―4―

 夏だというのに、どこか寂しげで寒さを感じた。おそらくそれは、夜だからという理由だけではないだろう。

 僕は一人、習志野中学の廊下を進む。

 中学に来たのは以前、葉住姉妹と共同で依頼を受けた時以来だ。しかしその時は渡嘉敷さんもいたから、ここに一人で来たのは卒業式が最後だった。

 校内は実に静かなものだった。休日の、それも夜ということもあって、生徒の姿は全く見受けられない。おそらく残っている教師もそう多くはないはずだ。

 僕はその教室の扉を開けた。

 するとそこには予想通り、一人の少女が表紙に鮮やかな絵が描かれた絵本を広げていた。それはかつて文学少女に憧れていると言っていた少女だ。窓から差し込む月明かりが、まるで彼女を物語のヒロインのように照らし出している。

 彼女の読んでいた本は『鏡の国のアリス』。皮肉にも、彼女の名前と関連性を感じずにはいられなかった。


「随分と早い御着きですね、楠木さん」


 少女はそう言いながら絵本をパタリと閉じる。

 僕は彼女の座る席の正面の席に腰かける。初めて出会った、あの時のように。


「決着をつけに――貴女の最後の犯罪を止めにきました、加賀美さん」


 僕がそう言うと、少女――加賀美有栖はにっこりと笑みを浮かべた。本当に、心の底から嬉しいように。


「さて。一体何の決着でしょう」

「決まっています。探偵と犯罪者の決着です」

「私が犯罪者ですか」


 僕は頷いてみせる。

 人を傷つけ、殺した。これを犯罪と言わずして何と言うのだろう。それは法律とか関係なしに、変わらない事実のはずだ。人の命は、一度失われてしまえば、どれだけ後悔してあがいたとしても、決して戻ることはないのだ。


「本当にそうでしょうか。それは今の日本が平和だからであって、ここが戦場なら敵兵を殺すことは決して悪ではないはずです。むしろ善だと言っても過言ではないでしょう」

「いいえ、それでも人を傷つけ殺害するのは悪です」

「あら。戦争は立派な政治的選択肢のはずですよ。それは聡明な貴方なら分かっているはずです」


 勿論、そういった主張もあるだろう。しかし、


「加賀美さん、今の世の中で戦争が善か悪か、意見が対立するのは一体なぜだと思いますか?」

「……」

「簡単です。それは人が死ぬからです。もし仮に戦争が、人の死なないスポーツのようなものだったら、悪だと主張する人間は格段に減るはずですよ」


 だから僕はさっきから言っている。戦争がどうだとかじゃなくて、人を殺害するのは悪だと。


「けれど楠木さん、私たち人間は生きる為に家畜を殺すでしょう? 動物を殺すのと人を殺すの、それにどれほどの違いがあると言うんです?」

「生きる為に家畜を殺すのは仕方がないことです。それも本来なら、ない方が良いのかもしれませけどね。だけど加賀美さん、貴女が人を殺すのは決して生きる為ではないでしょう?」


 故に、加賀美有栖は悪なのである。

 たとえそこにどれだけの理由があろうとも、身勝手に人の命を奪うことは許されてはならないはずだ。それで残された人間がどれだけ辛い気持ちになるのか、僕はよく知っている。


「なるほど。お話しはよく分かりました……けれど、それでも貴方に私は止めることはできない。納得させることも屈服させることも、勿論改心させることもね」


 彼女が机の上に手を組み、両手を合わせたその絡み合う指の上に顎を乗せた。窓から差し込む月光も相まって、話している内容を知らない人間からすれば、まるで恋する乙女のように見えていたかもしれない。それほどまでに、彼女は美しかったのだ。


