―1―

 僕は一人の女の子の元に駆け寄った。


「すみません、お待たせしてしまって」


 いいえ、と少女が小さく首を振る。


「私も少年院というところに来る機会はないので、良い経験になりました」


 と、その少女は笑って見せた。

 今日は暑いからか、長い黒髪をいつもとは違って後ろに一本にまとめ、夏の空みたいな澄んだ青を基調としたワンピースの上に、まるで湧き出た入道雲みたいな白のカーディガンを羽織っている。僕は彼女――渡嘉敷雅さんと共に、姫川……加賀美さんの面会に来ていた。

 と言うのも、本来は今日の外出は渡嘉敷さんの提案だったのだ。

 

――アヤちゃんのお墓参りに行きましょう。


 つい先日、僕と猫屋敷との出会い、そして別れるまでの物語を聞いた渡嘉敷さんは、どういうわけかそう言って、僕を猫屋敷の墓参りに誘ったのだ。

 で、その週の週末、つまり今日であるが、こうして彼女と共に外出しているというわけだった。

 本当ならば野々宮さんやクルミさんも誘って、一緒に来ることができれば良かったのだろうが、生憎と二人には別の予定が入っているようで、僕たちは二人きりだった。

 二人きり、と言うと世間一般ではデートなどと呼ばれるのかもしれないけれど、僕にそんなつもりはないし、おそらく渡嘉敷さんの方にもそんな気はさらさらないのだろう。何せ行き先を墓参りなんて指定しているくらいだ。それに、そんなところをもし猫屋敷に見られてしまっては、彼女はきっと機嫌を悪くしてしまうだろう。僕は、せめて好きな女の子一人くらいには、ずっと笑っていて欲しいのだ。

 僕と渡嘉敷さんは並んで歩き出す。


「それで、どうでしたか、姫川さんの御様子は」

「元気そうでしたよ……ああ、いや、やっぱり近々また病院に戻らなくてはならないそうです」

「そうですか……あの、楠木さん」

「何でしょう」

「後悔、されていますか? 姫川さんのこと」

「いいえ。確かにあの時の僕は未熟だったとは思いますけどね。後悔はしていませんよ」


 後悔はしていない。少なくとも野々宮さんの依頼を引き受け、僕自身が姫川さんの調査にあたったということは。でなければあの案件は野々宮さんが対応せざるを得なくなっていただろう。確かに彼女ならばもっと上手くやれたのではないだろうか、という可能性はあるけれど、しかしもし失敗したのなら――刺されたのが野々宮さんの方だったら、僕は悔やんでも悔やみきれなかったに違いない。

 さて。

 僕は本題に入ることにした。


「それにしても、どうして今日は猫屋敷のお墓参りに?」

「そうですねえ……今日がとても良い天気だったから、というのはどうですか?」


 そう言った彼女の表情に、思わず僕の心臓が跳ねあがった。いや、表情だけではない。その言葉さえ――僕はある一人の少女を思い出さざるを得なかった。

 瞼の裏にフラッシュバックする記憶。

 それは紛れもなく僕が好きだった女の子のものだし、僕たちの人生においておそらく最も華やいでいた時期の記憶だ。

 猫屋敷綾なら――


「きっと、アヤちゃんならこんな風に答えるんじゃないかって……すみません、少しイジワルしてみました」

「驚きました、正直」

「ごめんなさい。つい出来心で……もうやりませんよ」

「いえ……それはそうと、どうして猫屋敷がそんなことを言いそうだと?」


 確か渡嘉敷さんと猫屋敷が別れたのは小学校に入るよりも前だったはずだ。いくら手紙のやり取りがあったとはいえ、何だか奇妙な感覚である。

 渡嘉敷さんはふふっと笑ってみせ、


「もしそう思ったのなら、きっとアヤちゃんは昔からそんなに変わっていなかったんでしょうね」

「今だって、そんなに変わっていませんよ」


 もし生きていれば、であるけれど。


「それで、本当のところはどうなんですか?」

「お墓参りの理由ですか?」

「ええ。……その、猫屋敷の死と、何か関係が?」


 彼女の視線が、また遠い空へと向けられる。もしかしたら、渡嘉敷さんが僕を誘ったことの理由を、彼女自身もまだよく理解できていないのかもしれない。

 何も答えてはくれない渡嘉敷さんを横目に、僕はそれ以上訊くまいと思った。とにかくこうして一緒に猫屋敷の墓参りに行けば、何か分かるかもしれない。渡嘉敷さんだって、考えがまとまるかもしれない。

