閑話―4― 前編

 自称・一般人という“天才”と出会ったのは、もう一カ月も前のことだ。

 かつて通っていた私立習志野学園にはもう、天海あまみかなでという女子生徒は所属していない。彼女、というか私は現在、私立聖秋学園という学校に通っている。転校は、まあ、確かにどこかのお人好しが背中を押してくれたから、という一面もあるけれど、基本的には私自身の意思だ。そこに何の未練も、後悔もないし、それはあってはいけないと思う。

 聖秀学園は、私の住む県の北側にある。南側にあった習志野学園とは丁度逆側と言っても良いだろう。

 聖秋学園は芸術系の部活が優秀で、その手の授業にも力が入れられている学校だ。生徒の校外での活動も少なくはなく、欠席に関しても通常の高校に比べていくらか融通が利く。

 この学校に転校してきた私は、当初の目論見通り、校外の音楽団体で活動していた。

 だけどそれとは別に、学校の吹奏楽部にも所属している。

 それが転校の状況であったし、人付き合いを重視する両親の薦めでもあった。

 とは言え、私も暇ではないから、部活の方にはあまり顔を出せてはいない。週に二、三日程度だ。

 そして今日は、その二、三日の内の一日だった。

 ……何となく、気が重い。

 友達なんていないし、正直必要とも思わない……と言うわけで、私は孤独だ。だから気が重い。

 溜め息をついて、私は音楽室の扉を開けた。


「あ、天海さん」


 話しかけてきたのは部長だった。確か、名前は……佐伯さえき奈津美なつみといったか。前の学校の時の小比類巻部長とは打って変わって、ショートカットの活発な先輩だ。私が転校してきた手の時は色々と気を回してくれたけれど、私になれ合うつもりがないと分かってからはそっとしてくれている。私もその方が楽だから、別に良いけど。

 そう言うわけで、私が彼女と話したのは数える程度だ。

 そんな彼女が突然話しかけてきたのだから、私は思わず面食らってしまった。


「ねえ、茂木さんを知らない?」

「茂木って、茂木もぎ明日葉あすはのことですか?」


 茂木もぎ明日葉あすはは、私と同じクラスの女子だ。

 吹奏楽部に所属していて、ホルンを担当している。

 彼女はどことなく、前の学校の野々宮に似ている。お節介なところとかお人好しなところが。そんな性格なものだから、よく一人でいた私にも話しかけてきたものだ。

 そういうわけで、私と彼女が仲が良いと思っている人間は少なからず存在している。そんな勘違いをしている人間は、吹奏楽部に多い。きっと私と茂木さんが話している場面が一番多いのが部活中だからだろう。

 よって、佐伯部長が茂木のことを私に訊いてきたのにも頷けた。

 しかし、どうして茂木のことを?


