26 非常事態
俺達がここに来てから、1ヶ月が経とうとしていた。
一ヶ月間、俺はモンスターを倒したり、図書室にこもって知識を貪ったり。
ハルカさんはひたすら何かの魔法を試していたようで、戦闘には不参加である事がほとんど。だが、文句は無い。とりあえず好きに行動することを、いヶ月前に決めたのだ。
あの両満月の翌日。
俺とハルカさんが決めた方針は、一ヶ月間好きに行動すること。そして、互いの成長に不干渉でいる事だった。召喚者全員と女王も賛同してくれたので、絶賛お試し中である。
俺は直接戦闘術を中心に、ハルカさんは回復魔法を中心に練習を重ねてきた。おかげで、俺は賢者という魔法職にも拘わらず、近接戦闘に必要な筋力や俊敏などのステータスアップ系技能を多く獲得。ハルカさんは回復魔法の効果を広げたり高めたりする技能を多く得たらしい。
マキナ達も同様だが、この一ヶ月間は詳しい情報をやり取りしないようにしている。
みんな才能は違うし、自然と修練方法も違ってくる。
俺はレベルが27と、一ヶ月前のルディを追い越しているが、当のルディは34レベルと、まだまだ追いつかない。
ハルカさんはあまりモンスターを倒していないから、俺よりもずっとレベルは低いな。
魔法は魔力の制御とイメージが大切。回復魔法は特に顕著らしく、少しでも油断すると、中途半端に傷が塞がったり、毒を中和し切れなかったり、傷跡が残ったりするらしい。
そのため、ハルカさんは元々戦闘に向かない性格もあって回復専門の賢者を目指す事にしたようだ。
イユは相変わらず、みんなの服を縫っている。布なのに、かなり硬い鉱石だというアダマンタイトの鎧よりも強固な服を作る腕はさすがである。
マキナは何やら怪しい実験を繰り返しているらしい。液体の入ったフラスコや試験管をモンスターに投げるだけで、爆発、カマイタチ、放電など、様々な攻撃が出来るマジックアイテムの作成が性分に合ったらしいのだ。白衣に似合う特技が追加されたらしい。
先生は俺よりも図書室にこもっている時間が長い。なるべく多くの知識を蓄えようとしているみたいだ。まあ、俺達のいた世界には魔法が無かったから、また一から勉強しなおすような事になっているらしい。
クラナ先輩は……。レベルがなんと41になっていた。
一ヶ月の武者修行だ! とか言って出て行って、つい先日帰ってきた時にはレベルがそのくらいになっていたのである。ボロボロになりつつ筋肉が引き締まっていて、一瞬カッコイイと思った。
一瞬というのは、例によってマキナへの過剰なシスコンが、マキナと会えなかった一か月分一気に解放されたらしい。帰ってきた途端にマキナと遊び始めたので、呆れてしまったのである。
まあ、そんな感じで各々修練に励んだわけだが。
外で、色々と報告をする事にしたのであった。
盗聴は心配していない。ただ、何だかんだ俺とクラナ先輩以外は城にこもっていて城下町を見ていなかったようなので、観光も兼ねて食事に誘った次第である。
選んだ場所は、個室もある食堂であった。
この世界にある宿屋は大抵食堂が自由に解放されており、宿屋に泊まらずとも利用できる。中でも、この一ヶ月間で色々と見て回った結果、宿屋『向日葵』の食堂は美味しいご飯を出し、上客用に用意された個室への配慮が行き届いているのだ。
俺は迷わずここを利用した。
とまあ、先程説明したみんなの状態は、この会合で交換した情報であった。
「最近碌な物を食べていなかったからなー。腹に染みるぞー」
「えっ、それならお腹に優しいメニューにしようよ。ほら、これとか」
「兄ちゃんは健康体だぞ!」
「ふむ。これは中々……」
「……おいし」
うん。みんな美味しそうに食べているし、良かった良かった。
そういえば、当然の事だがこの世界にもお金がある。物々交換の地域もあるようだが、お金として硬貨と品物を交換するのが主流と、そこは俺達の感覚と同じのようだ。
あるのは、下から石貨、鉄貨、銅貨、銀貨、金貨、白金貨である。
更に上があるそうだが、普段は使わないような額だそうなので、そこは省略しておこう。
これらの硬貨は、それぞれ材質は違うが、全て同じ大きさの円い板に複雑な模様が彫りこまれている。それは一種の魔法を発動させる物らしく、偽造が困難との事。
数少ない人族との共通点とも呼ばれており、人族の間でも使われているのだそうだ。
