他人と他人事-2

 指摘された寝癖を水と気合いで直したヴィルヘルムは、昨夜と同じようにソファに腰を下ろした。

 二人がけのソファで、隣に置いてあった新聞を手に取る。


「――“連続殺人犯、遂に逮捕”だってよ」


 そこにあった陳腐な見出しを口に出し、一度大きく欠伸をしてから記事の内容に目を通していく。

 見出しの通り、この地区で数ヶ月前から起きていた連続殺人事件の記事だった。

 被害者は皆、四肢を切り落とされ腹を裂かれて殺されていたという。年齢や性別は関係なく、下は幼児から上は老人まで見境なく犠牲になっているという、よくあるタイプの猟奇的な殺人事件だ。

 しかしだからこそ、純粋に気味悪く狂気しか感じられない。この街では珍しくもない量産型の狂気だが、“それが珍しくないと思える程に有り触れている”という事実こそが、その凶行を彩っている。

 ふあ、と欠伸をして、ヴィルヘルムは目に浮かんだ涙を拭う。


「しっかし、最近は何事もなかったのにな。どこでどう尻尾掴んだんだか……」


 大体の犯行は一週間程度の間をおいて行われていた。

 だがここ一ヶ月ほど新しい事件も情報もなく、新聞を飾らなくなった見出しと現場の写真にヴィルヘルムは「ああ、あの事件もそろそろ終わりか」と他人事のように考えていた。

 そうだ、正に他人事だった。自分や特別親しい人間に危害が及ばない限りは至極どうでもいい。否。今や、自分や親しい人間に悪意が向けられた所で、ヴィルヘルムは全く意に介さなかっただろうが。

 そしてこの無関心を、一般的な世間は“冷たい”、“非常識”と餌を得たように否定する。

 しかし彼等もまた、他人の家が火事になったときには我先にと見物に行き、泣き崩れる家主を見ては安っぽく同情する。運び出された黒焦げの死体を見ては顔を顰める。

 そして密かに思うのだろう、自分でなくてよかったと、裏でひっそり安堵するのだろう。

 そんな彼等と自分は何が違う? 何も違わない。どちらも卑劣であり、この世にはびこる汚れの体現だ。

 ならば何故自らのことを棚に上げて相手を糾弾できるか? 他人事だからだ。もしくは、同種と理解しているが故の同族嫌悪か。

 そう、諦念めいた思いでヴィルヘルムは人間という生き物に結論をつけている。

 意味のない思考を切り上げようと、ヴィルヘルムはソファの傍らにあった瓶を掴んだ。中身は半分以下にまで減っていた。

 もう少しでなくなるな、と思いながら蓋を開け、グラスなどに注ぐこともなく口を付ける。


「朝からお酒? しかもラッパ飲みはやめてよ、笑っちゃうから」


 男の小言が聞こえるが無視して、中に残っていた酒を嚥下していく。

 ふー、とアルコールの混じる息を吐いて口元を拭う。笑いたきゃ笑え、と返したかったが、酒精に焼かれた寝起きの喉はそれを許してはくれなかった。

 水を飲んでからのほうがよかったかと思うが、もう遅い。少し唸ると、男が本当に笑う声がした。


「……軍とか警察ならヴィルの方が詳しいだろうに、それを俺に聞かれてもねえ」

「ん? ……ああ。さほど対した階級じゃなかったっての」


 男の言葉が、酒を飲む前に自分が発した独り言への返事であると気付くのに、ヴィルヘルムは少々時間を要した。


「どうだか。戦争の時とか、結構いい所までいったんじゃなかった?」


 二つのカップを手に、男がヴィルヘルムに近づく。


「置いておくよ。水がよかったら自分で持ってきて」


 言いながらソファの前にあるテーブルにカップが置かれる。男は自分のカップを手に、ヴィルヘルムの隣に腰掛けた。


「朝ご飯は何がいい? 近所のゴミ捨て場に生ゴミが大量にあったから持ってこようか?」

「昨日の残りで十分だろ。それにスクランブルエッグでもつけてくれ」

「はあい、了解」


 了承して、ずず、とカップの中身――鼻腔を擽る香りからして恐らくコーヒーだろう――を啜る男が少し身を乗り出す。


「で、犯人結局誰? 闇の力を制御できなくなった十四歳男子?」

「近い」


 新聞の細かい文字に視線を滑らせる男を睨み、ヴィルヘルムは彼を押しのけるように新聞を手渡した。

 男がそれをカップを持っていない手で受け取り、見出しほどではないにしろ結構大きなフォントで書かれた部分を一瞥する。


「“雨で発狂か”――ふぅん、まだやってるんだ」


 一切の興味を失ったように、男の声が冷える。コーヒーを啜り、唇を舐めてから新聞をテーブルに放った。

 雨。狂い雨、とも呼ばれるこの街の雨は、通常空から降るものとは全く違っている。

 ――否。雨自体が異常なのではない。雲が飽和した水分を地に排出する自然の構造自体は同じだ。別に、この街で雨と呼ばれているものは微小な隕石だとか、銃弾が作る鉄の雨だとか、そんなことはない。

