―2―
姫川有栖を――彼女の思考を探るにあたって、僕はとりあえず彼女と接触を図ることにした。居場所を探すまでもない。彼女は放課後、どんな時でも図書室に現れるのだから。
そして放課後。僕は図書室を訪れた。
姫川有栖は、そこにいた。
いつも通り、彼女は窓際の端の席で分厚いハードカバーを広げていた。
僕は彼女の対面の席に腰かける。
そして、観察してみた。
長い黒髪をツインテールにまとめている。制服のサイズが合っていないのだろうか、長そでの袖は、やや長い。ハードカバーを持ち上げている手の指先しか見えないほどである。スカート丈は普通。制服全体を見回しても、目立った改造はされていないようだ。
さらに僕は記憶を辿る。
彼女は図書室でほぼ毎回のように本を借りていっていた。そのジャンルは多岐に渡り、小説から専門書、詩集まで、幅が広い。しかし何より気になるのは、彼女がどうして毎日のように本を借りいっているのか、という点だ。分厚いハードカバーならいざ知らず、例えば詩集ならその場ですぐに読み切ることができたはずである。わざわざ借りて、家に持ち帰る意味が分からない。家でも読み返すため、だろうか。
加えてもう一つ。
本を借りていくのなら、わざわざ図書室で読む必要があるのだろうか。
考えられることは、二つだ。
一つ。姫川有栖は図書室の雰囲気そのものを気に入っているから。
分からなくもない。僕も映画館や喫茶店の雰囲気が好きだ。特に用がなくとも不意に立ち寄りたくなることもある。
二つ。姫川有栖は家に帰りたくない。
こちらの方は、少なくとも僕には理解できないけれど、しかし世の中にはそういった人間がいるのも確かだ。親と折り合いが悪いのか……理由は分からないが、とにかく彼女は家に帰りたくない、と考えれば毎日足蹴なく図書室に通い、さらに本を借りていくということに説明がつく。
前者ならば別段、気にする必要はないのであるが、しかしもし後者なら、学校でもいじめられ、家にも居場所がないというのなら――
「あの」
僕の思考は、少女の声で遮られた。
我に帰った僕は、目の前の少女に視線を向ける。
「あの、どうかしたんですか? 先程から、何か怖い顔をしていましたけど」
「ああ、いえ……」
僕から話しかけるつもりが、先を越されてしまったらしい。どうにも締まりが悪い。
「私に何か御用でしょうか?」
「用というか……」
冷静に、なれ。
当初のプラン通りに動けば良い。
僕は一つ息を吐いて、本題に入ることにする。
「いつもここで本を読んでいますよね。僕も読書が好きなんです。同じ読書家同士、一度話してみたいと思っていたんですよ」
「まあ。そうなんですか?」
丁寧な口調。育ちは良いようだ。家に金は、ある。ただし彼女はそれを自由にできないのだ。おそらく、全く。もし彼女に金が入るのであれば、わざわざ図書室で本を借りることはない。自分で買えば良いのだ。仮に節約を心掛けていたのだとしても、彼女が本を持参したところを、僕が一度も見ていないのはおかしな話だ。
「どんな本を読んでいるんですか?」
「いいえ、私は本を読まないんです」
「は?」
思わず、少し変な声が出てしまった。
人が本を広げてすることと言えば、僕には読書しか考えられないのだが。
「私、文学少女になりたいんです」
「はあ」
「ほら、図書室の片隅で本を広げている女子生徒って、絵になるでしょう?」
「それは、何となく分かりますけど」
しかし、何と言うか、妙に飲み込めないものがある。
そんなことのために、人は三年間も同じことを繰り返すことができるのだろうか。
「できますよ。現に私ができているじゃないですか」
「……あの、今の声に出ていました?」
「いいえ」
でも、と彼女が言葉を繋ぐ。
「私がこのことを話した相手は、大体そう訊いてきたものですから」
「なるほど」
なぜだろう。この人の勘は妙に鋭い感じがする。こっちが何を考えているか、見透かされているような感覚だ。
この感覚は、何となく野々宮さんと話している時と似ている。そして猫屋敷とも、少しだけ近い気がした。だが、明らかにその二人とは違っている。
しかし、どちらにしても、彼女からは不思議な雰囲気を感じ取ることができた。自称こそしていないが、彼女ももしかしたら
「私のこと、変わった人間だと思っていますか?」
まただ。また心を読まれている。まるで超能力者だ。
「ただの経験則です」
「経験則……」
「みんな言いますから。変な娘だって」
私には何の自覚もないんですけどね、と彼女が笑ってみせた。
何の自覚もない。
自覚。その言葉が、何か引っかかる。喉の奥に。まるで魚の小骨みたいに。
変人という自覚がない。ならば、いじめられているという自覚は?