「どうにも彼女、行方不明になっているらしいのよ」

「行方不明?」


 そう、と彼女が頷いてみせる。


「三日くらい前からね。家にも帰っていないらしいし」

「それは……何かあったんでしょうか」

「さあ……貴女なら何か知っているかと思ったんだけど」

「いえ、残念ながら何も」


 と言うか、私は彼女のメールアドレスすら知らない。

 佐伯さんが俯く。

 どうにも居心地が悪い。私はそんな彼女を避けるように、視線を教室の前方に向けた。


「あれはどうかしたんですか?」


 と、訊いた。

 教室前方。黒板の脇。そこにはホワイトボードが置いてある。キャスターがついていて、どこにでも運べるタイプのものだ。その前に、小さな人だかりができていた。


「ああ、ちょっと落書きがね」

「落書き……」

「ちょっと、変な落書きだから、みんな不気味がっちゃって……」

「そうなんですか」


 何だか、どこかの名探偵を思い出す。きっと彼は今日もまた習志野学園で事件に巻き込まれているのだろう。


「ちなみにどんなものなんですか、その落書きというのは」

「口で説明するより、見てもらった方が早いわね」


 確かにそうだ。

 私は部長と共に、人だかりの方へと向かう。

 私たちが近づくと人だかりに道ができた。……私に気を遣ってくれたのだということが、ひしひしと肌に伝わってくる。そんな空気にも、もう慣れた。

 私は目の前のホワイトボードへと視線を向ける。


「これは……楽譜?」


 ホワイトボードには、楽譜が書かれていた。真っ赤な塗料で……これはまさか血じゃないだろうな。

 ト音記号があって、その先にはこう書かれている。




 ----------------


 ----------------

 ●☓  ●♯

 ----------------


 -------●☓-------


 -●☓●♯------●♭---


 -●☓




 ドのダブルシャープ、レのシャープ、ドのダブルシャープ、ソのダブルシャープ、ドのシャープ、ミのフラット、ドのダブルシャープ。

 見覚えのない楽譜だ。というか、そもそもこれは本当に楽譜なのだろうか。


「ね。変な落書きでしょ?」

「この楽譜に見覚えは?」

「ないわ。というか、これは楽譜とも……」

「言えませんよね、普通に考えれば」


 音楽的にルール違反、ということではないけれど、ト音記号の後に調号がないのも関わらず、ダブルシャープが多用されているのには違和感がある。通常はこんな書き方はしない。ならば、そこには何か意味があるのかもしれない。


「これはいつ書かれたものなんですか?」

「さあ……昨日と今朝は練習があったから、その間ってことになると思うけど」


 ということは、犯人は昨日の夜から今朝にかけて音楽室に忍び込んだということになるだろう。


「それまでに何か変わったことは?」

「なかったわね。少なくともこのホワイトボードには」

「そうですか」


 ふむ。まったくもって謎だ。意味が分からない。


「何だか天海さんって、探偵さんみたいね」

「う……」


 しまった。どうにもあの名探偵に影響を受けているのかもしれない。不思議なことに、私は彼にシンパシーを感じているのだ。


「でも不気味よね、こんな血で書かれたみたいな……」


 確かに、ちょっとばかり悪質だ。


「どうしても、と言うならこういうのに詳しい人を紹介しますよ」

「詳しい人?」

「ええと……」


 またもや、しまった。

 彼のことを何と説明しよう。探偵のようなことをしているらしいけれど、しかし所詮は一高校生だ。学外の、それも彼が全く関わっていないことを相談するのは、気が引ける。が、口にした以上、話さないわけにはいかないだろう。

