―3―

 僕が姫川有栖との初邂逅を果たした翌日。その昼休みのことである。僕は校舎裏で、クルミさんと会っていた。

 寒空の元で待ち合わせをするということで、僕も彼女もマフラーこそしてはいないけれど、コートを羽織ってはいる。

 昼休みの校舎裏は、ベンチが多く並んでいるせいか、春から秋にかけては利用者が多い。が、今は冬だ。わざわざこんな寒い中で昼食を摂る物好きもいるまい。僕と目の前の少女の他には誰の姿もなかった。

 人気がないというのはむしろ好都合だ。そのためにこの時間、この場所で待ち合わせたのだから。

 僕とクルミさんは沢山ある内の一つのベンチに並んで腰かけていた。丁度、肘と肘が当たりそうな距離である。

 正面を見据えたまま、僕が口を開く。


「それで、頼んでいた例のものは手に入ったかい?」

「勿論です。だからこうして待ち合わせたんじゃないですか」

「そうだったね」


 勿論、それには僕も気付いていた。

 彼女はその手に大きめの茶封筒を抱えていたからだ。おそらくあれが僕が情報収集を依頼した資料なのだろう。

 僕はすっと右手を小さく伸ばす。


「これを渡す前に、一つ良いですか?」

「何だい?」


 彼女が俯く。まるで自身の罪を告白しようとしているかのように。

 そして白い息と共に、口を開いた。


「もう、情報収集はできません」

「は?」


 一瞬、僕は彼女が何を言ったのか理解できなかった。

 情報収集できないって……?

 思わず出していた右手を引っ込める。


「もう嫌なんです。私の情報で誰かが傷つくのは」

「そんなこと……」


 ない。

 と、言い切ることができたら、どれだけ良かっただろうか。

 クルミさんの情報を使って、僕は他人を傷つけている。

 その自覚が、確かに僕の中には存在していた。悔しいことに。そして情けないことに。

 だがしかし、それでも僕は進まなければならない。僕は猫屋敷と約束したんだ。名探偵になって全ての謎を解き明かすと。そしてそのためには、クルミさんの持つ情報収集能力は必要不可欠だ。


「これまで一緒にやってきたじゃないか。考え直す気は、」


 手が伸びる。彼女の両肩を掴む。


「すみません。ずっと考えてきて、辿り着いた結論なんです」

「だからって……勝手すぎるよ。僕が誰かを傷つけてきたのは確かだ。だけどそこに君が、君の情報が関与している以上、君にも責任がある。今さら手を引こうだなんて、」

「先輩!」


 びくりと、僕の両手は少女の小さな肩から浮き上がる。

 それは、叫びだった。

 悲痛な。

 情報屋ではなく、一人の少女としての。

 ――叫び。


「お願いします。私は、先輩のことを嫌いになりたくない……!」


 その言葉を聞いて、僕は思わず言葉を呑んだ。

 彼女の目には、涙が一杯になっていた。唇を噛み、肩を震わせている。観察眼なんて関係なく、誰が見ても分かるように、彼女は今にも泣き出してしまいそうだった。

 そして、そこまで追い込んだのは――僕だった。

 何と声を掛ければ良いのだろう。

 何と、謝れば良いのだろう。

 いや、どんな言葉を投げかけたところで、彼女の傷は、きっと何一つ癒されることはない。

 僕は宙に浮く両手を引っ込めた。

 そんな僕に、クルミさんは茶封筒を押し付ける。そして彼女は立ち上がった。


「その情報は差し上げます。だから、お願いですから、人を救うために使って下さい」


 歩き出す彼女の背中に投げかける言葉を、僕は見つけられなかった。

 人を救うために使って下さい。

 そんな彼女の言葉が、僕に重く圧し掛かるのだった。




 放課後、僕は昨日と同様、図書室へと向かった。しかし、図書室の扉を開けたところでいつもの窓際の席に姫川有栖がいないことに気が付いた。手芸部の方に顔を出しているのだろうかと思い、僕は先に、彼女の指定席の向かい側に腰かけて待つことにした。