「ですが楠木さん、それなら貴方も同罪でしょう? 貴方は助けるべき人を見捨ててここに来たのだから」


 そう言って、彼女は壁に掛けられた時計に目をやった。

 時刻は午後七時五十分。加賀美さんが設けた制限時間は、丁度終わりを迎えようとしている。


「残念ですけど、もうすぐタイムアップのようですね。さて、犠牲になるのは野々宮さんでしょうか? それとも渡嘉敷さん?」

「いいえ、そのどちらでもありません」


 僕がそう答えると、加賀美さんの楽し気な表情は一転し、怪訝そうに眉をひそめた。


「まさか、両方とも助けたと?」

「ええ、そのまさかですよ」

「あり得ないわ!」


 加賀美さんは勢いよく――というより、勢い余ってといった感じだが、立ち上がり、バン! と机を両手で叩いていた。それほどまでに彼女にとって、人質二人の救出はあり得ない現象だったのだ。彼女が精神を乱したのは、僕が知る限りでは二回目だ。無論、今日は後ろから不意に刺されることがないように注意している。


「ええ、あり得ませんよ。二人の監禁場所は、制限時間内で両方とも回れるほど近くはなかった」


 仮に一時間で全ての謎を解いたとして、二人の監禁場所の両方に赴くには少なくとももう一時間は必要だったのだ。加えて、人質にはあるがしてあった。


「僕がその仕掛けに気が付いたのは、貴女がある二つの情報をくれたからです」

「情報……?」


 一つ。人質は別々の所に監禁している。

 二つ。助け出せなかった方を殺害する。


「これを聞いた時、僕は疑問を持ちました。もし加賀美さんが直接人質に手を掛けるのなら、必ず傍にいなければならない。僕がどちらを助けに行くのか分からないのに、一体どうやって両方をカバーするのだろう、とね」


 仮に加賀美さんが野々宮さんを見張っているとして、もし僕が野々宮さんを助けに行った場合、渡嘉敷さんのことはどうやって殺すのだろう?


「その方法は簡単です。どちらかを、あるいは両方を遠隔操作で殺害すれば良い」


 加えて、彼女はやたらと制限時間に拘っていた。それで僕は分かった。加賀美有栖は、時限式の装置で人質を殺害しようとしているのだと。


「そう、例えば時限爆弾です」

「ちょっと待って下さい、楠木さん。私が脱走してからそう時間は経っていないんですよ。いくら私でも、そんな短時間で爆弾を用意するなんて不可能です」

「ええ、そうでしょう」

「それなら、」

「ただし用意したのが今日でなかったとしたら?」

「……!」


 加賀美有栖は二年前にも一度、脱走している。爆弾はその時に用意したのだろう。


「全ては二年も前に計画されていたことだったんです」


 少女が俯く。肩が僅かに震えているようだった。

 そして――


「ふ……ふふっ……」

「……?」

「あはははは! あーはっはっはっは!」


 少女は盛大に笑い出した。まるで螺子の外れた玩具のように、笑う。笑い続ける。夜の学校に、彼女の笑い声が響き渡る。

 やがてようやく落ち着きを取り戻したのか、彼女は目尻に浮かぶ涙を拭いながら口を開いた。


「本当に、お見事ですよ、楠木さん。……いえ、名探偵さんと呼んだ方が良いでしょうか?」


 僕は肩を竦ませてみせた。


「貴方を対戦相手に選んで良かった。私は今、ようやく自分が生まれてきた意味を実感しています」

「生まれてきた意味、ですか」

「きっと私は楠木さん、貴方と戦うために生まれてきたのよ」


 何となく、それは分かる気がする。

 探偵と犯罪者。

 きっと僕たちは生まれるより遥か前から、運命の赤い糸で結ばれていたのだろう。ただしその糸の赤さは、大勢の人間の血によるものだったけれど。

 恋愛感情や友情なんて微塵も介在しない、しかしお互いが引きつけ合う。そんな人間は、この世界に二人と存在しない。

 僕にとって猫屋敷綾という少女は特別な存在だけれど、しかしこの加賀美有栖という少女の存在も、間違いなく特別なものであった。


「だけど楠木さん、やはりこの勝負は私の勝ちですよ。仕掛けは時限爆弾。人質を動かした時点でドカン! という仕組みです。助けるには、爆弾を解体するしかない。いくら楠木さんが優秀でも、二つの爆弾を解除してからここに来るなんてできるわけありませんね」


 僕は猫屋敷が死んでから、ありとあらゆる知識を身に付けた。爆弾の解体もその一つで、経験こそないけれどやろうと思えばできるだろう。しかし、今回、僕はそんなことはしていない。