 私は、何とか言葉を絞り出す。


「その、説明するのが難しいんですけど……謎とか相談事とかの解決を引き受けてくれる人がいるんです。私も前にお世話になったことがあります」

「それは探偵か何か?」

「いえ、高校生です。私と同い年の」

「へぇ……彼氏?」

「違います!」

「なんだ」

「大体、どうしてそう思うんですか」

「何となく。その人のことを話す貴女が楽しそうだったから」


 鏡が欲しい。そんなに変な顔をしていただろうか。

 いや、この場合おかしいのは何でもかんでも恋愛に結び付ける女子高生の思考回路だ。私には一生理解できそうにない。

 私とあの名探偵は、友達と呼べるかどうかすらも怪しいわけだし。


「とにかく、どうしても気になるというのなら、」

「何だこれは!」


 後ろから大きな声が響いて、私は思わずびくりと肩を震わせた。

 振り返ると、そこには若い男が立っていた。


「村上先生」


 と、佐伯部長。

 怒号を上げたのは吹奏楽部顧問の村上むらかみ正道まさみち先生だった。

 長身と細いが筋肉がしっかりと付いている身体、眼鏡をかけていて、知的な感じが堪らないと、女子の間では人気らしい(転校してきたばかりなので、私はよく知らない)。

 しかし、今の彼からはいつもの知的な雰囲気が感じられない。明らかに取り乱しているようだった。

 先生はじっとホワイトボードの楽譜を見つめた後、言った。


「今日の部活は中止にします! 全員、速やかに下校しなさい!」


 そして私たちに背を向け、すたすたと歩いて行ってしまった。

 突然のことに吹奏楽部員たちも動揺を隠せないようで、辺りはざわめいていた。

 村上先生のあの態度、何かあるに違いない。が、私には関係ないことだ。下校命令が出たことだし、ここらで帰ることにしよう。

 と、くるりと入り口の方を見たところで、私は背後から呼び止められた。佐伯部長だ。


「さっきの探偵さんの話、やっぱり連絡とってもらえない?」

「良いですけど、必ず依頼を受けてくれるわけじゃないと思いますよ」

「それでも良いから」

「分かりました……さっきの村上先生の態度ですか?」


 静かに首肯する。


「だって気になるじゃない。あの落書きを見た途端、あんなに血相を変えて……」

「確かに、気になりますね」


 少なくとも彼が何かを知っていることは間違いないだろう。

 私は携帯電話を取り出す。

 電話をかける相手は、通話履歴にまだ名前を連ねたことのない相手だ。




「私たち炎氷姉妹リバース・シスターズに!」

「……依頼があるのは、貴女ですか?」


 しかしどういうことか、私の意に反して今目の前にいるのは、見ず知らずの中学生二人組だった。


「なんで私まで……」


 プラス、もう一人の女子中学生。

 私は“アイツ”に電話をかけた後、彼の到着を校門前で待っていた。しかし、やって来たのは三人の女子中学生だったのだ。

 二人組の方は、瓜二つの顔をしていた。おそらく双子だろう。

 片方(多分、姉の方)は習志野中学の制服の上に燃える炎のような真っ赤なジャージを羽織り、もう片方(多分、妹の方)は真夏だというのにも関わらず、冷たい雪のような真っ白なマフラーを首に巻いている。

 熱い姉と冷たい妹。炎と氷。

 なるほど、だから炎氷姉妹リバース・シスターズか。中学生らしいネーミングセンスだ。

 だけどまったく情報を読み取れないのはもう一人の方だった。

 赤いフレームの眼鏡をかけ、ショートカットの彼女は、双子と比べて少し大人びているように見える。落ち着いているとか、そんな感じだ。

 双子の妹の方も口数は少ないようだけど、あれは落ち着いていると言うより無表情なだけだろう。


「あんたたちは?」


 当然の問いかけを、双子に投げかける。私が相談したのは、かつて習志野学園の吹奏楽部内で起きた盗難事件を解決させた探偵さんのはずだったのだが。


「私は葉住はずみ花火はなび! 楠木真から連絡を受けて来たんだぜ!」

「……私は葉住はずみ氷乃ひの。楠木真は、自分は行けないから代わりに行って欲しいって」


 まあ、確かに県南の習志野から県北のここまで来るのは大変だろうけど、突然のことだったし。しかしだからと言って、こんな子供を寄越すなんて……。


「……安心してください。私たちは楠木真より優秀ですから」

「伊達に天才呼ばわりされてないぜ!」

「そうは言っても……」


 不安を拭いきれない。

 私はチラリと、その隣の少女に目をやる。


「や、まあ、イマイチ信用ならないかもしれないですけど、その二人に任せておけば多分大丈夫ですよ。地元じゃ、ちょっとは名の知れた“解決屋”ですから」

「“解決屋”ねえ……そう言うあんたは?」

「私は上堂かみどう夕陽ゆうひと言います。以前、楠木さんには助けられて……今回はそこのバカ二人のお目付け役として連れてこられました」


 なるほど。確かにしっかりしていそうな娘だ。それに、何となく私に境遇が似ている気がする。どこかの誰かさんに助けられた、とか。

 正直なところ未だに信用ならないが、しかしあの男が派遣した連中なら大丈夫かもしれない

 私は自己紹介をすることにする。

 名前は天海奏。聖秋学園の二年生。かつては習志野学園に所属していたこと。そして“あの男”との一件がきっかけで転校することを決意したこと。それらを一通り、彼女たちに話してみせた。

 そして、


「じゃあ、さっそく現場を見てもらおうかな」


 とり急ぎ、私は彼女たちを事件現場であるところの音楽室へ案内することにした。




「あんたたち、見たところ習志野中学の生徒みたいだけど、ここにはどうやって?


 廊下を進みながら尋ねる。


「タクシーだぜ!」

「タクシーって、習志野からここまで一体何キロあると思ってんの……」


 具体的な数字は分からないけど、進む方向によっては隣県まで余裕で行ける距離だ。そんな距離を移動するのにタクシーなんて使っては、一体いくらかかるのか……考えたくもない。