ちなみに、無理やり日本円に換算するとこんな感じである。
石貨=1円
鉄貨=10円
銅貨=100円
銀貨=1,000円
金貨=10,000円
白金貨=100,000円
それぞれ20枚ずつで1つ上のランクになるらしく、紙幣は無い。とはいっても、金勘定は全てルディが行ってくれていたのでそれほど困りはしなかったのだが。
ちなみに、ルディは少し問題が起きたとのことで城に残っている。お小遣いとして金貨を3枚渡されたのだが、ここの料理は全品頼んでも銀貨12枚と、金貨一枚でも相当なおつりが返ってくる。
まあたしかに、イユの食べる量を考慮するとかなり多めに渡したくなるか。
ただ、子供達に定番人気のおやつであるドーナツを買ってあげるとなると、1つ鉄貨1枚である。砂糖がちょっとした高級品である事、また揚げる為の油もまた高級品で、鉄貨1枚は良心的な値段だ。
この店はあくまで品数が豊富なだけで、俺達が思う三食おやつは一日銅貨3枚もあれば事足りる。というか、ちょっとした贅沢も出来てしまう。
「それにしても、今日は朝から何か慌しい気がするよ」
「だぞー。僕もそれは思ったなー。何かあったのかー?」
「今朝、は。図書室で寝過ごしていたので分かりませんが、たしかに城内にほとんど人がいませんでした。いつもなら寝過ごしても、誰かが起こしに来たのですが……」
「変、かな。うん」
話題は近況報告へと切り替わる。頼んだサラダとメインを食べ終え、デザートを店員に頼んだ後の話だ。俺も気になっていた事である。
ルディは俺の世話役だ。当然のように外へ行く時も付いて来て、さっき言ったような資金管理や戦闘時のサポートを行ってくれている。
2歳年下でも、この世界で生まれ育った先輩。魔法での支援は勿論、その剣術も中々の腕前なのである。恐ろしく滑らかな剣閃は、一瞬遅れて対象物が真っ二つになる。切られた事に全く気付かないまま、対象はきれいに2つに分かれてしまうのだ。
この1ヶ月間、血の出るモンスターも含めてかなりの数のモンスターを倒してきた。
そして思う。
まだまだレベルも知識も何もかもが足りないと。
だから、これからも練習と実践を繰り返そうとは思っている。
その上で、ルディの解説はとても分かりやすいし、単純な力でも頼りになる。
なので、今日もそういう褒め話を交えた話をしようと思って誘ったのだが、用事があるのでは仕方が無いと諦めた。
しばらく旅に出ていた先輩はともかく、ハルカさんやマキナは自分の世話役を誘ったらしい。ハルカさんはともかく、マキナは様々な研究をする過程で世話役に色々と迷惑を掛けている事と、何かと気が合う事もあって誘ったらしいな。2人とも今日は断られているが。
城で何か大変なことが起こっているのは明白だが、あちらは俺達に不干渉で行くと決めている。コチラから聞くまでは事情など話さないだろう。
「うーん、やっぱり気になるな」
「僕もだぞー……」
「む、マキナが気になるのなら、お兄ちゃんも何か手伝うぞ?」
「本当かー? お兄ちゃんは頼りになるぞー」
ここぞとばかりに半眼で笑みをつくり、下から目線で兄を誘惑するマキナ。そんな事をしなくても、この人なら大概のお願いを聞くとは思うが、それを指摘することはしない。
この兄妹は、会話中に横槍を入れると、それがよほどの事で無い限り殺気を放ってくるのだ。
殺気だけなら、一ヶ月前に逃げることしか出来なかった黒イノシシの子供よりも性質が悪い。謝るまで、常時2種類の殺気を浴び続ける勇気があるならその限りではないがな。
さて、話は少し逸れたが、お互いの事は話し合ったし、先輩に話題を振ってみた。旅でどんな場所に行ったのかとか、世界がどんな感じなのか、という曖昧な質問だ。
もっとも、擬音語ばかりで分からなかった。
「ばぁっとなってだな、そこで俺がガシィッとしたのだ。それからバーンときてだなぁ……」
こういう感じで延々と続いたので、俺から城へ戻らないかと提案した。
ハルカさんもマキナも、かなり城の様子が気になっていたのか了承してくれたし。イユはお手製の肩掛けマジックバッグの中を漁りつつ頷いてくれた。
ちなみに、今俺達は全員イユが作ってくれた服を着用している。俺とハルカさんは偶然にも一ヶ月前初のモンスター退治時と同じ服だ。真っ白な服のハルカさんとは対照的な、黒いコートのようにも見える、一見聖職者にも見えそうな服である。