 ところが、三十分ほどしても、彼女が現れることはなかった。

 流石に疑問に思う。

 今日は来ないのだろうか。

 姫川有栖は三年間図書室に通い続けていた。ほぼ毎日。だが、ということは、それは欠かさずということではない。来ない日だってある。

 しかしこの場合はどうだろう。

 彼女は昨日、別れ際で確かにまた明日会おうと言っていた。それは僕から提案したことではなく、彼女から言い出したことだ。ならば彼女の方から約束を反故にするということは考えられにくいだろう。

 ということは、彼女の身に何かがあったと考えるのが自然だ。

 僕は立ち上がった。

 姫川有栖が図書室にいない。約束までしたにも関わらず。

 ならば彼女の行き先は、情報屋を頼らなくても、およその見当がつく。

 僕はその場所へ向かって歩き出した。




 放課後も三十分以上も経過すると、運動部は部活動をしている。つまりそれらの部活の部室が集まっている部室棟は、人気がほとんどない。現に僕が今歩いている廊下も、しんと静まり返っていた。

 僕は注意深く耳を澄ませ、目を凝らしながら、その廊下を進む。

 僕の足は、ある部室の前で止まった。扉のプレートには「女子バスケ部」と書かれている。

 どうして僕の足がそこで止まったのか。声がしたからだ。それは女子が数名で話している声だった。女子バスケ部の部室の前なのだから当然なのであるが、その内容が問題だったのだ。明らかに、誰かが誰かを責め立てるような、そんな攻撃性を持った話し方だった。

 声は複数聞こえた。そしてその中には、聞き覚えのある声もあった。

 ――やはり、そうか。

 僕はその扉をノックする。

 が、反応がない。

 扉の向こうでは今までのやり取りがなかったかのように静まり返っている。どうやら中の彼女らは居留守を決め込もうとしているようだ。

 なるほど。そのつもりならばこちらにも考えがある。

 僕はあえて大声で、言った。


「ああ、先生、ここが女子バスケットボール部の部室です。ノックをしてはみたんですけど、反応がありません。どうします? 勝手に入っても、多分バレないと思いますけど」


 ガシャン、と中で何かが倒れる音がした。中の人間が慌てているのが手に取るように分かる。

 やがて僕の声から二秒もしない内に扉が開かれた。僕はその扉の右手――死角に回り込む。

僅かに開かれた扉の隙間から、ジャージ姿の女子生徒が一人顔を覗かせた。バスケ部だけあってたとえ女子でも背が高そうだと、僅かに見える姿からだけでも判別できる。髪の毛を薄ロにまとめたその部員は、キョロキョロと左右を見回している。

僕はさっと彼女の前に躍り出た。部室の中の様子は、残念ながら彼女の陰に隠れていて見えない。


「お前、誰? 先生は?」


 と、ジャージ姿の女子が冷たく投げかけてきた。

 前口上は必要あるまい。僕は単刀直入に本題に入ることにする。


「先生はいません。僕は姫川有栖さんに用事があります。彼女はここにいますよね」

「……ハア? そんな奴、ここにはいねえよ」

「嘘や建前は結構です。大人しく姫川さんを差し出すか、もしくは貴女がたのリーダーさんと話をさせて下さい」

「わけ分かんねえ」


 扉が閉められそうになる。が、僕はその僅かな隙間に右足を差し込んだ。扉は僕の足に引っかかり、その動きが停止する。女子部員の眉間に皺が寄った。そして部室内を振り返る。


「前野先輩、何か変な奴が来てるんすけど」

「変な奴?」


 と、部室内から聞き返された。

 まったく、変な奴とは失礼な。僕は変人を自称したことは一度もない。どちらかと言えば平凡極まりないごく普通の男子生徒のはずだ。


「って、お前、楠木じゃん」


 応対した女子部員の頭の上から顔を覗かせた前野と呼ばれた女子は、僕の顔を見るなりそう言った。身長はかなり高く(僕よりも高い)、髪の毛が僅かに茶髪がかっている女子生徒だ。制服を着てはいるが、おそらく彼女もバスケ部員だろう。


