―7―
夢を見ていた。
すごくリアルな夢だったけれど、僕にはそれが夢だとはっきりと分かった。どうして夢だと分かったか、簡単だ。
僕が立っているのは封鎖されているはずの学校の屋上だった。
さらに、夕陽が嘘みたいに綺麗だ。
加えて、目の前に一人の女の子が立っている。
ショートカットで手足が細くて、目の大きな――自称・変人。
「やあ、楠木君、久しぶりだね」
「やあ、久しぶり、猫屋敷」
僕の視線の先には、猫屋敷綾がいた。
まるで生きているみたいに、微笑みを浮かべて立っていた。
「おいおい、泣いているのかい?」
と、からかうように彼女が言った。
言われてみて、僕は自分の頬を伝う水滴の存在に気が付いた。実感はなかったけれど、どうにも僕は自分で思っていた以上に、猫屋敷に会えて嬉しいらしい。
「まったく、君は身勝手だね」
と、僕は言う。
「悪かったね、身勝手でさ……とは言え、君もなかなかに身勝手な性格をしていると思うが」
「僕が、身勝手……」
まあ、そうかもしれないな。
身勝手に後輩を利用し。
身勝手にクラスメイトを理由にし。
身勝手に――一人の人間を救おうとした。
結果――フラッシュバックする血の海――あんなことに。
しかしどうだろう、胡蝶の夢なんて言葉もある。もしかしたらあの惨劇が夢で、今見ている景色が現実かもしれない。
「まさか」
猫屋敷が肩を竦ませてみせる。
「これは紛れもなく夢だし、君がナイフでめった刺しにされたのは、間違いなく現実だよ」
「めった刺し……」
他人に言われると、ますます精神的にくるものがあるな……。
まあ、とにかく、ここが天国ということはないらしい。
しかし、そうなると、
「僕は一体どうなったのかな」
猫屋敷はここを夢の中だと言っているけれど、もしかしたら天国かもしれない。それならば死んだはずの彼女がいるのも納得ができる。
「いやいや、ここは現実だよ。
「まだって……」
「本当にギリギリだがね」
「嫌な言い方だね」
「まあまあ、こんなに可愛い女の子とまた会えたんだ。細かいことは良いじゃないか」
自分で「可愛い」と言わなければ、完璧なんだけどなぁ……しかし、彼女のこの物言い、どうやら間違いなく本物の猫屋敷綾らしい。
「君の身体は今、事件現場の近くの大学病院のベッドで横たわっているはずだよ」
「じゃあ、生きてはいるんだ」
安心したと言うか拍子抜けしたと言うか。
「だから、ギリギリだと言っているだろう。野々宮さんの適切な処置がなければ、君は今頃――」
猫屋敷はそこで言葉を切ったが、彼女が何と言おうとしているのかは分かる。
もし野々宮さんの適切な処置がなければ、今頃僕は――死んでいただろう。
まったく、彼女には感謝してもしきれないな。
「感謝と言えば、楠木君、ぜひとも私にも感謝して欲しいものだ」
「猫屋敷に? どうして?」
「君が今、現世に残っているのは――生き残っているのは、私のお陰でもあるのさ」
「どういうことだい?」
「君の魂を、」
彼女が僕の胸を人差し指でトントンと叩いてみせる。
「君の肉体に繋ぎ止めているのは、誰でもない、私なのさ」
「随分とオカルトなことを言うんだね。君はもう少し論理的にものを考える人だと思っていたけど」
まあ、それを言ったら、いくら夢だとしてもこうして死んだはずの猫屋敷が目の前にいるのも不思議な話だけれど。
「君は私のことを想っているから、死なずに済んでいるのさ。愛の力というやつだね」
「ああ」
なるほど。
そう言えば、意識が途切れる直前、野々宮さんが言っていたな。
――君は生きなきゃダメだよ! だって……猫屋敷さんと約束したんでしょう? 謎を全て解き明かすって……名探偵になるって!