「十……九……八……」


 加賀美さんが時計を見つめながらカウントダウンを進める。


「三……二……一……零!」


 そして――

 ドカン。

 と、小さく音を上げて、夜空に花が咲いた。

 決して綺麗な花ではなかったけれど、しかしそれは僕の確かな勝利を証明するものだった。


「あれは……?」


 その花火を見上げながら、加賀美さんが呟いた。

 そこで再び、僕の携帯電話が鳴る。僕はそれに出ることにした。


『……もしもし、楠木さんですか?』

「うん。聞こえているよ、氷乃さん。どうやら任務は無事に成功したようだね」

『……まあ、一応は。解体が間に合わなかったので、最終的には花火ちゃんが空に向かって蹴り飛ばしましたけど』


 やはりそうだったか。氷乃さんの声の後ろからは「たまやー!」という元気な掛け声が聞こえてくる。名は体を表すと言うが、葉住花火さんの場合は行動も表すらしい。


「どういうことですか、楠木さん」


 僕は加賀美さんの方を向き直し、電話を切ってから答えることにした。


「解決屋の炎氷姉妹リバース・シスターズです。もっとも、僕たちが中学生だった頃は彼女たちはまだ小学生でしたから、貴女が知らなくても無理はありませんが」


 まったく、あの双子は本当に優秀だ。もし彼女たちがいなければ、渡嘉敷さんを探し出し、助けることは不可能だっただろう。あの二人が合わされば、僕なんて容易に追い抜けるし、加賀美さんを打倒することだってできるはずだ。


「でも……それじゃあ、野々宮さんの方は……!」

「ああ、そっちはもっと簡単な案件でした」


 爆発は一つしか発見できなかった。つまり、野々宮さんの救出は成功したという証拠だ。


「加賀美さん、貴女のは敗因はたった一つです」

「敗因……?」

「貴女は僕のことをやたらと警戒していましたけど、本当に警戒すべきは別でした。貴女は野々宮さんを警戒すべきだった。彼女を甘く見ていたことが、貴女の敗因なんですよ」

「そんな……一体彼女が何をしたっていうの!」

「簡単な暗号ですよ。もう一度、僕と野々宮さんが電話で話したことを思い出してみて下さい」


――五十六日と七時間ぶりじゃのう。

――今でも塩を八十九グラム食べる健康法を続けているのかのう?


