―1―

 放課後の図書室は、人がいないことがほとんどだ。昼休みならばまだしも、放課後まで図書室に来る人間は滅多にいない。余程読書が好きな人間くらいだろう。

 そういうわけで、僕は当番としてカウンター席に座っている間、思考の世界に身を投じるのに、何ら不都合はなかったのである。

 が、その日は、突如としてその世界に踏み込んでくる人間が現れたのだった。

 いや、そんな言い方は正確ではない。突然の来客なんてものは、以前からあったことだ。そしてその相手は100パーセント決まった人間だった。


「楠木君、ちょっといいかな?」


 名前を呼ばれて、僕は広げていた文庫本から顔を上げた。

 野々宮ののみや美里みさとが立っていた。スポーツ選手らしい白のジャンパーを制服の上に羽織り、オレンジのマフラーを首に巻いている。


「構いませんよ、野々宮さん」


 今日の貸し出し当番は丁度終わろうとしていたところだ。僕たちの他に生徒はいない。後は戸締りをすれば良いだけだ。

 それに、彼女の持ち込んでくる面倒は、今の僕にしてみれば大歓迎なのだ。かつては面倒を嫌っていた僕であるが、しかし今は一つでも多くの案件を解決させたいと思っている。

 入り口の扉の前に立っていた野々宮さんは僕のすぐ目の前までやって来た。そして手ごろなテーブルから椅子を一つ拝借し、僕の正面に腰かける。


「早速だけど、姫川ひめかわ有栖ありすっていう女子を知ってる?」

「残念ながら、僕には女の子の知り合いが少ないんです」


 だから、その姫川という女子生徒のことを当然ながら僕は知らない……いや、一つだけ、思い当たることがあった。


「その姫川さんの、名前だけは知っていますよ」


 正確にはその風貌も知っている。

 僕は一年生の頃から図書委員をやっている。当然ながら貸出当番として、週に一、二回は放課後の図書室に残ることになる。そしてその当番の全ての日で、同じ女の子を一人目撃していたのだ。

 長い黒髪をツインテールにし、たとえ真夏でも長袖を着ている彼女は、とても印象に残っていた。それはどこか儚げな雰囲気を醸し出している見た目もそうだったし、貸出カードにただ書かれた「アリス」という名前もそうだった。

 一年の頃から数えると、僕が当番を務める曜日も変わってくるが、彼女はどんな時でも図書室に来ていた。ということは、ほぼ毎日、放課後を図書室で過ごしていると考えて間違いないだろう。


「そう言えば、今日も来ていましたね」


 彼女の指定席は窓際の、さらに一番端の席だ。彼女はそこでいつも、本を広げていた。本のジャンルはいつもバラバラだった。すごく有名な文豪の全集である時もあれば、逆に凄く薄い詩集のような本の時もある。かと思えば心理学だの経済学だのの専門書だった時もある。猫屋敷もかなりの読書家だったけれど、しかし彼女の場合はこだわりを持って本を選んでいたから、ある意味真逆と言ってもいいかもしれない。どちらかと言えば、雑読である僕に似ている気がする。


「そっか。知ってるなら話は早いかな」

「知っていると言っても、話したことは一度もありませんよ」


 それで、


「彼女がどうかしたんですか?」

「いやぁ、ちょっと……言いにくいんだけどね」


 何だろう。彼女が言葉を濁すのは、なかなか珍しい。

 野々宮美里はいつだって正しい人間である。通常では言いにくい事実も、それが事実であるからという僕とはまったく違う理由であるが、しかし彼女はそれを簡単に口にすることができた。

 事実を事実のまま告げるのでなく、誰も傷つかない言葉で言うのだから、口数こそ特別多くはないが、そこらの口達者な人間より、彼女の方が話術に長けていると言えよう。

 そういうわけで、彼女が本当に言いにくそうにしているのは、珍しいことだった。

 まあ、どんな依頼でも断るつもりはないけれど。


「いじめられているみたいなんだよね」


 と、彼女は言った。


「いじめ、ですか」


 と、僕はその単語を復唱する。

 いじめ。学校という場所にいれば、少なからずそういうことはあるだろう。それが正しいか間違っているかは別として、であるが(いや、間違いなく正しくはないのだろう)。

 僕が聞き返したのは、その存在が信じられなかったからではない。

 野々宮さんがそれを口にしたのが、どうにも腑に落ちなかったからだ。

 彼女の性格を考えるに、いじめなんてものが存在していたらこうして僕のところに相談するより早く自分で動いているはずだ。僕ができるのは事実を明るみに晒すことだけで、人間関係の根本的改善は、正直期待できない。