「……ご心配なさらず。お金は余るほど持っているので」

「はあ?」

「氷乃ちゃんは特許をいくつも持ってるんだぜ!」


 特許、というのが具体的にどんなものの特許なのかは分からないが、それがそれなりのお金になることは知っている。どうやら彼女たちが天才というのは本当のことらしい。


「あんたも災難だったね」


 と、眼鏡の少女に同情の念を込めて投げかける。


「こんな連中に巻き込まれてさ」

「もう慣れましたよ。それに、この学校には一度来てみたかったんです」

「それはどうして?」

「一応、進路を希望していますから」

「あんたも音楽をやるの?」

「いえ、私は絵です」


 聖秋学園は芸術全般に力を入れている。それには勿論、絵画に関するものもあったはずだ。

 私は絵心というのがまるでないから、絵を描ける人間は本気ですごいと思う。それに、進路として選択するくらいだから、彼女にはそれなりの自信と覚悟があるのだろう。

 ……まったく、羨ましい限りだ。


「どうかしました?」

「羨ましいって思ってさ」

「羨ましい?」


 私は、何となくで習志野学園を受験した。トランペットを吹くことは昔から好きだったけれど、それを進路にしようだなんて、考えたこともなかった。

 そんな曖昧な思いで進学したものだから、色んなことにガタがくるのも無理はなかったのだと思う。それは人間関係のことかもしれない。

 だからこそ、初めから自分の信念に真っ直ぐな彼女が、羨ましい。

 もし時間を巻き戻してやり直すことができるのなら、間違いなく彼女と同じ道を選んでいただろう。


「ま。頑張んな」


 私はぽんと少女の背中を叩いた。

 才能に仕えるというのは、大変なことだ。辛い道だ。時には友人や家族を捨て、あるか分からないようなものに自分の全精力を注がなくてはならない。たくさん傷つくだろう。あるいは、たくさん傷つけるのかもしれない。

 ――それでも、私たちは進まなければならない。

 なぜなら、才能があるから。

 細かい理由なんていらない。

 他者から見て才能があって、自分でもそれを感じているのなら、そうしなければならないのだ。

 それは理由もなく善行をするのと近いだろう。

 あるいは意味もなく悪行をする感覚に似ているのかもしれない。

 善行や悪行が人間の性であるのと同じように、きっと才能に仕えるのも、それを持つ者の宿命なのだ。

 そんなことを、私は時々考えることがある。

 回想を続けていると、やがて音楽室に辿り着いた。

 才能の話なんかより、今は落書き事件の方が先決だ。




 音楽室には、既に人はいなかった。下校時間までにはまだ少しあるが、村上先生が帰るように言っていたから当然だろう。幸いなことに例の落書きはまだ残されたままだったので、私たちはホワイトボードの前まで移動した。


「これが調査を頼みたい落書きだよ」


 私はそう言って、改めて目の前の楽譜に目をやった。

 血液を連想させる赤い塗料で書かれた楽譜は、楽譜以外には見えない。だけど、はっきりとした違和感を覚える。それはダブルシャープが多用されていることもあるだろうし、その楽譜の雰囲気のようなものでもあると思う。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。

 ……やはり、何か変だ。


「……この楽譜に何か心当たりは?」


 葉住の妹の方が尋ねる。どうやら頭脳労働は彼女の担当らしい。見るからにそうだと思ったけど。


「特にない。部長にも訊いてみたけど、同じだって」

「……これが書かれたのはいつくらいでしょう?」

「昨日の夜の遅い時間から、今朝の早い時間だと思う。昨日の部活では何の異常もなかったみたいだから」

「……なるほど」


 ここまでは、私も確認したことだ。

 問題はここからだろう。

 もしこの落書きに何か意味があるとしたら、この楽譜にその意味が込められているはずだ。


「そうか! 分かった!」


 葉住姉が、大袈裟に手を打ってみせる。


「……無駄だと思うけど、ちなみにそれはどんな考えかな、花火ちゃん」

「こいつは連続殺人犯からのメッセージだぜ!」


 もはやこの時点で怪しい。

 というか、妹の方は聞く前から諦めているようで、自信満々に語る姉になんて目もくれずに楽譜を観察していた。


「きっと犯人は自らの存在をアピールするためにこの暗号を残したんだ!」


 言うまでもなく、残念な頭だった。

 一体どこから連続殺人犯なんて発想が出てくるのだろうか。推理小説の読みすぎ……いや、多分小説なんて読まないだろうから、きっと漫画やアニメの影響なのかもしれない。それはそれで、ミステリーなんてものに興味を持ったのかと意外ではあるけれど。

 ……いや、暗号?


