閑話―4― 後編

『なるほど。事情は分かりました』


 電話の向こうで、若い男がそう言った。スピーカーモードにしているから、会話の内容は葉住姉妹や上堂にも聞こえている。

 電話の相手は、私の携帯の通話履歴の、一番上に出ていた奴だ。


「分かったって、本当に全部分かったの?」

『ええ、まあ』

「暗号も?」

『ええ。暗号自体はさして難しくありませんでしたから。問題は、できた文章が何を指し示していたのか分からなかった、ということでしたが、それも天海さんに話を聞いて合点がいきました』


 何て奴だ……そして相変わらず、推理力がありすぎてキモイ。


『相変わらず辛辣ですね……』

「……そんなことより、早く暗号の正体を教えて下さいよ」


 と、氷乃。まったくもって同感だ。


『そうも言っていられないですよ。良いですか? 何も言わずに、今から指示する通りに動いて下さい』

「はあ? あんた何言ってんの?」

『事は急を要するんです。人の命がかかっている』


 命? そんな大げさな……確かに気味は悪いけど、たかが落書き事件のはずだ。


『その落書きの内容が問題なんですよ……四人とも、今はどこに?』

「学校だけど」


 その口調は、真剣そのものだ。それが電話越しでも分かるくらいに。

 ……どうやら、彼の言う通り、何かヤバイことが起きているらしい。

 私は取りあえず、電話の向こうから聞こえてくる指示に従うことにした。


『先程の話で登場した南戸さんですが』

「暗号を書いた犯人の?」

『ええ。おそらく彼女が書いたもので間違いないでしょう。その南戸さんの連絡先は?』

「知らない。美術部自体、あまり部員同士の交流もないようだったし」

『そうですか。では、氷乃さんにに頼むように伝えてください』

って?」

『貴女も知る小さな新聞部員ですよ』


 ああ、あの娘か。言われて私も思い出した。以前、吹奏楽部の取材に来た一年生だ。情報屋なんてやっていたのか。

 話を聞いていた氷乃は既に行動に移していた。速やかに携帯電話を取り出し、電話をかけている。


「……連絡先が分かりました」

『ではそこに電話をかけてください』


 言われるがまま、氷乃さんが電話をかける。


『僕の推理が正しければ、彼女は電話には出ないでしょう。まあ、出てくれればそれはそれで良いのですが……』


 しかし、彼の言う通り、南戸さんが電話に出ることはなかった。コール音を十ほど数えたところで、氷乃が電話を切る。


『やっぱり直接会うしかないか……』


 電話の向こうの声が重たくなる。事態が悪い方向へと進んでいるのだと、私は直感した。


『彼女の行き先に心当たりは?』

「ないわよ、そんなの。会ったことすらないのよ」

『そうでしょう……花火さん』

「おうよ!」


 名前を呼ばれて花火が勢いよく右手を上げながら声を上げる。


『周辺の、人気がない場所を探してみてください。廃墟か何か……人を監禁するのに適していそうなところです。今は君の足が頼りなんだよ』

「委細承知!」


 言うや否や、花火が駆け出す。凄まじい速さだ。あっという間にその姿は見えなくなった。


『氷乃さん』

「……もうやっています。枢木先輩に連絡して南戸さんの居所を探れ、ですよね?」

『流石だね』


 何だか、私の思考が追いつくより早く事態が変化していっている。


「それで楠木、そろそろ何が起こっているのか教えてもらえるんでしょうね」

『ええ。それは勿論。ところで、その前に一つ確認したいのですが』

「何なのよ! じれったいわね!」

『まあまあ……天海さんの友人の、茂木もぎ明日葉あすはさんのことです……ああ、歩きながらで良いですよ。学校を出たらすぐにタクシーを捕まえてください』


 言われた通り、私は生徒玄関の方へと進路を変える。足を動かしながら、彼の言葉について考える。

 茂木明日葉のことだって?

