―6―

「単刀直入に言います。公費横領の件を暴露されたくなければ、奥さんと別れて下さい」


 時刻は夜の八時をそろそろ差そうとしている頃だった。僕は駅前にあるホテルの前に来ていた。

 僕の目の前にはスーツを着用し、眼鏡をかけた中年男性が立っている。

 家を火事で失った彼が一時避難的にこのホテルを利用するだろうということは、簡単に予想できた。ただでさえ田舎町で宿泊施設が少ないのだ。その中でも料金が高くサービスが行き届いている施設は、このホテルだけだった。

 スーツの男――姫川賢治は、その眼鏡をくいと上げながら、口を開く。


「何だね、君は」

「通りすがりの探偵です」

「君のような子供が探偵……? ふざけるのも大概にしたまえ」


 まあ、普通の反応だろうな。

 僕は彼の前に、用意してきた封筒を投げる。姫川賢治は怪訝そうな顔をしながらも、それをゆっくりと拾い上げた。封筒を開け、中を見てその表情が一転する。


「これは」

「貴方の公費横領の証拠ですよ」


 姫川有栖に渡したものと同じものだ。データがある以上、いくらでも複製はできる。


「これは君が一人で調べたのか?」

「さあ、どうでしょう」

「この事実を知る人間は、どのくらいいる?」

「僕だけです、と答えたら、貴方はきっと僕の口を塞ぐことを考えるのでしょうが、残念ながら僕だけではありません。それに、僕が戻らなければ自動的に公開されることになっています」


 後半の方は嘘だけれど、まあ、もし本当に僕の身に何かがあれば、きっとクルミさん辺りが対応してくれるだろう。

 ……おっと、思考がちょっと悪い方に向いていた。命は大切にしろと、クルミさんに言われたのだった。


「君の狙いは何だ?」

「さっきも言ったでしょう。貴方と奥さんが分かれることです」

「君は」


 少し言葉を濁しながら、彼が続ける。


「私の妻に好意を持っているのか?」

「いいえ。お話ししたこともありませんよ」

「ならば、なぜ……」


 分からないのも、無理はない。

 姫川有栖は家庭内暴力に遭っている。学校ではいじめに遭っている。

 そして彼女の家庭を壊すことが、彼女を救う唯一の方法なのだ。

 クルミさんの入手した情報によれば、家庭内暴力は父親からしか受けていないらしい。母親は姫川有栖に何もしてやっていないし、そして母親自身も家庭内暴力の被害者になっているらしい。

 まあ、それはどうでも良い。

 僕は野々宮さんほど、理想を素直には信じられない性分だ。全人類を救えるなんてこと、できるわけがない。

 僕はただ――

 文学少女に憧れる、あの女の子を助けたいだけである。

 彼女の両親が離婚すると仮定する。

 経済力のない母親に引き取られた場合、姫川さんは母親の実家の元に引っ越さなければならないだろう。つまり学校からも転校しなければならなくなり、結果的にいじめから解放される。

 父親に引き取られた場合、いくら姫川さんがもう中学生だとは言え、彼一人では子育ては無理だろう。必然的に部外者が彼女の家庭に介入することになり、家庭内暴力はなくなる。