「……花火ちゃん、今、暗号って言った?」

「言ったぜ?」

「……どうしてそう思ったの?」

「一見して意味の分からない文章を暗号って言うんだぜ!」


 と、まるで知ったように胸を張って、葉住花火は言い放った。

 そんなことは知っている。それと、今回の場合は文章ではなく楽譜だ。

 しかし、それでも“暗号”という考えはなかなかに鋭いものなのだろう。


「……姉はなぜか勘が鋭い時があるんです」

「何となく分かるよ」


 それにしても、暗号か。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。

 これにどんな暗号が込められているのか。

 私はホワイトボードのすぐ脇のピアノに向かう。

 カバーを開けて、鍵盤を叩いた。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。

 音の並びはやはり不自然だが、そこに大した意味は見て取れない。

 もう一度弾いてみる。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。

 まるで分からない。


「……何か気付いたことは?」

「ダメだね。何も分からない。変な楽譜だってのは分かるんだけど……」


 そうだろう、と葉住氷乃が小さく頷いて、絵の方に視線を戻す。


「……では、この楽譜そのものに注目してみましょうか」


 そして持っていた学生鞄から、虫眼鏡を取り出した。彼女はそれを右目に当て、絵を観察し始める。


「……どうやら絵具で書かれているようです」

「何!? 血じゃないのか!」


 という姉の言葉を無視して、妹が続ける。


「……完全に乾ききっているところを見ると、書かれてから相当時間が経過しているようです。おそらく犯行時刻は先程天海さんが仰っていた通り、昨晩から今朝で間違いないでしょう。この音楽室に鍵は?」

「掛かっていないけど、夜中とかなら学校には鍵がかかっているはずよ」

「……部活が終わるのは何時頃ですか?」

「私は昨日は部活に参加していないから正確には分からないけど、いつもは下校時間ギリギリまでやってる」

「……今日は活動していないようですが」

「顧問の先生が今日は部活は休みにするって突然言い出したからね。ああ、そうだ。丁度

 その落書きを見た直後だった」

「……それは、気になりますね」

「うん。だから尚のこと相談しようって話になったんだよ」


 もしあんな風に先生が態度を変えなければ、気味が悪いには変わらないが相談しようという話の流れになったか分からない。


「どうにも木の匂いがするな」


 と、葉住姉。

 それを言うなら“きな臭い”だ。


「……この学校に鍵の掛かっていない、抜け道か何かは?」

「さあ……私もここには転校してきたばかりだからね」


 校内の情勢には詳しくはない。まあ、多分、探せば抜け道の一つや二つあるんだろうけど。学校とはそういうものだ。


「……ということは、容疑者はこの学校の人間全て、ということになりますね」

「何ならOBOGも含めて、ね」


 一体何人になるのだろう。在校生だけでも千人くらいはいそうなのに。途方もない数になるのは確実だ。


「てかさ」


 と、私たちのやり取りが遮られる。

 口を挟んだのは、事件現場ではこれまで一言も発していなかった上堂だった。


「容疑者なら、大体絞れたけど」

「何!? それは本当か!」


 即反応したのは葉住姉だった。彼女は人生の大半を反射で過ごしているのではないだろうか。

 しかし、驚くのは私も同じだった。これだけの情報だけで容疑者を絞れたという彼女の言葉は、やはり少しばかり信じがたいものがある。

 もしかしたら彼女にも“あいつ”並みの推理力が?


「いやいや、推理なんて大袈裟なものじゃないですよ。要は知っているか知っていないか。それだけです」


 そう言った後、上堂はどこか納得したように頷いた。


「そうか、だから楠木先輩は私も同行するように言ったのかも」

「どういうこと?」

「もしかしたらの話なんですけど、先輩が落書きのことを聞いた時、調べるには絵の知識が必要になるかもしれないって判断したのかもしれません。だから絵を描いている私もここに来させたのかも」


 まさか……いや、しかし、あの男ならそれもあり得るのかもしれない。


「それで、容疑者っていうのは?」

「その前に、この暗号について説明しておきましょう。この楽譜から読み取れることはこれまでのやり取りのことだけじゃないんです」

「……と言うと?」


 そう聞き返したのは葉住妹だ。


「ドリッピング・ペインティングって知ってますか?」


 知らない。どうやらそれは葉住姉妹も同様なようで、同時に首を振って見せた。


「1900年代に活躍したジャクソン・ポロックという画家が得意とした技法です」


 ジャクソン・ポロック。

 1900年代に活躍したニューヨークの画家。

 彼が得意とした“ドリッピング・ペインティング”というのは、地面に置いた紙に、絵具などの塗料を筆で垂らしたり、飛ばしたりして、自然にできた模様で芸術を表現するというものだ。

 彼はその技法を駆使して、数々の抽象画を完成させた。

 上堂の情報をまとめるとそのようなものだった。

 しかし、この楽譜を見ただけでどうしてそこまで判断できたのだろう?


