1-戯画絵師と元軍人

戯画絵師と元軍人-1

 雨が降っていた。


 例えるならばバケツを引っ繰り返したような、そんな陳腐な表現に納得してしまうような雨がひび割れたアスファルトを叩く。

 夕刻の、薄暗く薄汚れた大通りには誰もいない。

 普段ならば主婦が家路を急ぎ、遊んでいた子供が慌てて走り、会社員が鞄で雨を避けながら帰路につく時刻である。こうも人気がないのは珍しい。

 とはいえ、当然ではあった。ただでさえ雨が多い街ではあるが、今日の雨は異様に激しく、長い。

 傘すら意味を成さぬような大雨の中を――それも、この街特有の“狂い雨”の嵐の中を、好き好んで出歩く人間はそういない。人の脳と精神を冒す雨の餌食にはなりたくない、そういうことだろう。

 故に、大音量の雨音だけが響く大通りには今、二人分の影しか落ちていなかった。

 半分壊れた庇(ひさし)の下を勝手に借りて、二人の男が立っているだけだった。

 一人は細葉巻を銜え、草臥れた黒いスーツを来た白髪の男。その隣に立つ男は白髪の男よりも背が高く、黒い外套で身を包んでいる。

 雨音が庇を叩く雑音を聞きながら、白髪の男は躊躇う素振りもなく庇の外に顔を覗かせた。灰色の雲が重く立ちこめている空を睥睨してすぐ引っ込める。


「やまないね」


 たった数秒にも満たない時間ではあったが、首から上が濡れるには十分すぎた。

 火が消え、湿気た細葉巻を咥えたままで男がぼやく。片手に茶色い紙袋を持ったまま、額から顎まで伝う冷たい滴を手の甲で拭う。


「俺は言ったぞ、今日は雨が降るって」

「言わなかったよ、お前は。好きにしろとは言ったけど」

「その通りだな」


 ちっと舌打ちして、隣に立っていた長躯の男は自らの過失を受け入れる。

 そうだ、言わなかった自分が悪い。テレビでやっているし新聞にも書かれているし、何より空を見れば分かるだろうと勝手に思っていた自分が悪い。

 だが、まさかこんな天気の悪い日に本当に出かけるとは思わないだろう。しかもわざわざ自分まで巻き込んで。

 一応画材を購入するという目的は達成されているから、無駄足とは言わないが。


「それにしてもお前、寒くないのか」

「生憎と、寒さにだけは強いんだよ。まあ、寒いのは指先が動きづらくなるから嫌いだけど」


 肩を竦めた男に曖昧に頷きながら、長躯の男は濡れた外套の襟を引き寄せた。

 冬が近づく季節に降る雨は、酷く冷たかった。はあ、と息を吐くと白く濁るくらいには外気も冷え切っている。もう少ししたら雨も、白い雪の粒に変わるのだろうか。そうすれば、雨が街と人々にもたらす“汚染”も少しは息を潜めるのだろうか。

 それにしても、こんな悪天候の中何の防寒具も纏わず、草臥れた黒いスーツ一着で外を歩けるこいつは、確かに温感が狂っているのだろう。ヴィルヘルムは、自分より低い位置にある白い頭を睨む。


「やまないね」


 唐突に顔を上げた白髪の男が繰り返す。

 やまないな、と答えて、長躯の男は寒さに震える唇で続ける。


「俺の記憶が確かなら、あと数時間は降り続けるぞ。明朝、テレビで見た」


 沈黙。数秒ほどの間の後、白髪の男は腕を組んだ。


「……あの天気予報、当たらないんだよな。よしヴィル、もうしばらく待とう」

「…………分かったよ画家気取り」


 でも出来ればさっさと飽きろよ、俺が寒い。続ける筈だった言葉を飲み込んだ外套の男は、彼が折れるまで、庇から落ちる雨粒を眺める事に決めた。


 雨は、止まない。

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