 私と彼女が友人かどうかは怪しいけれど、しかしそれが今回の一件とどう関係しているのだろう。


『僕が、落書きの他に何か変わったことはないかと訊いた時、貴女はその茂木さんの行方が分からなくなっていると言っていましたね?』

「うん。言ったけど」

『彼女が行きそうなところに心当たりは?』

「ないわ……ねえ、いい加減、説明してよ」

『そうですね。まず結論から言いましょう』

「お願い」

『南戸瑠美が茂木明日葉のことを誘拐し、殺害しようとしています』

「ハァ?」

『村上先生は暗号文の答えに気が付いて、南戸さんを止めるために駆けずり回っていることでしょう』

「ちょっと待ってよ! 全然意味が分からないんだけど!」


 誘拐? 殺害? 一体あいつは何を言っているのだ。村上先生が暗号の答えに勘付いていた、というのは納得できるけれど、しかしどうして誘拐だの殺害だのということに結び付くのだろう。


『まずは暗号文の解説から。先程メールで届いたこの楽譜の暗号ですが、これはよくある換字式の暗号です』

「換字式?」

『元々の文章を他のものに当てはめた暗号文のことです。今回の場合は元々の文章を楽譜に換えていますね。そしてこのような換字式暗号では、表さえ分かれば解き明かすのはそう難しくありません。

 さて、暗号の内容はどんなものでした?』

「ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。何度も復唱したから覚えてるよ」

『正確には?』

「は?」

『音階だけでなく、もっと細かく書かれていたはずですよね』


 ええと、確か……ドのダブルシャープ、レのシャープ、ドのダブルシャープ、ソのダブルシャープ、ドのシャープ、ミのフラット、ドのダブルシャープだったはずだ。


『階名と、それからシャープやフラットの分類が、縦列と横列を示しているということには、送られて来た画像を見た瞬間気付きました』


 見た瞬間って……いや、今は気にしている場合ではない。


『何の表に当てはめるのかは少し迷いましたけどね。ですが階名の種類は、暗号に登場しただけでも八種類。五十音やアルファベットではない』

「つまり?」

『パソコンのキーボードですよ』


 そうか! 階名がキーボードの横の列、シャープやフラットの有無が縦の列を示しているんだ!

 一番左からドレミファソラシド……となり、そしてキーボードの上からダブルシャープ、シャープ、フラット、ダブルフラット対応としているのだろう。

 例えば低い方のドのダブルシャープは、キーボードで言えば一番左上、つまり平仮名の“ぬ”を示すわけだ。

 この法則に従って暗号文の、ドのダブルシャープ、レのシャープ、ドのダブルシャープ、ソのダブルシャープ、ドのシャープ、ミのフラット、ドのダブルシャープを変換すると、


『あ、い、ゆ、え、に、し、ぬ……つまり、愛ゆえに死ぬ。これは自殺を暗示している暗号文だったんです』


 なるほど……いや、しかし、それが自殺を示すものだったとして、どうして誘拐だの殺害だのということに結び付くのだろうか。


『多分、それは、上堂さんがもう気付いていますよ。そうですよね?』


 私は上堂の方を振り返った。

 彼女は俯いている。まるで何か悲しい真実に気が付いたように。


「暗号文の書き方は“ドリッピング・ペインティング”です。そしてその書き方で最もメジャーなのが、ジャクソン・ポロックという画家です。彼の生涯は44年。そして彼の死に方というのが……その……愛人とその友人を巻き込んでの自動車事故なんです」

『今回の一件に当てはめると、ジャクソンが南戸さん、愛人が村上先生、その友人が茂木さんということになるんじゃないでしょうか』


 南戸瑠美は“ドリッピング・ペインティング”を得意としていた。ならば当然、ジャクソンのことも知っていただろう。憧れていたと言っても過言ではないはずだ。

 そして彼女は村上先生と付き合っていたという噂があった。

 さらに、茂木は(どっかの野々宮と似ていて)誰とでも一方的に仲良くなれる人間だ。それは相手が生徒でもそうだし、教師にだって変わらない。ならば南戸さんにとって茂木が、村上先生の友人に見えたということは、十分に考えられる。