猫屋敷との約束。
あれがあったから、僕は生きようと思えたのだ。でなければ、僕はとっくに生を諦めていただろう。
「それはそれで、あの世でまた一緒にいられるから、私は構わないけどね」
猫屋敷がイタズラめかして笑ってみせた。
「猫屋敷、訊いても良いかな?」
「何でもどうぞ」
と、彼女は屋上と空を区切るフェンスに身を預けながら、掌をこちらにむける。
僕も彼女の横で、背中をフェンスに寄せて続ける。
「君は幽霊?」
「どうかな。自分じゃあ、よく分からないんだ。もっとも、死んでしまっているのは確かだけどね」
「死んだのは……自殺、だよね」
「ああ、そのように記憶しているが」
「どうして自殺なんてしたんだい?」
ずっと、訊きたかったことだ。
何の悩みもないはずの、いや、仮に何か問題があったとしても、それは自殺するほど大きなものではなかったはずの、そんな猫屋敷がどうして死ななければならなかったのか。
いくら考えても、どれだけ推理の腕を磨いても、その答えは出なかった。
猫屋敷はクルリと体の向きを変え、鮮やかな夕陽を視界に収める。フェンスに手をかけながら、彼女は口を開いた。
「内緒」
すっと、彼女の細い人差し指が僕の唇にあてられる。
「答えを出題者に訊くのでは面白くないだろう?」
「別に、面白いから推理しているわけじゃ……」
「私は面白くないさ。君には、自力で答えに辿り着いてもらわなくてはね」
「そんな意地悪しないでさ、教えてくれないかな」
「ダメだと言っているだろう」
やはりダメか……こうなった猫屋敷は意地でも口を割らないだろう。死人に口なしとは、まさにこのことだ。
「他に訊きたいことは?」
「……いや、今はないかな」
「そうか。それは良かった。ちょうど、残り時間も少なくなってきたことだしね」
「残り時間」
僕が聞き返すと、猫屋敷は沈みかけている夕陽を指差した。
「君がここにいられるのは、あの夕陽が落ちるまでと決まっているんだよ。それ以上ここに留まると、君は戻れなくなる」
夕陽は、もう半分ほど沈んでいた。あと五分もすれば完全に沈み切ってしまうだろう。もしそうなったら猫屋敷とは――
「僕は……戻ったら、君とはもう会えなくなるのかな」
「寂しいかい?」
「勿論」
ふふ、と猫屋敷が小さく笑う。
「安心したまえ。すぐにまた、会うことができるさ」
「そうなの?」
「ああ……君が私のことを忘れない限り、ね」
忘れるものか。
忘れたくても、忘れられないだろう。
僕がそう返すと、彼女はまた笑みを浮かべる。
「さあ、そろそろ時間だ。野々宮さんが、君のことを待っている」
「野々宮さんが?」
「どうやらずっと付き添ってくれていたようだよ」
「彼女らしいね」
「まったくだ」
本当にお節介なお人好しだ……だけど、僕はそこに感謝しなければならないだろう。
夕陽が沈んでいく。地平線が赤く染まり、そして穏やかに青い夜がやってくる。
視界がゆっくりとぼやけ、猫屋敷の身体が歪み、僕は平衡感覚を失っていく。
「それじゃあ、楠木君、また会おう」
ああ、猫屋敷、必ず――
そう答えるより先に、視界が暗転した。
意識が戻った。
僕は目を開けようとするが、瞼は重い。無理もないだろう。あれだけの傷を負ったのだから。こうして生きているだけで十分だ。
僕は身体に力を入れてみる。
しかし、同時に至る部位が激しい痛みを訴えた。思わず顔が引きつる。
ならば、と思い、今度は五感に集中してみることにした。
触覚。手先を動かすことは何とかできるようだが、全身を動かそうとするとかなり痛い。
視覚。暗いまま。目を閉じているのだから当然か。
味覚。血の味がするが、おそらく気のせいだろう。おそらく数日の間何も口にしていないだろうから、口の中は乾ききっているのが分かった。
嗅覚。消毒液の匂いがする。おそらく僕の身体は、夢の中で猫屋敷が言っていた通り、病院のベッドの上に横たわっているのだろう。
聴覚。静かだ。病院だから当たり前か。
……いや、よく耳を澄ませると、身体のすぐ横から、薄っすらと誰かの寝息が聞こえた。
誰だろうと思い、僕はようやくその重い瞼を開けてみることにした。
まず視界に飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。そして、窓から差し込む夕日の光だ。僕はその眩しさから目を逸らすように、頭を何とか動かし、ベッドの逆側を――つまり寝息が聞こえた方を見る。
そこにいたのは、制服姿の野々宮美里だった。
ベッドに突っ伏し、しかし顔だけはこちらを向けて眠っていた。実に気持ちの良さそうな寝顔だ。
僕はしばらくその寝顔を眺めていようかとも思ったが、訊きたいこともあったので彼女を起こすことにした。