僕は訊いてみた。
「いじめですか? さあ……私は、みなさんと仲良くしているつもりですけど」
そう返ってくることは、予想できた。
僕は野々宮さんのことを信頼している。彼女は嘘をつかない。間違うこともない。だから彼女が言った通り、姫川さんがいじめに遭っているというのは、事実なのだろう。
だが、本人はそれを否定している。
しかし、僕には彼女がいじめに遭っているということを証明する、もう一つの根拠があった。
「これを見てください」
僕は懐から数枚の写真を取り出す。
「これは今日の昼休みに撮られたものです。ここには、貴女が脅され、同級生にお金を渡すところが写っています」
クルミさんが望遠写真で撮影してくれたものだ。その写真では、姫川有栖が同級生の女子数名に囲まれ、暴力を受け、財布を取り出し、中のお金を差し出す、その一部始終が写っていた。世に言うカツアゲというやつだ。
「盗撮ですよ、これ」
と、また少女が笑ってみせた。
が、それは先程までの笑みと何だか違って見える気がする。まるで何かを諦めたような、観念したような笑いだ。
「勝手に写真を撮った件は、こちらが悪かったです。申し訳ありませんでした。ただ、ここに写っていることは、見過ごせません」
「見過ごせない? どうしてですか?」
「どうしてって……」
「私はただ、お友達に頼まれてお金を渡していただけですよ。彼女たちは恵まれない人間です。だから私がお金を渡さないと、困るんですよ」
「……」
これは、正直もうダメかもしれない。
野々宮さんからの依頼内容は、姫川有栖を救うためにはどうすれば良いのか、その答えを見つけて欲しいというものだった。
が、しかし、彼女の言う通り、この問題に答えなんて存在するのだろうか。
姫川有栖が問題を問題視していないというのなら、それは既に問題ではないのかもしれない。
もっと分かりやすく言うのなら、これは僕や野々宮さんの御節介なのかもしれない、ということだ。それも余計な。彼女自身がそれで良いと言っているのなら、それで良いじゃないか。
いや、答えを出すには少し早い。
姫川有栖の言葉が、彼女の本心であると、一体なぜ言い切れる。
彼女は周りからの報復を恐れて、自分はいじめになど遭っていないと言っているだけかもしれないじゃないか。
「それでは、質問を変えます。手芸部の部費を横領している点について、どうお考えですか?」
「別に何とも。ルールを守ることよりも大切なことってあると思いません?」
「それは貴女のお友達のことでしょうか」
「そうです。友人は人生の宝ですよ」
その考えには全面的に同意だ。だが、友達は選んだ方が良い。少なくとも金をせびってくる、あまつさえ暴力を振るう人間を、僕は友人だとは認めない。
「そんなことありませんよ。みなさん勘違いしています」
「と、言いますと?」
「暴力も一種のコミュニケーションなんです。一番悲しいのは、自分の意見を主張できないことです」
「しかし、暴力は倫理的にも法的にも良くないものとされています」
こういう時、自分の言葉で話せないというのは、何とも情けない話だろう。もし仮にここに猫屋敷がいたなら、様々な視点、方向から、暴力のもたらす悪影響について語ってくれるだろうに、と僕は本気で考えてしまった。彼女は何より理性を重んじ、暴力を善としない性格だった。
姫川有栖がいいえ、と首を横に振った。
「それは暴力の加減や意味を分かっていない場合です。私はそれを知っています。ですからこれは、世間で言われているような悪の行為ではないのです」
「ちなみに伺いますが、姫川さんも暴力を振るったことが?」
「私はありませんよ。だって、人を殴ったら、拳が痛いじゃないですか」
平然と、彼女はそう答えた。
僕には彼女が理解できなかった。理性的なのか、感情的なのか、分からない。
大抵の人間は、観察したり話したりすれば、その考えをある程度はトレースすることができる。しかし、姫川有栖の場合は違った。僕には一生かかっても彼女の考えに到達できる気がしない。
姫川有栖が口を開く。
「こちらからも質問してもよろしいですか?」
「どうぞ」
「野々宮さんからの依頼ですか?」
「依頼人についてはお答えすることはできません」
「ということは、野々宮さんからの依頼だということですね」