「ヒントは二つです」


 一つ。不自然な単語。

 二つ。不自然な口調。


「不自然な単語を並べると、五六七塩八九、となります。そしてあの不自然な口調は、暗号を解く鍵は“和風”もしくは“古風”の中にあるということを示しているんです」


 和風もしくは古風でこの単語の並び……僕にはすぐにピンときた。


「京都の街並みを表す数え歌ですよ」


 丸竹夷二押御池まるたけえびすにおしおいけ

 姉三六角蛸錦あねさんろっかくたこにしき


 というやつだ。そしてこの歌の一節に、こういったものがある。僕はその一節を口ずさむ。


「六条 七条 とおりすぎ

 八条こえれば 東寺道

 九条大路で とどめさす」


 そういえば、この歌はかつて修学旅行で京都に行った時に野々宮さんと猫屋敷に教えてもらったものだった。知識というやつはいつどこで役に立つのか分からないものだ。

 歌詞から分かると思いますが、と前置きして僕は解説を続ける。


「不自然な単語は京の通り名を示しているんです。五も六も七も……そして歌には出て来ませんが、塩小路通りという通りもあるんですよ」


 歌詞では九条大路でとどめさすとある。これはつまり、監禁場所が九条大路に該当する場所にあり、自分はそこで殺されてしまうだろう、という意味が込められているのだ。


「面白いことに、花咲交差点の周辺は碁盤の目のようになっているんですよ。丁度、京都の街並みのようにね」


 野々宮さんは花咲交差点の付近で拉致されたという。

 そして京の通りにも花屋町通りというものがある。これが花咲交差点とリンクしているとすれば――


「九条大路にリンクしている場所を探すのは容易いことでした」


 もっとも、真に驚くべきことは拘束され、おそらく目隠しもされていただろう野々宮さんが、自分が運ばれた道順を正確に記憶していたことだろう。


「……成程。ですが、それでも貴方がここに来ている以上、爆弾を解体する人間はいなかったはずです」

「ええ、そうでしょうね」


 と、そこで再度僕の携帯電話が鳴った。

 ナイスタイミングだ。

 僕はスピーカーモードにしてから、その電話に出た。


『よぉう、楠木、こっちは何とか終わったぞ。ったく、卒業してまで手間かけさせんじゃねえよ』


 何とも気だるげに、その中年男性はそう言った。電話の向こう側だから見えないけれど、相も変わらず眠たげな眼差しで、後頭部をボリボリ掻きながらぼやいているに違いない。


「誰ですか、楠木さん」


 机の上に置かれた携帯電話に目を落としながら、加賀美さんはそう言った。炎氷姉妹リバース・シスターズと同様、彼女はこの電話の相手を知るわけがない。いや、正確には顔を見たとことくらいはあるかもしれない。何せ彼女はここ、習志野中学に通っていたのだから。


「本当に助かりました、升田先生」


 僕は携帯電話に向かって、そう言った。

 升田幸一。習志野中学理科教諭。化学部顧問。

 そして僕は彼が未だに大学時代の友人――現在は大学の研究室にいる――と交友があることを知っていた。だからクルミさんを通して彼を頼り、その大学時代の友人からあるものを用意してもらったのだ。


「まさか……」


 加賀美さんの言葉に、僕は頷く。


「液体窒素です。最近は随分簡単に手に入るそうで、大学などの機関ではよく使われています」


 そして大抵の時限式爆弾は、液体窒素を使えば一時的にそのタイマーを停めることができる。時限装置を停めてしまえば、後はゆっくり解体してしまえば良いのだ。

 僕がそこまで説明すると、電話の向こうから一度舌打ちが聞こえ、そこに姫川はいるか? と投げかけられた。僕はこの通話はスピーカーになっていると告げる。


『姫川、俺はお前に直接何かを教えたってことはない。お前が抱える事情ってのも詳しくは知らねえ。けどな、これから生きていく上で一番大事なことを教えるぞ。人間、大変ことは色々あるけどよ、そしたら周りにいる奴を誰でも良い、頼れば良いさ』


 人に頼りっぱなしの人生ってのも、どうかと思うけれど、と普段の彼を見ていたら毒づいていたかもしれない。けれど不思議なことに、今日の升田先生は、本当に教師のように見えた。いや、確かに職業は教師なのだけれど。

 とにかく僕はそれだけ聞くと、もう一度改めてお礼を言ってから電話を切った。

 さて。


「加賀美さん、これで貴女のカードは尽きたわけですが……まだ何か言いたいことは?」

「まったく……残念極まりないですよ、楠木さん。私は誰にも頼らず、自分一人だけで事態を解決させてしまう貴方が好きだったのに……ガッカリです」

「そうでしょうか。僕はこうやって、色んな人に頼ることができる自分が、結構気に入っているんですけどね」


 そしてそれは、かつて猫屋敷が望んだ僕でもある。そんな僕を、僕自身が好きにならないでどうするのだろう。


「しかしそうですねぇ。確かに楠木さんが言っている通り、私の手札はもうありません。だけどそれが分かっていながら、貴方はここに来た。私のことなんて、黙って警察に突き出せば良いのに……一体なぜです?」

「最初に言いましたよね、僕は貴女の犯罪を止めにきた、と」

「へぇ……それじゃあ、楠木さんには、私が何をしようとしているのか、分かっているんですか?」


 加賀美有栖がこれからやろうとしていること――最後の犯罪。

 ここまで三人の人間を殺害し、さらに僕を含めてもう三人を殺害しようとしていた。そんな彼女が、これから何をしようとしているのか。根拠という根拠はないのだが、しかし僕には何となく、予想することができた。それは僕と加賀美さんとの間にある奇妙な絆のようなものがそう告げているのか、あるいは僕の探偵としての勘が囁いているのかは分からない。けれど――


「貴女は、最後にもう一人、殺害しようとしている」

「……」


 それは加賀美有栖の最も近くにいる人間。


「加賀美さん、貴女はここに――自殺するつもりで来ましたね?」


 思えば、彼女には以前から破滅願望のようなものがあった。中学時代の放火だって、一歩間違えれば自分が死んでいたかもしれない。爆弾だってそうだ。彼女は他人を無意識の内に傷つけようとしているのと同じく、自分自身のことも――殺そうとしている。