 勿論、これらは公費横領というスキャンダルが出回った場合の話しである。僕は条件を呑みさえすれば情報は公開しないと、姫川賢治に宣言した。

 宣言した――のだが、それを守ってやる義理もあるまい。

 要は確実に姫川有栖を家庭内暴力と学校でのいじめから救えれば良いのだ。

 姫川賢治は僕の要求通り、彼の妻と離婚する。

 そして姫川有栖は転校する。

 それで、全て解決だ。


「どうでしょう、姫川さん。公費横領が発覚するのと奥さんと離婚するの、まあ、確かに両方とも世間体は良くないですが、後者の方がよほどマシでしょう?」

「それは、そうだが……」


 姫川賢治が眉間に皺を寄せ、俯く。

 やはり、いきなりこんなことを言われては返答できないか。

 だがしかし、そんな彼の返答を待つ余裕は、僕にはない。いや、正確には姫川有栖にはないと言うべきか。

このままの状態が続くと、遠からず姫川有栖は崩壊する。

いや、その予兆は既に見え始めているだろう。自宅への放火が、その例だ。

彼女の崩壊は始まっているのかもしれない。


「ちょっと考えさせてくれないか」

「ダメです。返事はイエスかノーで、今すぐにお願いします」

「しかし今は立て込んでいる」

「ご自宅が火事に遭われたからですか?」

「……そこまで、知っているのか」

「これから脅迫しようっていうんですからね、相手の情報はできるだけ集めますよ。さらに言うと、僕はその犯人も知っています」

「……」


 姫川賢治の表情が、さらに険しくなる。

 やはり、彼にも見当が付いているらしい。

 まあ、犯行の条件を考えたら当然か。むしろその家に関わっている人間ほど思い至るのは容易いのかもしれない。


「それも、脅迫する気かね? 公表されたくなければ、と」

「いいえ」


 首を横に振る。


「その件について僕は関与するつもりはありません」


 本当は関与するつもりはあるのだけれど、しかしそれは交渉をするに当たって余計なことだろう。それに、姫川有栖が放火したということを脅迫するつもりがないのは事実だ。


「僕は貴方が離婚してくれさえすれば、それで構いません」

「そうは言っても、色々と手続きもある。今すぐというわけには、」

「ご心配なく。離婚届けや諸々の書類はこちらで既に用意してあります」


 本来なら役所は閉まっている時間であったが、野々宮さんの知り合いだという公務員の人に無理を言って取ってもらったものだ。


「印鑑等は、お仕事で使うことの多い貴方は勿論、奥さんも持ち出していますよね?」

「それは、妻に聞いてみないと……」

「普通は持ち出しているはずですよ。ご自宅が火事に巻き込まれたのですから――夜中の就寝中に起こった火災とは訳が違います」


 印鑑、通帳、財布、携帯くらいは持って避難するだろう。

 そしてこれで、


「貴方が僕の申し入れを断る理由はなくなったわけですね」


 勿論、公費横領を公開しても良いというのなら、話しは別だが。しかし犯罪を問われか、離婚で一時的なスキャンダルを騒がれるか、どちらが良いのかは一目瞭然のはずだ。

 姫川賢治の額に汗が浮かび、彼の全身に力が入るのが分かった。殴りかかるかもしれない。僕は、咄嗟に身構える。

 が、数秒して、姫川賢治は、その肩をがっくりと落とした。


「……分かったよ、私の負けだ」


 そして彼はつかつかと僕の目の前まで来て、僕が差し出した離婚届けをばっと強引に奪った。

 思わず、僕は息をつく。

 どうやら無事に交渉は成立したようだ。

 これできっと、姫川有栖は救われる。

 そう思った刹那――


「――っ!?」


 背中に衝撃が走った。

 正確には腰の少し上の辺りだ。

 まるで爆弾が体内で破裂したかのような、衝撃。

 僕は前のめりに倒れ込む。膝をつく。痛みのあまり、視界が歪む。が、何とか頭を持ち上げ、背中の方を見ようと首を回した。

 僕の背中には、一本のナイフが付き立てられていた。

 ナイフを握る持ち手を辿る。

 そこには――


「楠木さんが悪いんですよ。貴方が、私の世界をめちゃくちゃにしようとするから」