 その点、野々宮さんはこれまで二件のいじめ問題を解決してきている実績がある。

 いじめがそこまで横行しているのは問題であるという意見には僕も心から同意できるが、それを解決できる人間は、かなり限られているだろう。そして彼女は、間違いなくその限られた人間なのだ。

 そんな彼女が今更、どうして僕のところなんかに?


「うん。どうしたら良いのかなって」

「どうしたらって……」


 そんなの僕が知ったことではない。いつものように勝手に首を突っ込んで、解決したら良いんじゃないのか。


「うん、まあ、それはそうなんだけど。そうするつもりなんだけど……この場合って、何をっていうのかな?」

「……取りあえず、お話を伺いましょうか」


 既に窓の外は暗くなっていた。が、まあ、時間ならばいくらでもある。

 とにかく僕は、野々宮美里の話を聞いてみることにしたのだった。




 ほら、私って手芸部に入っているじゃない?

 ああ、そうそう。サッカーとテニスもやってるよ。手芸は趣味だね。部活で趣味っていうのも変な話かもしれないけど……。

 とにかく、手芸部に入ってるんだよ。

 手芸部って言っても、活動はほとんど個人になるんだよね。学祭前だと共同で作品を作ったりもするけど、基本的には個人でやってるんだ。

 で、それならどうして部活に入るのかっていうと、部活に入れば部費でいくらか自分の好きな材料を買えるんだよ。それに道具も借りられるし、先生や先輩に技術を習うこともできる。これがメリットなんだよね。

 でも、問題になってることがあってね……その、部費のことが。

 別に大した額じゃないけど、部員はそれぞれ毎月五百円、部費を払うことになってるんだよ。

 それを顧問の先生が集めて、要望の多い材料や道具を買うって仕組み。

 で、その部費を集める方法が、問題になってるの。

 何しろ集める金額がそれほど多いわけじゃないし、小銭だからってことで、月初めに部室に置いてあるお菓子の空缶に入れるってことになってるんだ。

 防犯意識が低いなって前々から思ってはいたんだけど……。

 ……うん。盗まれたんだよ。その中のお金、丸ごとね。

 でも、まあ、犯人は分かってるんだよ。

 もうここまで言えば分かると思うんだけど、そう、姫川有栖さん。

 証拠なんてないよ……それじゃあ、どうして犯人って分かるのかって?




「――本人がそう言ってたんだよ」


 と、そこまで話すと野々宮さんは、俯いていた顔を上げた。

 僕は聞き返す。


「なるほど。それで、“いじめ”という言葉に辿り着くわけですね」


 推理小説は大きく三種類に分けられるという。

 Who done it(誰がやったのか)。

How done it(どのようにやったのか)。

 Why done it(なぜやったのか)。

 今回の場合は“誰が”と“どのように”は既に判明している。それでも野々宮さんが僕の所に相談しに来ているということは、未だに理解できないことがあるということだ。ならばそれは、“なぜやったのか”ということだろう。