「知り合いっすか?」


 と、ジャージ姿の後輩が聞き返す。残念ながら、その予想はハズレだ。僕には女の子の知り合いは少ないのだから。


「いや……ただコイツは有名人だよ。あんたも覚えときな」


 後輩の方がへーいと適当な返事をし、二人の位置が入れ替わる。前野と呼ばれた女子生徒は部室から出て僕の前に立ち、後ろ手に扉を閉めた。僕は確信した。間違いなく中には姫川有栖がいる。

 前野が口を開く。


「で、有名人のアンタが何の用だって?」

「有名人だという自覚はありませんけど……」


 しかし、もしそうだとするならば大体その噂の内容は予想できる。

 勝手に首を突っ込んで、知らなくても良いことを推理して、そして人間関係をめちゃくちゃにする。大方そんなところだろう。

 ただしその噂の内容を知っているということは、ある意味では武器になるかもしれない。

 僕が関われば確実に真実に光が当たる。ならば悪事を働く人間も、わざわざ隠蔽しようとも思うまい。そんな思惑を抱きながら、僕は切り出す。


「僕がここに来たということは、隠し事をしても無駄だって分かってますよね?」

「隠し事? 何のことだろうなあ?」


 と、前野がにやつきながら返してきた。どうやら彼女は悪党の中でも往生際が悪い部類に入るらしい。


「中に姫川有栖さんがいますよね? 彼女に話があります。会わせて下さい」

「姫川? 誰だソイツ?」


 僕は思わず溜め息をついた。

 この手は、できることなら使いたくはなかったが、仕方ない。


「証拠はもう挙がっているんですよ」


 懐から、一枚の写真を取り出す。それはつい先日、姫川さんに彼女がいじめに遭っているということを確認するために見せた写真だった。望遠で撮影されたその写真には運動部の部室と、そこで脅され、金を差し出す姫川有栖が写されていた。そしてその金を渡している相手が――


「これ、貴女ですよね、前野さん」


 後ろ姿しか写ってはいないが、まず間違いないだろう。男子に負けないほどの長身で、しかも茶髪がかった頭をしている女子生徒。そんな人間は、そうそういるまい。


「汚ねえ……盗撮かよ!」

「まあ、そうなりますね。撮ったのは僕じゃあないですけどね。これからはきちんとカーテンを閉めた方が良い。部室が二階にあるからって、油断はできませんよ」

「てめえ!」


 がっと彼女が僕の胸ぐらを掴む。すごい力だ。僕はつま先立ちになってしまう。


「別にこの写真を使ってどうこうするつもりはありません。ただ姫川さんの身柄を引き渡してくれれば、それで良い」


 やはりこんな手段は取りたくはなかった。これではまるで脅迫だ。


 ――もう嫌なんです。私の情報で誰かが傷つくのは。

 ――お願いですから、人を救うために使ってください。


 そんな少女の悲痛な叫びが、僕の脳内を過った。

 しかし、ここまで来て止めるわけにもいかない。たとえ僕の行動の結果、この目の前にいる前野とかいう人間が傷つくことになったとしても、僕は姫川有栖を救わなければならないのだ。それが依頼を受けた探偵の使命である。

 僕の胸ぐらを掴んでいた手の力が緩む。両足が地面についた。

 チッと一つ舌打ちを挟んでから、前野が再び部室の方を向き直した。そして扉を開け、中に入っていく。

 一分程して、扉がまた開かれた。中から出てきたのは前野と、さっき僕の応対をした女子部員、そして、傷だらけの姫川有栖だった。髪が乱れているし、制服もボロボロだ。そしておそらくその制服の下の身体も……。

 姫川有栖はジャージ姿の女子部員に腕を抱えられることで、辛うじて立っていられるようだった。女子部員がパッと手を放し、姫川さんの背中を押した。姫川さんの体はフラフラと前進し、僕の方へと倒れ込んでくる。僕はよろけ、鞄を落としそうになるものの、何とか彼女の体を支えることに成功した。


「ほら、ソイツを渡したんだから、約束通り」

「分かっていますよ」


 僕は写真を前野に手渡す。まあ、コピーはいくらでも印刷できるから問題はあるまい。そのことに彼女は気づいていないようだけれど。

 前野は僕から写真を受け取ると、満足そうな顔を浮かべた。そして後輩を引き連れ、また部室の中に入っていく。扉がバンッと派手に音を立てて閉められ、廊下には僕と姫川さんの二人だけが取り残されたのだった。