 私たちは学校の外に出た。既に辺りは暗くなり始めている。上堂が携帯電話を取り出し、タクシーを呼んだ。

 私は再び考える。

 尊敬する画家の生涯を真似て、愛する人間とその友人を巻き込んで自殺する。

 それが落書き事件の犯人――南戸瑠美の計画だったのだ。

 ……いや、違う。

 微妙にずれている。

 彼女のやり方は、何と言うか……美しくない。

 尊敬の念から生じた行動ではないのではないだろうか。

 もしかしたら、南戸瑠美を突き動かしている感情は……嫉妬なのではないだろうか。


『おそらくそれが正解です。いや、正確には、南戸さん本人にも分からなくなっているのかもしれませんが……』

「いや、多分、認めたくないんだと思う」

『認めたくない?』

「そう。自分の醜い嫉妬心をね。だから自分の尊敬する画家の死に方を模倣しようとしたんじゃないかな」


 分からなくもないけど、それは才能に仕えようとしている人間が、一番やっちゃいけないことだ。


『とにかく、南戸さんの精神状態は非常に不安定な状態のはずです。愛していた人を奪われ、そして自らの才能の限界も感じ……今の彼女は何をしでかすか分かりません』

「分かってる。私が必ず止める」

『随分やる気ですね』

「南戸さんも村上先生もどうでも良いけど、茂木には授業で一度だけ教科書を見せてもらった借りがあるからね。それを返すまでは死なれちゃ困る」

『なるほど』


 電話の向こうで彼が小さく笑うのが分かった。


「……南戸さんの居場所が分かりました」


 と、氷乃。仕事が早い。いや、この場合はあの新聞部の女子を褒めるべきか。


「……町はずれの廃工場です。彼女が昔住んでいた家がすぐ近くで、二時間ほど前に彼女の姿が目撃されています」

「あ!」


 同時に、タクシーを呼んでいた上堂が声を上げた。


「タクシー来ました!」


 私はタクシーに乗り込みながら、自分の電話を再び耳に当てた。


「今から現場に向かうわ」

『僕も今、そちらに向かっています。ですが間に合うかどうか……』

「私が説得してみる」

『分かりました。お願いします。くれぐれも無茶はしないように』


 分かってる。だけど、約束はできない。

 私は多分、南戸瑠美と会うことができたら一発ぶん殴るだろう。

 進む道こそ違えど尊敬すべき人物を、自分の嫉妬心を晴らすための行動の言い訳に使ったのは、どうしても許せない。




 午後七時。既に辺りは真っ暗だ。

 私たちは町はずれの寂れた廃工場に来ていた。川沿いに建つその工場の跡地は、やはり人の気配がない。


「……どうやら二十年ほど前から使われなくなっていたみたいですね」


 と、葉住氷乃。

 二十年なんて言われても想像するのは難しい。入り口の前に立っただけだけど、廃工場は人の出入りがなくなってそれくらいのようにも感じるし、もっと何十年も前からその存在を忘れられているようにも思えた。