 僕は話を変えてみることにした。


「そう言えば渡嘉敷さん、もうすぐ夏休みですけど、何かご予定は?」

「折角の長期休みですし、イングランドに残って仕事をしている父に会いに行ってみようかと思います」


 そうか、彼女はつい最近までイギリスで暮らしていたのだった。

 イギリスか……シャーロック・ホームズの聖地だな。かつて猫屋敷も一度くらいは訪れてみたいと語っていたのを思い出す。


「ホームズの他にはビートルズやシェイクスピアなんかも有名ですね」

「その辺りのものは、現地でもやっぱり人気なんですか?」

「ホームズに関しては、そうでもありません。きっと日本と同じくらいの認知度や人気ですね。でもビートルズは伝説のような扱いですし、シェイクスピアは海外、特にヨーロッパでは基本教養のようなところはあります」

「へぇ」


 そういった海外の事情というのは、やはり日本にいるだけでは感じることは難しいのだろう。思わず感心してしまうのと同時に、自分の視野がまだまだ狭いということを痛感させられてしまう。

 それから僕たちはゆっくりとした足取りで街並みを進んだ。

 子供の頃の猫屋敷はどんな性格だったのか。逆に、中学での彼女の様子はどうだったのか。話の中心は猫屋敷のことだったが、どうやら彼女は今も昔もそれほど変化はなかったらしい。変化した部分を強いて挙げるとするならば、


「楠木さんという素敵な人と出会えたことでしょうね」


 渡嘉敷さん曰く、昔の猫屋敷が誰かに恋をするなんてことは、全く想像できなかったらしい。


「でも、実際に楠木さんとお会いして、納得してしまいました。もし日本に残ったのがアヤちゃんではなく私だったら――もし楠木さんとお会いしたのが私の方が先だったら、私も貴方に恋をしたかもしれませんね」

「いくらなんでも、買い被りすぎです。それに相手が貴女じゃあ、僕の役者不足ってものですよ」

「あら。そんなことないと思いますけど」


 そう言って、渡嘉敷さんはふふっと笑ってみせた。

 渡嘉敷さんは素敵な女性だ。大抵の人間は、きっと男女問わず彼女に憧れるだろう。百歩譲って容姿の面では猫屋敷と五分だったとして、性格に関して言えば渡嘉敷さんの方が圧倒的に魅力的である。


「そんな風に言われたら照れてしまいますよ……だけど、それでも楠木さんはアヤちゃんを選んだ。私でなくても、例えば枢木さんや野々宮さんといった素敵な友人がいるにも関わらず、です。それはなぜです?」

「なぜって、それは……」

「まさか、一目惚れなんて言うつもりはありませんよね」


 そんなつもりは、ない。

 僕は恋愛とか、そう言った感情的なものに関してはそう否定的なつもりはない。事実、人が人を好きになるという事象は数多く発見されているし、僕自身もそうであった。けれど、一目惚れというところまで信仰しているかと言われれば、否定せざるを得ないだろう。最終的な判断は感情に基づくことがあっても、基本的なところでは人は冷静に相手を判断しているものだ。


「では、仮の話をしましょう。もし仮に、楠木さんがアヤちゃんではなく、私と先に出会っていたら……貴方はアヤちゃんではなく、私のことを好きになりましたか?」


 そんなことを言った渡嘉敷さんの表情は、世間一般の女性が恋の話をする時の楽し気なそれではなく、真剣そのものであった。ならば、そんな質問を投げかけられた僕にもきちんと考え、答える義務があるだろう。

 僕は考える。

 もし――

 もしもの話だ。

 もし、かつての僕が猫屋敷綾より先に渡嘉敷雅に、あるいは彼女たち二人と同時に出会っていたら、一体どちらに恋をしたのだろう。

 考えてみよう、と思ったが、不思議なことにそれほど思考力を動員しなくとも答えは出た。それは一+一が二になるように、あるいは空に放った物体が地面に落ちるかのように、つまりは僕にとって必然的なものだったのだ。


――僕には、自分が猫屋敷以外の人間と恋に落ちるところを、どうしても想像することができなかった。


「きっと恋って、そういう気持ちのことを指すんでしょうね」

「かも、しれませんね」




 猫屋敷綾の墓標は、花咲交差点から二十分程歩いた小高い丘の上にひっそりと佇んでいる。季節によってはそこから色とりどりの花が咲き乱れる交差点を見下ろすことができ、それは猫屋敷が退屈しないように、と彼女の両親が考えた結果だった。