 取りあえず、この傷だらけの少女を何とかしなければならないだろう。


「姫川さん、聞こえますか?」


 僕が小さく、彼女の肩を揺する。すると彼女がうっすらと目を開いた。


「……ああ、楠木さんじゃありませんか。どうしました、怖い顔をされて」


 そう言って、姫川有栖は笑った。事態の発覚を恐れてか、どうやら前野たちも彼女の顔を殴るような真似はしなかったようだ。実に綺麗な笑顔だった。


「どうしましたはこっちのセリフですよ。こんなにボロボロになって」

「これくらい、大したことありませんよ。友達と、ちょっとじゃれついていただけです」

「……」


 これだけの傷を負って、じゃれついていただけだと?

 僕は思わず自身の拳を握りしめていた。強く。爪が食い込んで、僅かに血が流れた。

 この感情は何だろう?

 猫屋敷が死んだ時も、僕の感情はここまで揺れ動くことはなかった。むしろ彼女の死に直面した僕にあったのは、虚無だ。

 しかし、今のこの気持ちは何だ。

 僕は、自分の内側にこれほどまでに大きなエネルギーを感じたことは、未だかつてあっただろうか。

 ……。

 ああ、そうか、と数秒して気が付いた。

 この感情の名前は――怒りだ。

 僕は怒っているのだ。これだけ傷ついてもまだ自分が不幸ではないと思っている姫川有栖に。そして、そんな彼女を救えない楠木真に。

 だが、待て。落ち着け。

 感情的になったところで、事態は何ら好転することはない。

 僕は自分を落ち着けるために、一つ大きな深呼吸をした。


「保健室に行きましょう」

「どうしてですか?」

「どうしてって……傷を負ったら保健室に行くのが普通です」

「このくらいの怪我、平気ですよ。少し休んでいれば治ります」


 当然ながら、人の体はそんなに便利にできてはいない。


「ダメです。引きずってでも連れていきます」

「いけませんよ。保険医の先生に余計な手間を取らせては。それに、手当なら自分でできますし」


 彼女はそうですね……と少し考えた後、


「それなら、私のクラスの教室に連れて行って下さい」

「姫川さんのクラスに?」

「三年A組です。この時間なら、おそらく誰もいないはずですから」


 僕は考える。

 きっと傷の手当だけを考えるのなら、保健室に連れていくのが一番良いのだろう。ただしそうすると、彼女がいじめらているということが露見してしまう恐れがある。家庭内暴力の件も。彼女自身がいくら否定したところで、学校を始めとする公的機関が介入するのはおそらく間違いない。

 ただ、それを果たして姫川さん自身が望んでいるのかどうか……。

 それに、加害者側からの報復だって考えられる。

 考えろ、と自分に向かって念じた。

 姫川有栖を救う方法は、二つ。

 一つ。彼女自身に問題を自覚させること。そうすれば然るべき機関に訴えることもできるようになるはずだ。

 二つ。彼女の意思を無視して加害者側を告発し、加えて姫川さんを報復から守るために隔離すること。

 ただしこの方法は、姫川有栖が問題の問題性を理解していないと、事態の根本的解決にはならないのかもしれない。

 前者は彼女の精神に関わる方法だから、考えるまでもなく難しい。

 対して後者の方法なら、簡単に成すことができるだろう。が、しこりが残るのも確かだ。

 ……くそっ。何か上手い方法はないのか!

 きっと野々宮さんなら、こんな時にどうすれば良いのか簡単に分かるのだろう……いや、そもそも彼女もそれが分からなかったから僕のところに来たのか。あの野々宮美里でさえ答えを見つけられなかった問題を、どうしてこの僕が解けると言うのだろうか。それが人の精神に関わる問題ならば尚更そうだ。

 ……仕方ない。

 妥協策のような気もするけれど、僕は言われた通り姫川さんを彼女の所属するクラスの教室に連れていくことにした。

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