先生は聖職者に見える、というか、まんま聖職者だ。白く丈の長い金縁の服は神々しく、手袋やインナーなど、中に着ているものが黒である。
イユは何故か制服のまま、荷見えたが、制服をこちらにある素材で再現しただけらしい。
ただし、ある程度着崩している点は一ヶ月前から変わっているな。
先輩は黒いタンクトップに、深い色合いの迷彩カーゴパンツ。森の中は案外暗いらしいので、それに合わせたようだ。靴も元から履いていたスニーカーを参考に、似たような素材を集めて作ったらしい藍色のスニーカーモドキだそうだ。
そしてマキナだが、白衣を着ている点は変わらない。ただ、わざわざ袖を長く作ってもらって、わざわざまくっているようだ。そして水色のワイシャツに青と黄色のストライプスカーフ。それと、藍色のホットパンツと藍色のハイソックス。茶色のローファーの組み合わせである。
このローファー、召喚時に履いていたものではなく、こちらの素材で出来た鉄よりも丈夫だという魔法の靴だったりするのだが、この説明はまた今度だ。
最初は制服とかが目立ちそうに思えたが、それは杞憂に終わった。
この世界の冒険者や商人は実に様々な服を作ったり着たりしており、むしろ俺達の服装は地味という意味で目立ちそうな場所すらあるのだ。
当然この世界にも学校はあるし、規定を満たしていれば制服はどんな服でも良いらしいので、イユはそれほど目立たないようだな。
目立つのはハルカさんや先生である。どうもこの世界において『白』という色は、魔王と同種を表す色として貴族や高級レストランなどでしか使われないそうだ。庶民が手を伸ばしづらい色であり、お米が茶色系の色である事はここに起因しているのだが、それは横に置いておく。
とはいえ完全に使われていないという事ではないので、貴族出身の冒険者程度にしか見られていないようだ。というのも、一ヶ月以上俺達が召喚者である事を伏せているからなのだが。
城仕えの人でもなければ、俺達の事は分からない。
魔族は人族の姿の者が女王以外いないのだが、姿を人族に変えるアイテムがあるし、魔族の人々はそれを多用しているので、俺達が人族である事もばれていないのだ。
戦争に賢者を巻き込まないとフィオルは言っていた。それ故に賢者は城の中でずっと収斂に励んでいると噂を流し、こうして俺達が城の外にいても怪しまれない環境を作ってくれている。
とてもありがたい。
俺達(というか俺以外の5人)は、戦争とは関係の無い国で生まれ育っている。戦争からなるべく遠ざけてくれるのは本当にありがたいのだ。
一ヶ月前に、悲惨な光景を一部、見せられたけどな。
ともかくその恩をどうやって返せば良いのか悩んでいると、フィオルは「友達になってくれたから」と、満面の笑顔で返してくれた。
とてつもなく良い子である。
だが、それだと逆に罪悪感が募るばかりであるからして、最近はどうにか戦争とやらを終息できないか。直接は精神的に無理だとは思うが、間接的になら手伝えそうな事があるのではと考え始めている。
戦争は人を合理的に殺せる場である、と、誰かが言っていた気がする。
だが、それに耐えられない感覚を持っている日本人であるからこそ、出来る事もあるのではないかと考えたのだ。何せ、戦争で使わないくせに軍が所有する戦力が全世界トップ5に入っている日本の生まれなのだ。攻める事はともかく、防衛くらいなら手伝えるかもしれない。
兵器なんかに興味は無かったが、概要くらいなら知っているし、先生なら色々と知っている気がしたこともまた事実。
一ヶ月前と異なり、ある程度なら力を貸したい。そう思っていた。
ここにいる、召喚者全員が。
―― だが、その決意は遅かった。
突如として、地面が揺れ始めたのだ。
実は個室が2階にある店なのだが、どうにも揺れが激しい。体感では震度4、いや5? それくらいである。下の階からはガラスの割れる音や老若男女の悲鳴が響き、木製の壁や天井が軋む。
そして、窓の無い部屋に響き渡る轟音。
俺は反射的に扉を開け、下の階に向かっていた。
みんなの事は、おそらく先生が何とかするだろう。先生は先生なのだから、避難訓練とかで培った経験を活かして欲しい。
先生なら、ちゃんと講習とか受けていそうだし。
「何があった!」
「お、お客様! そ、それが、何が何やら……」
