」


 ともすれば呂律が回らなくなりそうな、痺れた舌で吐き捨てる。酒に焼かれた喉から捻り出した声は、掠れきっていた。


「そうだね、関係ない」

「ほっといてくれ」

「何で」


 対して、男は楽しげだった。新しい玩具を見つけた子供のような声音に、ヴィルヘルムの表情が僅かな苛立ちへと変わる。


「お前の手伝いをしてやってるだけだよ、寧ろ感謝してほしいね」


 ふん、と鼻で笑われ、ヴィルヘルムは明確な意思を持って男を睨んだ。

 眇めた目で見た男の笑みは、より一層濃くなっていた。薄気味悪い微笑が、他者を見下す嘲笑にすり替わっている。

 弧を描く唇に、憐れみは微塵も存在していない。ただ、眼前の酔いどれを無様だと嘲る、純粋な悪意がそこにあった。

 男が、ヴィルヘルムに触れていない方の手で自らの葉巻を取った。

 抑えきれない笑声を喉の奥から漏らしながら、手近な瓶に葉巻の先端を押し付けて火を消す。確実に消せたかどうかの確認もせず、吸い殻をそこに残して男は手を離した。

 それから一拍の間も置かず、今度は体を支える男の手が、するりと這うように上へと移動する。肩を通り過ぎ、首の上、顔の上で、前髪を掴む。

 男の色の白いにヴィルヘルムの金の髪が絡む頃、先程押し潰された葉巻の残骸が、音も立てずに床に落ちた。

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