「だから貴女は最後の場所にこの中学を選んだんです。貴女の魂は、未だにここに繋ぎ止められたままだ」


 そしてそれは、僕自身もそうなのかもしれない。


「自分自身を殺すんだから、そんなに簡単なことはない。毒でもナイフでも、何でも良いんですからね」


 加賀美さんは何も言わない。ただ俯いているだけだ。

 しかしすぐに彼女は顔を上げ、口を開いた。


「もしそうだとして、一体どうしようと言うんです?」


 そんなこと、決まっている。


「止めます。何としても」


 これ以上、僕の目の前で誰かが死ぬところを、僕は見たくない。

 加賀美さんは、静かに微笑むと、


「無駄ですよ、楠木さん。私は誰にも止められない。私、病気なんです」

「病気」

「ええ、とっても重い病です」


 彼女を蝕む病。

 狂気という、生きている限り決して解放されることのない不治の病。


「私の中で、頭の中で、ずっと誰かが言っているんですよ。殺せ! 殺せ! 殺せ! 全部ぶっ壊せ! ……ってね」


 彼女が両手を広げる。その姿はまるで翼を持った天使――いや、どちらかと言えば“悪魔”か。かと思えば、今度はぐったりと頭を垂れた。


「ねえ、楠木さん、貴方に分かる? 自分の中に、自分じゃない誰かがいる感覚……ねえ、楠木さん」


 ――私を殺してくれない?


「……お断りします」

「なんで……なんで、私だけこんなに苦しまなきゃいけないの」


 彼女の頬を、一筋の涙が伝う。

 自分の中にある狂気に蝕まれる感覚。そんなもの、僕には想像することはできない。だが、それでも、他者を傷つけた加賀美有栖は、裁かれるべきなのだろう。

 けれど――

 目の前で泣いている女の子がいた時、そっと抱きしめることすらできないようでは、それは狂気に支配されているのと、そう大差ないのかもしれない。

 僕はそっと加賀美さんに歩み寄り、その正面に立つ。


「本当に……楠木さんは、優しいですね」


 そう言って、彼女は笑みを浮かべた。小さく、儚げに。

 しかし――


「本当に――優しくて……甘いですねぇ」


 僕の胸に、ナイフが付き立てられていた。

 その衝撃に、僕は思わず、二歩三歩と後ずさる。

 まったく――これでは二年前の再現じゃないか。

 しかし、


「加賀美さん、僕もね、全く成長していないわけじゃないんですよ」


 僕の胸からは、血は一滴も零れてはいない。

 僕はゆっくりと胸元のナイフに手を伸ばし、それを引き抜いた。


「ヒステリックに泣き叫ぶ演技も結構ですが、もう少し周りに気を付けた方が良いと思いますよ」


 僕はそう言いながら、シャツを捲り、丁度胸の辺りに仕込んでいた冊子を抜き出した。その冊子にはナイフによる穴が空いているものの、しかし表紙の装飾は実に美しいものだ。


「あまり深く刺し込まれたら、これでも無事では済まなかったのでしょうけど、生憎、僕も用心していましたので」

「それは……!」


 僕は取り出した冊子を、加賀美さんの前に差し出した。


「鏡の国のアリス……貴女が先程まで読んでいたものですよ」


 葉住花火さんが蹴り飛ばした爆弾が上空で爆発し、加賀美さんの視線が数秒そちらに釘付けにされたその隙に、僕はその絵本をシャツの中に仕込んだのだ。まさか銃を持っている、なんてことはないと思うけれど、ナイフの携帯くらいはしていそうだと、そう判断したからだ。

 僕は伸ばされた加賀美さんの腕をとり、関節を極める。そしてそのまま、彼女の上体を後ろ手に机に組み敷いた。


「知っていますか、加賀美さん。現行犯なら、たとえ民間人であっても被疑者を逮捕できるんですよ」


 僕は彼女を抑え込んだまま、冷たく告げる。


「加賀美有栖、殺人未遂の現行犯で、逮捕します」


 やがて、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきたのだった。

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