「野々宮さん、起きて下さい」
「うーん……って、楠木君! 意識が戻ったの!? 大丈夫? どこか痛いところはない?」
がばっと起きた彼女は、寝起きにも関わらず噛みつかんばかりの勢いで質問してきた。
「大丈夫かと訊かれたら大丈夫じゃないですし、どこか痛いかと訊かれたら全身がくまなく痛いですね」
「そんな冗談が言えるってことは、大丈夫みたいだね」
ほっと彼女が安堵の息を漏らした。
大丈夫……とは言い切れないけれど、これ以上彼女に心配をかけるわけにもいくまい。
僕は改めて視線を自分の身体に向ける。
入院患者用の服をまとった僕の身体には、グルグルとまるでミイラ男のように包帯が巻かれていた。これだけでも傷が広範囲にあったことが窺える。おまけに左腕に点滴の針が刺さっているので、より痛々しさが増加させられていた。
「傷は全部で十か所。背中の方に集中しているって」
僕の視線に気づいたのか、野々宮さんがそう教えてくれた。
「もうそれは大変な大手術だったんだよ」
「あれから、どのくらい経ちましたか?」
「二週間。お医者さんはこの傷で生きている方が不思議だって言ってたよ」
「どうやら悪運だけは強いみたいです」
本当は、全て猫屋敷のおかげである。彼女との約束がなければ、僕はとうに死んでいただろう。
「それで」
僕は、僕が今一番訊きたかったことを尋ねることにする。
「姫川さんはどうなったんですか?」
「ああ、彼女はね……」
野々宮さんは言葉を濁らせ、明らかに表情を曇らせた。
「楠木君を刺した後、すぐに捕まって、今は精神病院にいるよ」
「……」
「未成年で初犯だし、放火を加えても、心神喪失状態であまり大した罪にはならないだろうって……」
「そう、ですか……」
本当に、死ななくて良かったと、僕は思った。
もし僕が死んでいたら、姫川さんの罪に殺人罪も加わって、もっと大変な罪になっていただろう。
彼女を追い詰めたのは僕である。僕の、身勝手な優しさが、彼女の精神を破壊した。その責任は大いにある。もし僕が余計なことをしなければ、姫川有栖は今は辛いとしても、将来的にはいつか、普通の女の子として暮らしていくこともできたかもしれない。
「本当に、今回の件については、何て言うか……ごめん!」
野々宮さんがそう言って、勢いよく頭を下げた。
「野々宮さんが頭を下げることなんて、何もないですよ」
「ううん……私が楠木君に、姫川さんを助けて欲しいなんて頼まなかったら、こんなことにはならなかったんだよ。だから……本当にごめん!」
「それは結果論です。たとえそれが誰であっても、あの依頼の段階でこんなことになるだなんて想像できません」
それに、
「僕は野々宮さんにはお礼を言わなければならないんです」
「お礼?」
首肯。
「貴女が教えてくれたんじゃないですか。名探偵は、人を助ける人間のことだって」
「ああ」
「だから僕は決めました。必ず、そんな……困っている人間全てを救えるような、名探偵になるって」
だから、と言葉を繋ぐ。
「ありがとうございました。僕に大切なことを気付かせてくれて」
僕がそう言うと、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
僕は屋上にいた。
学校のではなく、病院のである。
入院から約一カ月が経過し、ようやく歩けるようになった頃のことだ。そろそろ退院も近いだろう。
屋上にはつい先日降った初雪がまだ薄っすらと残っている。空気が冷たく、また乾燥していることもあってか、そこには僕以外には人間はいなかった。
僕は首に巻いていたマフラーを口元からずらし、白い息を空中に吐き出した。両手をコートのポケットに突っ込み、フェンス越しに街を見下ろす。
おそらくあそこで暮らす人間の多くは、いつも通りの日常を送っているのだろう。しかしそれと同時に、日常ではあり得ない「謎」に悩み、苦しんでいる人間も確かに存在しているはずなのだ。
「僕は、そんな人たちの力になりたいと思うよ」
誰に言うつもりもなく、ただ何となく、そんな言葉を呟いていた。
いや、きっとその言葉は、もうこの世にはいない女の子に向けて言ったのだろう。
しかし、
「なるほど。良い心がけだと思うよ、楠木君」
僕は振り返る。
……まったく。本当に気まぐれな奴だと、僕は思った。
そこには、手足が細く、顔立ちは整った、自称・変人の女の子の姿があった。
「そうだな……取り急ぎ、どうして私が化けて出たのかというのを推理してみるのはどうかな?」
こうして、僕はその猫みたいな少女との再会を果たしたのだった。
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