「とにかく、中に入ってみよう」


 もし本当にあの男の推理が当たっていて、茂木が監禁されているのだとすると、急がなくてはなるまい。


「……もっとちゃんと作戦を立てた方が良いのでは?」

「やっぱりあんたたちは二人でいた方が良いね」

「……どういうことです?」

「あんたの姉貴なら、こんな時、迷わず飛び込んでいくだろうって話」


 まあ、飛んで行ったきり戻ってきていないんだけど。


「とにかく、私は行くよ。中で何が待っていようが関係ない」

「……分かりました。でも、くれぐれもお気をつけて」


 頷く。

 分かってるっての。

 あの男といい、こいつといい、ちょっとばかり慎重になりすぎなんじゃないか。


「ああ、でも、上堂はここで待ってな」

「え、どうしてですか!」

「あんたは今回の一件に何も関係ないからね。双子はあいつに調査を委託されてるから、理由はあるけど」


 これ以上、面倒に巻き込まれるのはあまり良くはないだろう。

 最悪、これは警察沙汰になる。ならば関わる人間は少なければ少ないほど良い。

 上堂は納得はしていないようだったが、しかし一応、頷いてくれた。




 廃工場の扉はかなりくたびれている。資材運搬用なのかかなり大きい。高さだけでも、軽く私の身長の二倍くらいはありそうだった。そして、今にも壊れてしまいそうだ。

 扉にロックはかかっていなかった。重量はけっこうあったが、私は音が立たないように最新の注意を払いながら、それを開けた。

 扉の隙間から、埃っぽい空気が流れ出る。中は真っ暗だ。もしかしたらあいつの推理は外れて、中には誰もいないのではないかという淡い想像が浮かぶが、しかしその妄想は、簡単に打ち砕かれた。


「何か聞こえる」

「……よく分かりますね」

「耳が良くなきゃ、音楽なんてやっていけないのよ」


 音は――人の声だった。

 少女の声。

 会話をしているようだったが、しかし声は一人分はしかない。

 私たちは足音に気を付けながら、ゆっくりと声のする方へと近づいていった。

 工場の奥、そこにはさらに小さな部屋があった。おそらく元は倉庫か何かだったのだろう。声はそこからしていた。扉の隙間から、僅かに光が漏れている。

 私は扉に耳をつけた。


 ――貴女が悪いんだよ。

 ――先生には私がいたのに、横から手を出すから。

 ――だからさ、ねえ、分かってね?