 姫川有栖が、そこにいた。

 目を血走らせ、ナイフを握る右手にさらに力を込める。その度に、ぐしゃぐしゃと、肉がかき回される音が、僕の中に響いた。

 想像を絶するその痛みに、意識が飛びかける。

 姫川さんがナイフを抜いた。

 血が噴き出る。

 彼女は抜いた勢いのまま、まるでダンスでも踊るように、クルリと回ってみせる。制服のスカートがひらりと舞い、血飛沫を浴びながら、重力に従ってまた纏まった。


「どう、して……?」

「どうしてって……ああ、家に火を点けた件ですか?」


 僕は僅かに首肯してみせた。

 そこだけが、唯一疑問だったことだ。


「それも、貴方が悪いんですよ、楠木さん」

「僕が……?」

「貴方が余計な資料を私に渡すから……燃やすしかないじゃないですか」

「だからって……」


 何も家ごと燃やす必要なんてないじゃないか。

 そう言おうとして、留まる。

 ――そうか。

 彼女はきっと、揺れているのだ。

 証拠を公開して暴力から解放されることと、今のままのを守ること――そのどちらかで、揺れている。

 そして彼女は、その揺れている想いをまとめるために、どうして良いのか分からず、火を放った。

 自分を惑わせる資料も、そして自分を虐げる存在も、まとめて消えてしまえば良い。

 そう考えたのだ。


「なるほどね……」


 思わず乾いた笑いが零れた。

 姫川有栖は、崩壊したのだ。


「何を笑っているんですか?」


 ざくり。

 またもや僕の身体に衝撃が走る。今度はさっきよりも少し上の部分だった。が、不思議と痛みは感じない。もはや脳が痛覚を遮断しているのかもしれない。

 ざくり。

 彼女は僕を刺し続ける。

 まるで食材でも刻むように。

 ざくり。

 そうだ、姫川賢治は?

 視線だけで、辺りを見渡す。

 が、もはや彼の姿はない。横領の証拠が入った封筒も持ち去られているから、もしかしたらそれを処分しに行ったのかもしれない。まったく、元のデータがある以上、無駄なのに。

 ざくり。ざくり。

 少女の笑い声が聞こえる。脳内に響く。

 ざくり。

 もはや僕の身体にはその自重を支えるだけの力も残っておらず、血溜まりの中に崩れ落ちた。

 視界が真っ赤に染まっていく。意識が段々と遠くなっていく。

 が、不思議と恐怖は感じなかった。

 ――ようやく、好きな女の子にまた会えるんだ。

 そんな思いだけが、僕の中にはあった。


「楠木君!」


 聞き覚えのある声だった。

 僕は、最後の力を振り絞って、声のした方に視線を向けた。


「野々宮、さん……?」


 視界がまだ、ぼんやりとしている。焦点が合わない。だが、そのシルエットは――


「もう大丈夫だよ! 今、救急車を呼んだらね!」


 救急車……?

 ああ、ダメだ。思考まで、麻痺してきた。


「うあああああ! お前も邪魔するのか! お前も!」


 姫川さんが、僕から抜いたナイフ片手に野々宮さんに突撃していく。

 しかしその凶刃は、野々宮さんに届く前に、持ち主の身体ごと組み伏せられた。

 何人もの警官らしき人物が、一斉に姫川さんの身体を抑え込む。

 そしてすぐ目の前に、野々宮美里が駆け寄った。

 彼女が僕の、無数とも言える傷に文字通り手をあて、止血を試みる。


「ダメだよ、楠木君! 死んじゃダメ!」


 死んじゃ、ダメ……?

 いや、どうだろうな。

 この傷じゃあ、死なない方が無理っていうものだ。


「君は生きなきゃダメだよ! だって……猫屋敷さんと約束したんでしょう? 謎を全て解き明かすって……名探偵になるって!」


 謎……?

 名探偵……?


「だから、死んじゃダメだよ!」


 野々宮美里の悲痛な叫びと、未だ抵抗を続ける姫川有栖の狂乱を耳にしながら、僕は目を閉じた。

 遠くから、救急車のものであろうサイレンが聞こえて、二人の少女の声に重なる。

 そして、僕は、もう――

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