お腹の出ている店員も地震に混乱しているようである。しりもちを付いて、固定テーブルにしがみついていた。店内外関係無く、城下町は騒然としているようだ。
感覚でしかないが、震度5レベルの地震が起きた。この城下町は地震が起きた事はほとんど無いので混乱を極めているのだろう。何せ、俺達で言う震度1レベルの揺れでも歴史書に載るくらいの珍事であり、その周期は不安定で、100年に1度でもあれば多いくらいである。
それがイキナリ激しい揺れに襲われたのだ。大の大人が泣き叫び、子供は放心し、外から来た冒険者達はかろうじて避難誘導を促している。
そして地震が少ないからであろう、耐震構造などしていない家屋や店は潰れ、その近くには逃げられなかったのであろう者達の血が滲み出していた。
阿鼻叫喚。
日本ならもう少しマシな対応が出来るだろうが、ここはそうじゃない。
泣き声と悲鳴がごっちゃになって、脳を揺さぶってくる。
一部の家屋からは黒い煙も出ており、あちこちから何かが崩れる音が聞こえてくる。
母親を呼ぶ声、助けてとせがむ声。
それらが一緒くたになって、目の前でグルグルと回転する。
視線をどこへ向ければ良いのか。
優先順位をどうつければいい?
ケガをしている人? いや、俺は回復魔法の習得を後回しにしている。応急処置くらいなら出来る、かもしれないレベルだ。
そうだ。回復魔法はハルカさんに任せて――
「スイト君!」
後ろから、聞きなれた声が響いた。
「ハルカさん!」
「分かってる! 【 水よ 風よ 力を貸せ 】 『エリアキュア』!」
基本魔法、キュアの広範囲バージョン。基本魔法にしてはちょっと難易度の高い、混合属性の回復魔法。魔力には属性があり、その属性を適度に混ぜてそれを魔法にして放つ。
癒しの力を持たせた、基本回復魔法のキュア。効力は低いが、擦り傷や打撲程度なら治る。
それも、ハルカさんの回復魔法は、範囲が半径10メートル以内である。書物によると自身を軸に3メートルが限度とか書いてあった気がするので、凄い事だ。
「重傷の人はまだ無理だと思うけど、なるべく治すよ!」
「き、貴族様?!」
ハルカの服の色を見て、ケガを治してもらえたらしい人々が身をすくませた。
「お、お金なんかねぇですよ?!」
「お金は要りませんから、擦り傷、打撲、切り傷が酷くない人なら治せます。集めてもらえますか?」
「え、はあ」
「ですが、ここは危険です。木造で耐震の建物が無い」
先生が話しかけてきた。
「こちらとしては、安全な場所で治療したいですね。僕も少しなら使えますし」
「お城は無事っぽいぞー。石造りだし、随分と昔からある建物だろー?」
「じゃあ、お城の前にある広場に集めてください!」
「は、はい」
本当なら、町中を周って助けた方が良いのだろうが……悪いが後回しになる。
俺達は女王の客人扱いだ。有事の際には、まず城に、というのが鉄則だとルディが言っていた。
それに、お城が耐震構造だろうが何だろうが、少なからず被害はあるはずだ。なら、少しはハルカさんが役に立てると思う。
俺は回復魔法を覚えていないので、役に立てないかもしれないが。
とにかく、城まではどれだけ急いでも20分は掛かる。途中で泉校仕込の応急処置なんかはケガ人にしておいたが……。
「イユ!」
「ん」
包帯代わりに、イユが用意していた布を使う。添え木は適当な枝や金属製の棒を使う。
というか、作る。
「【 土よ 集まれ 】 『スティックレイド』!」
かに的な武器精製魔法。土中にある鉄やらの鉱石成分を空中に固めた、要するに鉄の棒を何本も精製する魔法だ。握りにくいしある程度付加を掛けるとすぐに折れるので使い勝手が悪いが、今は頼りになる。
ちょっとした寄り道もあって、城に辿り着いたのは店を飛び出してから40分後だった。
「―― スイト様!」
「ルディ! 何が起こっているのか分かるか?!」
「そそれが、全く。と、とにかく回復魔法は使えますか?! 先程から城前広場にケガ人が集まっていまして。こちらも手が足りないのです!」
「あー、悪い。集めろって言ったのは俺達だ。けど、手が足りないって……?」
城には兵士が常駐しており、有事の際には回復を引き受ける魔道士もたくさんいる。それこそ城下町の人達をしっかり全部受け入れられるだけの技量を持つ者達が。
しかし、それでも足りないと言っている。
いや、その魔道士達がここにいない……?