 他の地域と全く異なるのは、雨が媒介する“モノ”だ。

 雨に乗り地に落ち、人に付着したそれらは時折、人の脳に入り込む。そのまま長いこと息を潜めて、徐々に脳と心を蝕んでいく。侵入したら最後、それを止める術はない。

 そうして周囲にも本人にも気付かれぬまま、症状が出た暁には急速に精神疾患に似た妄想や不信感をもたらして、遂には極限まで凶暴性を煽り立てて他害衝動を引き起こす。

 狂い雨、と称されるのは、そのせいだ。

 結果、大体そんな他害衝動は、凶悪な殺人事件や強盗として表層化するから、やる気のない警官や軍人達が手っ取り早く射殺する。最後は、こいつは狂人だと判断する。

 加えて、例え発症していなくとも罹患者は隔離され、強制的に収容された先では人間扱いされないとさえ言われている。だから誰も自己申告しないし、大切な人を通報しない。そしてまた、無駄な犠牲者が増えていく。悪循環だ。

 何でも、数年前の戦争時、敵国がこの街の上空にばらまいたウイルスが原因らしい。事実、敵国が嬉しそうに宣伝してきたとも言われている。

 “らしい”、と言うのは、男は全くこの一件を信用していないからだ。そしてそれは、ソファで酒を飲みながら酒瓶を揺らしているヴィルヘルムも同様だった。

 ――下らない。そんなことがあれば、とっくにこの街は廃墟と化している。

 感染したとされる場合の前兆に幻覚症状が挙げられているが、それだって、いたずらに恐怖を煽ったが故の過緊張のせいだろう。

 何より、戦後間もなく例の敵国が虚言だったと証言している。医師達も学者達も、事実無根であると何度も語っている。頭の悪い大勢の一般人と一部の著名人が、必死に吠えているだけだ。

 というのが、気の合わないお互いの、唯一の、一字一句違わず一致した意見だった。

 今読んだ新聞の事件だって、まだ事件を隠せるくらいの理性が残っていた罹患者がしでかしたことだと思われたのだろう。

 杜撰な調査だ。もしかしたら、冤罪かもしれない。


「どうでもいいね」

「ああ、まだどうでもいいことやってんな」


 どうでもいい。それだけだ。他人事のように、ヴィルヘルムは男に同意する。

 その通り、どうでもいい他人事だ。関わりのない他人が死のうが、雨にあてられた人間が狂人に仕立て上げられて冤罪で捕まろうが、自分達はどうもしないし生活は変わらない。

 今まで通り、変な事に付き合わされたり鍵を壊されたり、奇妙な同居生活をしながら暮らしていくだけだ。

 持ったままだった酒瓶の中身を呷る。残りは数口ほどでなくなってしまった。

 注ぎ口から滴る酒の雫を舐め取って、ゴミと化した酒瓶をテーブルに置く。


「……まあ、これで犠牲者が増えるかどうかって所か」

「さあ、何か終わらない気もするけどね」


 酒を飲み終えたヴィルヘルムは、男が持ってきたカップを持ち上げる。

 カップの中に視線を注げば、透き通った赤茶色の液体が見える。蒸らす事もせずにさっさと淹れられた、安い紅茶だった。


「…………おい、俺紅茶苦手なんだけど」

「あ、ごめん間違えた。このコーヒーお前のだった」

「紅茶とコーヒーを間違える馬鹿なんて今まで生きてきてお前が初めてだよ」

「飲む?」

「要らん」


 そっか、と残念そうに眉を下げた男が、テーブルの端にカップを置いて立ち上がる。

 朝食の準備に取り掛かるのだろう。昨晩の残りであるスープを温めるべく火にかける物音を聞きながら、ヴィルヘルムは仕方なしに紅茶を口に含んだ。

 途端に広がった紅茶特有の風味と苦味に、思わず表情が歪む。


「砂糖も入ってないのかよ、これ」


 うげ、と顔を顰め、流石にコレは飲めないとテーブルに戻した。紅茶の苦味はどうにも苦手だ。

 草臥れた黒いスーツに包まれた男の背中を眺め、それから彼が飲みかけで置いていったコーヒーのカップに視線を落とす。

 あの気味の悪い戯画絵師気取りと間接的アレをする気は一切合切金輪際ないが、口直しに何かが欲しい。

 徐々にではあるが、緩やかに酔いも回ってきたところだ。あいつが言った通り、水でも貰おう。

 ヴィルヘルムは立ち上がり、大きく伸びをしてからキッチンに足を向けた。

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