―4―
三年A組の教室は、姫川さんの予想通り無人の状態であった。
僕は彼女を、彼女の席に座らせた。
彼女は慣れた手つきで鞄から消毒液と包帯を取り出し、自らの治療を始める。
彼女が袖を捲る。その時、僕は思わず息を呑んでしまった。
予想はしていたことだ。しかし――
彼女の左手はあまりに酷い有様だった。
切り傷。火傷。打撲痕。強い力で掴まれたことでできたのであろう、人の手の形の内出血。長袖に隠れて、それらの負の痕跡が、びっしりと付いていた。
僕は思わず目を背けてしまう。ともすれば吐き気だって……。
いや、ちゃんと見なくちゃダメだ!
これが、今僕が首を突っ込もうとしている現実だ。そこから目を背けてはいけない。僕はもう、何かを見落としてはならない。
僕はぐっと堪えて、再び彼女の腕に目を落とした。
「……あの、痛く、ないんですか?」
「いいえ、もう慣れましたから」
と、笑顔で答えた。
消毒液を塗って包帯を巻いていく。まるでほつれた衣服を修繕するように。壊れたぬいぐるみを直すように――何も感じないように。
彼女の言葉は、きっと嘘だ。
あれだけの傷を負って、痛くないはずがない。
どれだけ痛みに強くても、慣れたとしても、痛くないはずはないんだ。
姫川有栖は嘘をついた。
平然と。
笑顔で。
なぜだ。
なぜ、笑っていられるんだ。
僕の脳内に一人の少女がフラッシュバックする。
ショートカットで目が大きくて、手足が細い――自称・変人の女の子。
彼女もあの屋上から飛び降りる瞬間、笑っていた。
あの笑顔の意味を、僕は今でも理解できていない。
それが分かるようになるまで、僕は全ての謎と向き合い続けなければならない。
だから――
「姫川有栖さん、貴女に一つ提案があります」
僕は、彼女を救うための提案を、そしておそらく彼女を傷つけることになるであろう提案を彼女に投げかけることにした。
姫川さんが包帯を巻く手を止めて、顔を上げる。
僕は鞄から、茶封筒を取り出した。今日の昼休みにクルミさんから受け取ったものだ。
それを姫川さんに手渡す。彼女がこれは? と言わんばかりの視線で、僕の顔を見上げた。
「貴女に必要な情報が入っています」
「私に必要な情報……何でしょう?」
「貴女のお父さんに関わる情報です」
姫川有栖の父親――
「その封筒の中身を貴女のお父さんに見せてあげてください」
「……そうすると、どうなるんですか?」
「さあ……ですが、きっと貴女の言うことを何でも聞いてくれるようにはなると思いますよ」
それは、言わば脅迫だ。
姫川さんに渡した封筒の中には、彼女のお父さんが公費を横領したことの証拠が入っている。もちろんデータもこちらで保管しているから、その封筒を処分したところで無駄だ。
僕は姫川有栖を救わない。手を差し伸べることはない。より正確に言うのならば、彼女を助けることは、僕には不可能だ。
いくら考えても、答えは見つからなかった。だから、僕は解答権を、姫川さん自身に委ねることにしたのだ。
「その情報をどうするかは、貴女の自由です」
「そうですか」
「ですが、僕個人の思いとしては、貴女にはそれを公開してもらいたいと思っています」
その情報が明るみになれば、彼女の家庭はめちゃくちゃになる。いや、そもそも家庭なんてものが存在しているのかどうかすらも怪しい。娘への暴力が横行している関係を、果たして家庭や家族と呼ぶのだろうか。
彼女の家庭がめちゃくちゃになる、ということは、彼女の両親もおそらく離婚することになるだろう。彼女のことを両親の内のどちらが引き取るのかは定かではないが、姫川有栖がどちらに付いて行くことになろうとも、彼女が通う学校を変えなければならないのは明白だ。
仮に父親に付いて行くことになったとすると、きっと世間体を考えて転校する。加えて男一人で家庭を支えるのは難しく、経済力にものを言わせて外部に委託することになるだろう。外部の組織が介入するのなら、家庭内暴力への抑止力となるはずだ。
仮に母親に付いて行くことになったとしても、経済面の問題から母親の実家に移り住むことになる。こちらでも、姫川さんは転校しなければなるまい。しかもクルミさんの情報によると、暴力を振るっているのは父親だけらしく、母親はむしろ姫川さん同様被害者なのだそうだ。ならば確実に家庭内暴力からは解放される。
どちらにしても、彼女を習志野中学からは隔離できるというわけだ。
家庭内暴力といじめから姫川有栖を救うには、きっとこの方法しかない。
が、これにも問題はある。
それは、その手段を取る人物が、姫川有栖本人でなければならないということだ。
現在の彼女は今の環境を幸せだと感じている。その考えが変わらない限り、誰かが手を差し伸べたところで、それは余計なお世話というものだ。
「私がこの資料をどうこうすると、貴方は本当に思っているんですか?」
「……いいえ。貴女はおそらくそれを使うことはないでしょう」
「じゃあ、どうして……」
「僕は、もう後悔したくないんです。女の子が目の前から突然いなくなるなんてことを、もう経験したくはない」
「それって、もしかして」
と、そこまで言ったところで姫川さんは口を閉じた。
猫屋敷が自殺したというのは、この学校に通っている人間ならば誰でも知っている情報だ。外部の介入こそなかったが、猫屋敷が死んだ時はそれなりの調査がされたのだから。
きっと姫川さんも、自ら命を絶った女の子については聞き及んではいることだろう。ならば僕の言う“女の子”というのが、誰を指しているのか、見当がついてもおかしくはない。
それに、今目の前にいる少女は、どこか猫屋敷に似ている。
上手くは言えないけれど、何と言うか……死の匂いがする。
このままいけば、姫川有栖はおそらく遠くない未来、命を落とす。
それが自殺か他殺かは分からないけれど、何となくそんな気がするのだ。
だから、僕は自分のできることをしたい。もう後悔は、したくない。
……いや、それは違うな。
結局は自己満足なのかもしれない。
もし本気で姫川有栖の命を救いたいのであれば、問答無用に事実を公開しているはずだ。
だから僕は、結局のところ、自分はやるべきことをやったという言い訳が欲しいだけなのかもしれない。
だが、とにかく。
「これが僕のできる全てです。後は、貴女の問題でしょう」
「後はも何も、最初から最後まで私の問題でしょう?」
「本当は問題だなんて思っていないくせに」
そうですね、と彼女は笑ってみせた。その笑顔は、何だかさっきまでの笑顔と違って、純粋に会話を楽しんでいるように思えた。
「それじゃあ、僕はこれで失礼します。おそらくもう、こうして話すこともないでしょう」
「そうですね……これまで通り、ただの顔見知りです」
「では……」
僕は彼女に背を向ける。
「最後に一つだけ良いですか?」
後ろから投げかけられた言葉に、僕は足を止める。振り返る。
「何でしょう」
「楠木さんは、どうしてこんな活動を?」
なんだ。簡単な質問だ。
「好きだった女の子と約束したからですよ。全ての謎を解く――名探偵になるって」
「そうですか」
納得したように、姫川さんが頷いてみせる。
「きっと、楠木さんならなれますよ――名探偵に」
思わず僕の口元が歪む。ありがとうございます。そう答えて、教室を後にした。
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