「それが、吸血族という一族に異変があったという事で、兵と回復術士達が調査と、出来れば異変の解決を目的に出払っておりまして。回復術師は粗方出払ってしまっているのです」
「……なるほど。城の被害は?」
「食料庫に貯蔵されていたガラス製の容器とその中身くらいで、ケガ人はほとんどいません。また、ケガ人は僕が全員治療したので実質0人です」
「そうか。ルディも回復に回れるか? ハルカさんだけじゃ心配だ」
「スイト様は?」
「一応一ヶ月前のお前よりはレベルが上だからな……。俺は回復魔法が使えないから、せめて、フィオルを守る事に勤めるよ」
「……っ、助かります!」
どうやら、ルディ以外の戦力はほとんどいないらしいな。護衛とか諸々も出したのか?
問題の調査と解決、とか言っていたよな。問題の規模にもよるだろうが、調査目的なら城にいる兵をほぼ全員出すだろうか?
何か怪しい。ただ、ルディに嘘を付いているような気配は無い。
嫌な予感がする。既に嫌な事が起きた後だというのに、悪寒が全身を襲う。
震えだしそうになる身体をムリヤリにでも押さえ込んでいないと、正直、保たない。
下手をすると、黒イノシシの時よりも大きな悪寒。
あれはルディがいたから逃げられた。健脚のビードもいた。あまり役には立っていないが、下級貴族達の護衛もあった。
だが、今回は違う、気がする。
まるで、そぅ。全方位からナイフや銃を突きつけられているような。それも、自分のいられる足場がどんどん狭まっているような。
どうやっても、逃げられないという、予感。それゆえの、悪寒。
余談かもしれないが、父と母に言われた事がある。
『翠兎はとても勘が良いのね。お母さんよりずっと……』
『翠兎、お前、予言者として働けるんじゃないか? いや、贔屓目無しに』
俺が中学生の時の話だ。あの時は内容的に聞き流してしまっていたが、今この状況で大して覚えておかなくても良いような記憶が蘇ったのだから、関係あるのかもしれない。
それに、2人揃って言っていたわけではない。
母さんと父さんが、年、月、日、時分に至るまで、バラバラに言って来たのだ。図って言ったのではない上で、お世辞でもない。
そう思いたい。
いや、この悪寒が杞憂に終われば、それ以上に良い事は無いと思う。
ただこの悪寒の正体によっては、俺は――
―― 死ぬ、かもしれないな。
……いや、見えない未来を決め付けるのはよそう。俺は走りながら首を横に振って、邪念を振り払う。
勢い余って壁にぶつかってしまった事は蛇足である。
ともかくも、玉座の間までやってきた。
人と会って話をするための謁見の間と違い、少しばかり見栄を張った感の否めない、豪華な装飾品が使われている。金貨3枚で大金だと思っている内は変えなさそうな、純金製の調度品や不思議な色合いの水晶っぽい鉱石でできた彫刻などが、これまた高そうなガラスケースに入れられているのだ。
天井は高いし、それに合わせてガラス張りの窓も大きく、高い。壁や天井、床に至るまで真っ白で、扉から王座前まで赤いカーペットが道となっている。
王座も真っ白で、十段ほどの階段の上に置かれており、そこに座る1人の少女が身に着けた漆黒のドレスを映えさせているかのよう。
少女―― フィオルは、女王としての正装であるドレスを身に纏っていた。
フィオルはただ静かに玉座に座っている。
「フィオル!」
「……――」
応答は無く、その瞳は虚ろとなっていた。
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