 ――貴女を殺すから。


 息を呑んだ。

 今、彼女は間違いなく「殺す」と言った。

 ……残念ながら、あいつの推理は的中してしまったようだ。

 はあ……まったく。

 私は長い髪の毛を掻き上げる。

 これから激しい運動をするかもしれない。こんなことなら髪の毛を束ねるゴムを持ってくるんだった。

 ――私は勢いよく扉を開けた。


「……っ!」


 その光景に、再度息を呑む。一歩後ずさりそうになるのを、何とか堪えた。

 部屋にあるのは蝋燭のわずかな光源だけだった。今、この部屋を照らしている主な明かりは、右手側にある大きな窓から差し込む月明かりだった。


「貴女……誰?」


 少女が、ゆっくりとこちらを見る。彼女の服装は聖秋学園のものだ。間違いない。彼女が南戸みなと瑠美るみだと、私は直感した。

 そして、彼女の背後にもう一人。

 少女が椅子にガムテープで縛り付けられていた。南戸と同様に、聖秋学園の制服を着ているが、こちらには見覚えがあった。


「茂木……」


 捕らわれていたのは、行方不明になっていた茂木明日葉だった。

 彼女は口と目をガムテープで塞がれている。


「何なのよ貴女! 何しに来たの? 邪魔しに来たの……?」

「私は、」

「どいつもこいつも、なんで私の邪魔するのよ! 私のことなんて放っておいてよ!」


 これは……思っていた以上に手遅れな状態かもしれない。

 聞く耳を持たないとはこのことだろう。


「あんたのことなんてどうでもいいのよ。ただ、一つ忠告しておくと、まだ戻れるわよ」

「戻れるって何……? もう戻るところなんてないの! 私には、先生しかいなかった! それなのにこの女は……!」


 彼女の右手がスカートのポケットに伸びる。

 そして、鋭く光を放つ物体が握られていた。

 まるでフィクションだと、私は思った。

 今目の前にいる少女の存在と、彼女の手に握られている凶刃は、それほどまでに現実感のないものだった。

 いや、あるいは私自身がその現実を受け入れたくなかったのかもしれない。ともすれば、私も南戸と同じかもしれないと思った。

 私は小さく息を吸って、吐いた。


「そいつを殺すの?」

「ええ、そうよ。邪魔する人間は全員殺してやるの。貴女も邪魔するっていうのなら……」

「殺す? 別に良いけど、そしたらあんたの立てた計画は狂うことになるわよ」

「計画……?」


 私は、あの名探偵に聞かされた推理を、再び彼女に話した。

 南戸瑠美は、尊敬するジャクソン・ポロックに自身を重ねている。

 ともすれば彼女が殺害しようとする人間は二人。

 村上正道と茂木明日葉。

 それ以外の人間を殺害すると、それはもうただの殺人鬼だ。芸術家なんて何一つ関係なくなってしまう。それは、画家としてのプライドが高い南戸にとっては許せないことだろう。

 ならばそこに、説得の余地があるのかもしれない。


「ジャクソンが殺したのは、まあ、事故だけど、二人。私を殺したら三人になるけど、それでも良いの?」

「それは……」

「私はあんたの計画を邪魔するわよ。邪魔する人間を殺すんでしょ? だったら私も殺さなきゃ」

「……分かったわよ、貴女も殺せば良いんでしょ」


 南戸がナイフで空を切ってみせた。脅しのつもりだろう。


「だけど、ほら、私を殺したら、あんたは自分の計画を自分で歪めることになる。それはジャクソンを尊敬するあんたにとって、許せることなの?」

「……」


 すぐ脇にいる氷乃が私の袖を引く。あまり挑発するなということだろう。だけど、私は

 止まるつもりはない。


「ああ、そうか、あんたなら殺せるわよね。絵を描くことすら投げ出せる人間だもんね、尊敬する人間を裏切るなんて朝飯前か」


 両手を広げて前に出た。


「ほら、殺しなさいよ。私一人殺せないで、そこにいる茂木を殺せるの?」


 南戸の肩が震えている。

 怒りか、哀しみか――あるいは恐怖か。


「まだ間に合うわよ。今すぐ茂木を解放して謝れば、戻れる。絵も描けるし、あんたの大好きな先生にもまた会える。だから、ほら、そのナイフをこっちに、」

「うるさいうるさいうるさい!」


 ナイフを振り回す。まるで私の発する声を掻き消そうとしているかのように。


「貴女に何が分かるのよ!」

「分からないわよ!」


 そう、私には何も分からない。

 彼女ほど真剣に人を愛したこともなければ、才能のなさを痛感したこともない。

 それを差し引いても、所詮、人は人だ。他の人間が考えていることなんて、理解できた試しがない。逆立ちしたって、人は他人の感情を読み取ることができるカミサマなんかにはなれないのだ。


「だけどね、話さなきゃ何も分からないじゃない。逆に言えば、話してくれさえすれば、何分の一か……何十分の一かは分からないけど、分かってもらえるかもしれない」


 それを放棄すれば、その人間は一生、一人きりだ。


「だから、あんたももっと話した方が良いよ。村上先生とも、そこにいる茂木とも、もっと話せば分かり合えるかもしれない」

「無理よ……私はこの女を許せない」

「それでも、」


 もっと話せば、


「もういい!」


 私の言葉が、彼女の、悲鳴にも似た声に掻き消される。


「全員ぶっ殺してやる!」


 ――マズイ!


 南戸が勢いよく前に出る。右手に持ったナイフに左手をあて、姿勢を低くして。そしてその切っ先は、当然のことながら、私に向いていた。

 恐怖で体が動かない。

 逃げなければならない。

 思考だけが、光の速さで全身を駆け抜ける。

 脇にいる氷乃が、私の腕を無理やり引っ張った。

 が、それでも体は動かない。まるで石になっているように、固まっている。だけど私の体は石じゃない。刺されば血が出るし、多分死んでしまうだろう。

 怖い。

 死ぬのは、怖い。

 一瞬が、ひどく長く感じた。

 しかし、次の瞬間――窓から、一つの人影が飛び込んできた。

 割れたガラスの破片が、まるで雪みたいにキラキラと光りながら空中に広がる。スローモーションで繰り広げられるその光景に、私は思わず目を奪われてしまいそうになる。

 飛び込んできた人影は、丁度私と南戸の間に着地した。

 南戸の動きが止まる。


「あっれー、もしかして取り込み中な感じかな?」


 呑気にそんなことを口走ったのは、葉住花火だった。

 電話越しにされたあいつの命令で、茂木の居所を、その自慢の足を使って探し回っていたはずだ。

 そんな彼女が、どうしてここに?