「……どうして、そう言い切れるんです?」
「もし違うのであれば、単に否定すれば良いことですから。それでも誤魔化したということは、図星だということです」
「分かりませんよ。僕は人から相談を受けることが多い。だから依頼人のことを聞かれたら、『答えられない』と答えることが習慣になっているのかもしれない」
「あり得ませんね」
と、彼女ははっきりと言い切ってしまった。
「なぜ、そう思うのですか?」
「『答えられない』と答えるのが習慣になっているのだとしたら、それはあくまでも機械的な返答になるはずです。それなのに貴方は、答える時に一瞬、躊躇した。それが私の言うことが的を射ていた証拠です」
これは……正直、一本取られてしまったようだ。どうにも僕は彼女を甘く見ていた節がある。気を付けなくては。
「それに、貴方のことは噂で聞いていましたから」
「噂で?」
「楠木真という名探偵に気を付けろ、という噂です」
「ああ」
それには心当たりがある。
何せ僕は学校中、ひいては街中の不正や秘密を暴きまくっているのだから。
しかし、
「今までどんな事件を解決してきたんですか?」
「別に大したことはしていませんよ」
どちらかと言えば、真実を明らかにするだけして、事態を悪化させたケースの方が多い。
「そうなんですか?」
彼女が可愛らしく小首を傾げる。
「でも、楠木さんが私に話しかけてきてくれたということは、私も何か事件に関わっているということですよね。どんな事件なんですか?」
「どんなって……」
部費の横領のことだ。
「まさか、手芸部の部費を私が盗んだ事件のことですか?」
「ええ、まあ」
「どうしてです? あれは私が自首をして解決したはずです。犯行方法だって、別段不可思議な点はないと思いますけど」
やはり、この人には問題の自覚がないらしい。
今回の場合、問題になっているのは犯人の動機だ。と言うより、姫川有栖の問題意識の話をしている。
倫理観、というのも少し違う気がする。彼女は盗み自体は悪いことだと自覚しているのだ。そうでなければ自首などするまい。しかし、彼女がその倫理よりも友情を重要視している。それこそがまさに問題の根本なのではないだろうか。
と、そこまで考えた時、ふと僕の中に一つの疑問が浮かぶ。
それは悪いことなのか?
友情を大切にすること自体は、世間一般ではむしろ良いことだと認識されているし、事実そうだとも思う。ただ、それが法に背くことと比較された場合、どちらが勝つのか。それこそが問題なのだ。
悪事を働こうとする友人を止めるのが友情なのか。
悪事を働こうとする友人に付き合うのが友情なのか。
古今東西様々なところで議論し尽された議題だろう。しかし、それだけの年月をかけたのにも関わらず、人類は未だにその真の解答には辿り着けてはいない。
なぜならば、それらを語る時の立場がそれぞれ異なっているからだ。
理性と治安を重んじる人間が語れば、友人の悪事に付き合う行為は悪なのだろう。
感情や人情を重んじる人間が語れば、友人の悪事に付き合う行為は善なのだろう。
この際、どちらが正しいかなんて関係ないのかもしれない。
ただ僕は、できるだけ多くの人間に傷ついて欲しくないと考えている。それはこの姫川有栖も例外ではない。
僕は彼女を救いたいと思った。
それは好きになった女の子に、どこか似ていたからなのかもしれない。
「僕が依頼人から受けた依頼はこうです」
――姫川有栖を救う方法を探って欲しい。
「私を救う? 何からですか?」
「全部です。貴女を取り巻く不幸全てを取り除きます」
「私は不幸なんかじゃありませんよ?」
……。
「では、一つ質問です。貴女はどうして、放課後、毎日のように図書室に通っているのですか?」
「それは、文学少女に憧れて」
「違います」
その言葉は全くの嘘ではないかもしれないが、本質とは、やはり異なっている。ずれている。それは彼女が意図的にそうしているのかもしれないし、無意識のうちにそうしているのかもしれない。とにかく、その文学少女に見られたいからという理由は、真の理由ではないのだ。僕はそれを、合理的に説明できる。
「そんなことないわ。私は本当に、」
「だったらどうして、人のいなくなる時間まで残る必要があるんですか?」