「“なぜ”っていうのも厳密には分かってはいるんだけどね」

「というと?」

「彼女曰く、『友達に頼まれたから』」

「……」


 ……。

 それは。

 金を盗ってくるように言われたというのなら、普通に考えればいじめられているということになる。僕が野々宮さんの立場だったとしても、そう判断したに違いない。


「悪びれる様子もなく、彼女はそう言ったんだよ。ね、どう思う?」

「どうと言われましても」

「分からない、よね……うん、それが普通だと思う。彼女と実際に話したことのない人なら、みんなそう言うと思う」


 でもね、と野々宮さんは続ける。


「彼女……笑ってたんだよ。ねえ、どうしてだと思う?」


 僕は姫川有栖という人間を知らない。見たことはあるけれど、しかしその人間性は全くと言って良いほど、知ってはいないのだ。

 知ってはいない。だが、あくまで直観で言わせてもらえば、姫川有栖は他人に迷惑をかけて喜ぶような人間ではないはずだ。


「うん。私もそう思うよ。普段の彼女は、とても良い娘だから」

「……」


 問題はね、と彼女は言う。


「姫川さんが、他人を大事にしすぎているところだと思うんだ」

「それは……確かに問題かもしれませんね」


 他人を大切にするのは、とでも重要なことだ。

 他人を傷つけてはならない。他人は大切にしなければならない。

 それは小学生でも知っていることだ。知っている――理想だ。

 人間の実際の世界はそんなに簡単ではない。誰も彼もを大切にできるほど、僕たち人間は万能ではないのだ。

 だが稀に、その全てを抱え込もうとする人間が存在する。

 例えば、きっと本人は否定するのだろうけれど、野々宮さんがそうだ。

 彼女は究極の博愛主義者だと、僕は思う。周囲の人間全てを大切にしようとして、そして事実大切にできている。救えている。

彼女に触れた人間は、救われる。

 しかし、その救われてしまうのも問題なわけだ。

 例えば僕がそうだ。

 僕は一人の女の子を殺してしまった。それは許されて良いことじゃないし、僕自身、許されたいとも救われたいとも思っていない。しかしそれでも野々宮美里は救ってしまう。それは欠点だ。

 欠点であるのだが、野々宮美里はその事実を理解している。それこそがまさに、彼女の完全性をより完全にしているのだろう。

 真の完全は、完全ではない。

 不完全さが、欠けてしまうから。

 ところが彼女の場合、自身の不完全さを認めてしまっている。それは何よりも尊いことだろう。

 しかし、それは、何度も言うように、彼女が彼女だからこそできる芸当だ。

 大抵の人間は、そう上手くはやれない。

 それは僕もそうだし、例えば猫屋敷やクルミさんもそうだろうし――姫川有栖もそうなのだろう。

 彼女は完全になろうとして、完全になりきれていない。

 不完全な、野々宮美里が――完全性の失敗作が、姫川有栖なのかもしれない。

 友人に金を盗ってこいと言われて、素直に実行するのは、確かにその友人を救ってはいるのかもしれないけれど、それはやってはいけないことだ。踏み外してはいけない最終ラインだろう。

 しかし姫川有栖はそれを超えてしまった。

 友人を救うために。

 そんな博愛主義は間違っているし、決して野々宮さんのような完璧とは言えない。


「私が楠木君に相談したいのはね、何とかして彼女を救えないかってことなんだよ」

「救う、ね……」


 おそらく、彼女の口ぶりからすると姫川有栖がいじめに遭っているというのはほぼ間違いないだろう。

 問題は、おそらくその姫川有栖が被害者意識を持っていない、ということだ。

 不完全な博愛主義が、姫川有栖なのだ。

 おそらく彼女の中に、彼女自身への愛はない。

 真の博愛主義者は、自分自身も愛さなければならない。

 野々宮美里のように。

 しかし、ここまでは僕の推測にすぎない。もっと言うならば、これは妄想だ。何の確証もない。強いて言えば、僕は三年間、図書室にいる彼女の姿を見ていた、ということだけだろう。

 さておきそれは僕の興味であり、今目の前にいる野々宮さんの依頼とは、何の関係もないとは言わないけれど、本質とは少しずれている。


「救う、というのは、姫川さんをどのような状態にすることなのでしょうか」

「……分からないよ、私には」


 そうだと思った。僕もそうだ。

 でもね、と彼女が続ける。


「楠木君なら、答えを出してくれるんじゃないかなって思ったんだ」

「買い被りすぎですよ。僕は、好きだった女の子のことすら分からなかった」

「……」


 だからこそ、謎から逃げてはならない。

 姫川有栖が何を考え、何を思っているのか。それは簡単な問題ではないのかもしれない。

 だが――


「今度は、ちゃんと答えを見つけてみせます」

「じゃあ……」


 僕は頷いてみせる。


「野々宮さんの依頼、お受けしますよ」


 僕は、今度こそ、答えを――

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