「いやー、なんか道に迷っちゃって。ここに来たのはまったくの偶然だぜ!」


 はつらつと、元気な笑顔でそう言い放った。

 てか、どうして道に迷ったからって窓から飛び込むのだろう。


「……花火ちゃんは勘だけは鋭いですから」


 勘だけで生きているの間違いじゃないのか。


「何なのよ!」


 南戸が叫ぶ。


「いやいや、勘が鋭いなんて褒められたら照れるなー」


 南戸が再び駆け出す。

 当然、ナイフを花火に向けて。


「やっぱ、格闘技なんてやってると、勘が鋭くなるのかなーなんて。ああ、でも師匠によく言われるんですよ、お前はもっと考えて行動しろって」


 体を右に逸らす。軽く。自然に。

 ナイフは彼女の脇をすり抜けた。

 南戸が花火の方を見直す。


「殺してやる! みんな殺してやる!」


 ナイフが花火に向けられる。


「師匠はそう言ってたんですけどね、でも私はやっぱり勘って大切だと思うんですよね。テストの選択問題で、最後に頼れるのは勘じゃないですか」


 今度はナイフが縦に振り下ろされた。

 が、花火はそれを、上体を左に逸らしてかわす。

 まるでナイフなんてものの存在に気付いていないように。というか、本当に彼女の視界にはナイフは映っていないようだった。見ていないのに、彼女は南戸の凶刃をかわしていた、かわし続けていた。

 南戸の息が切れ始める。


「何なのよ、貴女は!」

「私?」


 ようやく気付いたように、花火が振り返る。そしてそこに、葉住氷乃が並んだ。


「私は葉住花火! 炎氷姉妹リバース・シスターズの実戦担当だぜ!」

「……私は葉住氷乃。炎氷姉妹リバース。シスターズの頭脳担当です」


 南戸の体重が、前に移されるのが分かった。

 駆け出す。

 花火が前に出る。

 そして――蹴りが繰り出された。

 目にも止まらぬ速さだった。

 彼女の繰り出した横蹴りが、ナイフを飛ばした。

 しかも、ナイフ本体を蹴り飛ばしたのではなく、ナイフの刀身をへし折り、飛ばしていたのだ。

 何とも……おそろしい中学生だ。

 アホだけど。

 花火は続けざまに回し蹴りを繰り出した。

 蹴りは、南戸の腹部に命中し、彼女自身の勢いも相まって、その体を空中に浮かせた。南戸の体が、後方に五メートルほど飛ばされ、壁に激突して、停止した。


「手加減はしたぜ。まあ、骨の二、三本は折れてるかもしれねえけどな!」


 まったく。もう。

 私は、その場にへたり込んでいた。

 一気に、体中の力が抜ける。私は、息を吐いた。深く。

 氷乃が茂木の拘束を解く。

 遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。音は段々と近くなってくる。おそらく、外で待機している上堂が呼んだのだろう。


「……衰弱していますが、命に別状はないようです」


 と、氷乃。


「良かった。本当に……」


 呟いて、私は自分で思っていた以上に茂木のことを心配していたことに気が付いた。


「あ」


 思い出した。


「南戸のことを一発ぶん殴るつもりなんだった」


 壁にもたれかかっている南戸を見る。

 彼女はもう既に気を失った後だった。

 まあ、良いか。あの蹴りは私なんかの拳よりよほど強いだろう。

 やがてパトカーが到着し、私は立ち上がった。

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