「それは……」
他人にこういう風に見られたいという願望は、誰にだってある。しかしそれは、逆に言えば、他人がいるから成立する願いなのだ。図書委員の他には誰も残っていない。そんな場所に残って本を広げたとしても、イメージ戦略には繋がらないだろう。
「最後の一人にまで見て欲しかったのかもしれないじゃない」
「そうかもしれませんね。ですがそれでも、自分の本を持参しなかったという点は、説明がつきませんよ?」
文学少女に見られたいのであれば、むしろ本は持参した方が良いだろう。そうしなかったのは、そうできなかった理由があるからだろう。
「貴女は先程、暴力もそう悪いものではないと言いましたね」
「ええ、確かに」
「では、それは貴女が家族に受けている暴力もそうですか?」
「……なぜ、私が家族に暴力を受けていると?」
「簡単なことですよ」
本当に、簡単なことだ。それは僕のように彼女を注意深く観察しなくても、誰にでも分かることだろう。
「貴女は年中長袖の制服を着ていますね。それは、家族に受けた暴力の傷を隠すためなのでは?」
「そんなこと……」
「家庭内暴力を受けている人間は、すべからくそう答えるものです。そして貴女が言い淀んだということは、それは貴女が暴力を悪いことだと思っている証拠だ。でなければ、傷跡だろうが何だろうが、堂々と見せて歩けば良い」
普通の人間に対してここまで言えば、明らかにそれは言い過ぎというものだろう。しかし彼女の場合、その辺りの感覚も麻痺している可能性がある。
姫川有栖が首を静かに横に振った。
「確かに私は家で、暴力を受けています。ですが、それは決して悪いことじゃありませんよ。愛情故です。ですから私はそれを不幸だとは思いません」
言い切った。完全に。
あるいはそれは、大事にしたくないという彼女の意思だったのかもしれないが、しかし僕には彼女の本心からの言葉としか思えなかった。
もしそうなら彼女は彼女の言葉の通り、決して不幸ではないのだろう。
だが――
それを見た人間は、どう思うのだろうか?
例えば野々宮美里は姫川有栖が傷つくのを見て、心を痛めたに違いない。だからこそ、彼女は僕に姫川有栖を救うにはどうすれば良いのかという依頼を持ち掛けて来たのだ。
では、楠木真はどうだ。
彼ならば――僕ならば、この現状を目の当たりにして、何を思う?
僕は野々宮さんほど博愛思想に満ちてはいない。いくら図書委員としてこの目の前の少女と顔を合わせることが多かったとは言え、しかし実際の話すのは今日が初めてだ。そんな人間に、僕は愛情を向けることはできない。
ならば同情を抱くのかと訊かれれば、それも何だか違う。
正直、僕は姫川有栖の話を聞いて、特に何かを思うことはなかったのだ。
強いて言えば、これはもうダメだという、諦念に近い感情を、僕は抱いた。
いや、もしかしたら心のどこかでは彼女のことを同情していたのかもしれないけれど、しかし同時に、同情したところでどうなるのだろうと、おおよそ人間とは思えないほど冷たい打算が働いていた。そんな気がする。
姫川有栖を救って欲しいと、野々宮美里は言った。
それは依頼だ。つまりは仕事であり、義務と言っても良いかもしれない。それ以上に、僕は
謎。
この場合は、どうすれば姫川有栖を救えるのかということ。
加えて言うなら、どうすれば彼女に自分が不幸かということを分かってもらえるのか、ということだ。
姫川有栖と実際に話してみて、それがどれだけ難しい問題なのか、僕は今まさに痛感している。
……これは作戦を変えねばなるまい。
僕は取りあえず、今日のところは退散することにした。
「申し訳ありませんが、姫川さん。僕はこのくらいで、今日のところは下校しようと思います」
「あら、もうですか。どうせならもっとゆっくりしていけば良いのに」
「すみません。どうにも僕は、読書は家でする方が捗るようなので」
「読書なんてするつもりないくせに」
「手厳しいですね」
僕はそう言って笑ってみせた。
立ち上がる。扉の方に歩き出す。
「また明日も来てくださいね」
僕の背中に、そんな言葉が投げかけられた。
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