探偵と幽霊少女と最後の事件
プロローグ
自称・幸福な女の子と対峙していた。
「今日は、楠木さん」
「今日は、姫川さん」
真っ白な部屋だった。壁も床も、まるで降りたての新雪を敷き詰めたような、白。あるいは目を覆いたくなる衝動に駆られてしまうその部屋は、どうやら目の前の少女がリクエストしたものらしい。
少女は相変わらずその長い黒髪を二つに結い、そして部屋同様、真っ白な衣類で身を包んでいた。彼女と僕は目と鼻の先という距離にいるが、しかし互いに触れあうということは物理的に不可能な状態にあった。僕と彼女の間には、透明なガラスが張られている。会話用に幾つか小さな穴が空いてはいるが、接触するのはほぼ不可能である。
少女が柔らかな笑みを浮かべる。
「嫌ですね、私はもう姫川有栖ではないんですよ」
「そうでしたね……
と、僕は訂正した。
姫川有栖という女の子はもうこの世に存在していない。その女の子の名前――姫川という苗字は、彼女の両親が離婚し、引き取った母親の旧姓であるところの加賀美へと変わっていた。
「ここに通い始めてからもう随分経つというのに……まだ慣れませんか?」
「すみません、人の名前を覚えるのは、少し苦手なんです」
「そうでしょう。貴方はどちらかと言えば、他人に無関心な方です」
「そんなことはありませんよ。現にほら、僕はこうして貴女に会いに来ているじゃないですか」
「見え透いた嘘ですね。貴方がここに通っているのは、単に責任を感じているからでしょう?」
二年前、僕のとった身勝手な行動によって、姫川有栖という一人の女の子が崩壊した。僕は僕なりに彼女を救おうと動いた結果なのだが、彼女のとった凶行を思えば、やはり責任を感じずにはいられない。
姫川有栖――現在の加賀美有栖は、自宅を放火した後、逆恨みから同じ中学校に通っていた男子生徒をナイフで殺害しようとした。殺害の方は未遂で終わったものの、心身喪失で責任能力はないと判断され、逮捕後に精神病院に入院する運びとなった。が、そこを退院し、少年院へと送られる途中に隠し持っていた刃物で係の人間を殺傷、刑期を伸ばすことになった。しかし現在収監されている少年院では、そんな凶行の欠片さえ微塵も見せず、むしろ模範的な囚人……ということを、僕は伝え聞いていた。だからこうして面会が許されているというわけだ。
「それで、今日はどのようなお話しを持ってきてくださったんです?」
「いえ、今日は何も。近くを通りかかったので寄ったまでです」
「あら、そうなんですか。それは少し退屈ですね」
「すみません。今度来た時は何か面白い話を持ってきますよ」
「とびっきり幸せなものを、お願いしますね。甘すぎて虫歯になってしまいそうなものを、ね」
「善処します」
そう言って僕が席を立とうとした時、彼女がまた僕を呼び止めた。
「そうそう、楠木さん」
「何ですか?」
「幽霊って信じますか?」
「……」
僕はその言葉に、思わず固まってしまった。
僕には、幽霊が見える。
――とはいっても、それはたった一人に限定されるのだけれど。
「どうかしましたか?」
「いえ……でも、どうしてそんなことを?」
「別に深い意味はありませんよ。ただのありふれた世間話です」
「ありふれてはいないと思いますけど」
「で、どうですか。信じますか? 信じませんか?」
「どうかな。信じたいとは思っていますよ」
「あら、では信じていないんですか?」
「さあ、どうでしょうね」
猫屋敷綾は幽霊である。けれどそれはあくまで変人の彼女が自称しているにすぎないことだし、僕以外では彼女のことを視認できるわけではないのだから、証明のしようもない。確かに彼女の存在は世間一般で言うところの“幽霊”ではあるけれど、しかしどうだろう。あるいは僕だけにしか見えない――僕が作り出した幻ということはないだろうか。
などと考えたところで、結局のところそれは無駄なことなのだろう。仮に猫屋敷が幽霊ではなく僕の妄想が具現化したものだとして、その二つに一体だれだけの差があると言うのだろうか。それに――
一度死んだ人間は、もう戻ってくることはないのだ。
「どうかしましたか? 何やら怖い顔をしていますけど」
と、加賀美さんの言葉で僕ははっと我に帰った。
「いえ、何でも」
「そうですか」
僕は今度こそこの場を後にしようと踵を返す。が、そんな僕の背中に再び彼女の声が投げかけられる。
「ああ、そうでした、楠木さん」
「……」
「私、一つ報告がありました」
「報告……?」
「ええ。近々また病院の方に戻ることになりまして」
「近々というと?」
「今晩にでも」
「それはまた、えらく急ですね……どこか、悪いんですか?」
「心の方が、少しだけ。まあ、私自身は何ともないと思っているんですけどね。周りの方々の決定で仕方なく、と言ったところでしょうか」
「そう、ですか」
僕は確信した。
彼女はまだ、自分を幸せだと思い込んでいるのだと。
それはとても憐れで、同情すべきことなのだろう。しかし、どう思ったところで、何を考えたところで、僕には――人間には、他人の考えを変えることはできないのかもしれない。結局は本人が気付いて自主的に変わっていくしかないのだ。そこに他人が介入する余地はないし、するべきではないのかもしれない。
僕は小さく息を吐くと、彼女に背中を向けて、
「では、また来ます」
「ええ。また今度」
そして、冷たい廊下を歩き出した。
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