 僕は月命日の度にそこを訪れ、墓の周りを掃除し、花を供えている。幽霊としてではあるが猫屋敷本人が僕の目の前に現れているから、その彼女の墓参りなどというのは少し変な感覚なのだが、まあ、一種のケジメというやつだ。それが習慣になって、今でも続いているというわけだが、しかし、こうして誰かと一緒に来るというのは初めてのことだった。

 丘を登った僕は渡嘉敷さんと共に、まずはいつも通り、猫屋敷の墓やその周辺の清掃から取り掛かった。ここは普段人が来るようなところではないから、人工物のゴミはほぼないのであるが、しかし自然から発生したもの(鳥の糞や落ち葉など)があるので、少しばかり手がかかる。

 その清掃も今日は二人がかりということもあってすぐに終わり、僕と渡嘉敷さんは並んで墓の前に立った。

 猫屋敷を、彼女との過去を回想しながら、僕は目を閉じる。

 ここで考えることは、いつも同じだ。

 ――猫屋敷、君はどうして自殺なんてしたんだい?

 そう尋ねたところで、当然ながら返事はない。それは墓そのものからもそうであるし、幽霊の彼女に同じように尋ねたとしても、返ってくる答えは大して変わらないだろう

 僕が目を開け、脇に視線をやると、渡嘉敷さんはまだ目を閉じたままであった。

 一体彼女は何を考えているのだろう。想っているのだろう。

 渡嘉敷さんは猫屋敷の死の秘密が分かったと言っていた。もしかしたら、彼女はこうして拝むことで答え合わせをしているのかもしれない。

 少しして、ようやく彼女は目を開けた。


「楠木さん」

「何でしょう」

「貴方はとても頭が良いですよね。きっと名探偵に誰よりも相応しいのは貴方です」

「そんなことはありませんよ。僕の閃きは、運によるところが大きいです」

「謙遜なさらなくても結構ですよ。それに、いくら取り繕ったところで、貴方の目指しているところは名探偵なのでしょう?」

「まあ、約束しましたからね」


 ――謎を解きたまえ。


 今でも鮮明に思い出すことができる。大空に向かって両手を広げていた彼女は、いつも通りに不敵な笑みを浮かべ、そう言ったのだ。そう言って、その直後にトンと、本当に軽く地面を蹴とばしたのだ。そしてたったそれだけの行動で、彼女の人生を終わりを迎え、そして僕の人生も、もはや終わったも同然になったのだった。

 僕は渡嘉敷さんの言葉に補足することにする。


「ですが、渡嘉敷さん。確かに僕は頭が良いかもしれない。だけど、到底、あの猫屋敷綾という少女には及ばないんです」


 彼女ほど優秀な人間というのに、僕は未だに出会ったことがない。僕ではとてもではないが勝てる気がしないし、何より彼女が残した“謎”を解き明かせないでいるのが、その証拠だろう。


「本当は、とても簡単なことなのかもしれません」


 渡嘉敷さんが胸の前で両手を合わせ、指を絡める。そして祈るように瞳を閉じて、続ける。夏の日差しを受けた彼女の姿は、まるで聖母のようだった。


「簡単で、単純で――誰の傍にもあるような、そんな答えなのかもしれない」

「渡嘉敷さんには、分かっているんでしょう?」


 猫屋敷がなぜ、自ら命を絶ったのか。

 なぜ自殺などしなくてはならなかったのか。


「楠木さんにとって、アヤちゃんはどんな女の子でしたか?」


 僕にとっての猫屋敷がどんな女の子だったかだって?

 恐ろしく頭が切れて、度胸があって、名探偵に憧れていて、自意識過剰で、面倒くさがりで読書が好きで――自称・変人。

 それが、僕から見た猫屋敷の像であり、猫屋敷綾という人間を知っている人間は、大方同じように判断することだろう。


「“楠木さんのことが好き”が抜けていますよ」

「それは、まあ……でも、それが一体どうしたって言うんですか?」

「分かっていませんねぇ」

「はい?」

「楠木さんは、アヤちゃんのことを、確かによく知っているのかもしれない。けれど、全く理解できてはいませんよ」

「そんなことは――」


 ない。

 と、言い切ることができたら、どれだけ気が楽だっただろうか。

 生憎ながら今渡嘉敷さんが言った通り、僕は猫屋敷のことを全く理解してあげられなかったのかもしれない。もししていたら、彼女が自殺するなんてことはなかっただろうし、仮にしたとしても、その理由が分かったはずだ。


「では、渡嘉敷さんには猫屋敷が分かっていると言うんですか?」

「いいえ。ですが、確実に言えることが一つだけあります」

「それは」


 彼女はにっこりと微笑むと、


「アヤちゃんは、楠木さんが思っている以上に普通の女の子だったってことですよ」

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