「“ドリッピング・ペインティング”は、まあ、例外もたくさんありますけど、基本的には紙を地面に置いて行うものなんです。この楽譜を見てください」


 言われた通り、視線をホワイトボードへと向ける。


「この楽譜は絵具で書かれているけど、全く下に垂れていないでしょう?」

「ああ、そういうことか」


 そうか。私が覚えていた違和感は、これだったんだ。

 立っているホワイトボードに絵具で何かを書けば、当然重力に従って下に垂れる。が、この楽譜にはそれがないのだ。


「そしてそれは、犯人がわざわざホワイトボードを地面に寝かせて書いた、ということを意味しているんです」


 なるほど。彼女が言わんとしていることが、私にも読めてきた。


「それほどまでにこの楽譜に――作品にこだわりを持つ人間。そんな人が美術に携わっていないと思いますか?」


 つまり、犯人は美術部、ないしはそれに関する活動をしている人間だということになります、と上堂夕陽はまとめた。


「天海先輩、美術室に案内して下さい」


 そう言った彼女の表情は推理が認められたからか、あるいは単純な興味からか、実に明るいものだった。




 聖秋学園の美術部には五十人余りの人間が所属している。普通の学校だったら、ちょっと考えられない人数だ。芸術科目に力を入れている当学園ならではと言えるだろう。

 それだけ部員がいれば美術室はさぞ賑やかだろうと思っていたが、実際は違った。

 私たちが訪れた美術室では、十人にも満たないくらいの美術部員が、各々で活動していた。その活動が絵画から彫刻まで多岐に渡るせいか、それともそれぞれが集中して自らの世界に没頭しているせいかは分からないが、想像以上に静かだった。思わず入るのを躊躇うくらいだ。

 私たちの存在にいち早く気付いたのは、入り口の扉に最も近い位置でキャンバスに向かっていた女子生徒だ。

 茶髪がかっている長い髪の毛を作業の邪魔にならないように後ろで縛っている彼女が、話しかけてくる。


「何か用ですか?」

「ええと、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」


 しまった。こういうことは苦手だ。

 助けを求めようと背後を見ると、上堂は憧れの美術室を食い入るように見渡しているし、葉住姉妹も少々興奮して聞き込みどころではなさそうだった。偉そうなことを言っておきながら、その辺りはやはりまだ中学生か。

 仕方がない、ここは私が引き受けることにする。


「こちらの部員に、ええと、“ドリッピング・ペインティング”? っていう技法を得意にしている人はいませんか?」

「“ドリッピング・ペインティング”?」

「ええと、もしかしたら卒業生かも」

「……いや、一人いるね」

「本当ですか!」


 思わず声が裏返りそうになった。

 上堂の推理が的中したばかりか、それでも何人かに容疑者を絞れるだけだろうという不安が取り除かれたのだ。突然の調査の進展に、驚かない方が無理というものだ。


「それは誰ですか?」

「今はいないよ」

「いない?」


 そう、と美術部員が頷いてみせる。そして彼女は筆を机の上に置きながら続けた。


「そもそも美術部自体が自由参加みたいな部活だからねー。部員全員が顔を合わせる事の方が珍しいよ。とは言っても、みんな芸術に傾ける想いは真剣そのものだから、ここには来なくても家とかでちゃんと作品を作ってるみたい。南戸みなともそんなタイプだね」

「その南戸さんっていう人が、例のドリッピング何とかの?」

「“ドリッピング・ペインティング”ね。昔は結構良い賞とかも獲ってたらしいけど……」

「最近は調子が悪い?」

「まあね」


 肩を竦める。


「どうにも描き方が凝り固まっちゃっててね。そりゃあ昔はそれでも良かったんだろうけどさ。そればっかじゃやっぱりダメだよ」

「はあ……」


 私は絵のことはさっぱりだ。曖昧に相槌を打つ程度のことしかできない。


「……その人の絵を見ることはできますか?」


 ようやく聞き込みにまともに参加することにしたのか、葉住氷乃がそう言った。


「良いよ。確か、準備室の方に次のコンクールに出す作品があったはずだから」


 案内してあげる、という言葉と共に歩き出した美術部員の後を、私たちは追いかけた。




 美術準備室では様々な作品が白い布を被せられていたり、あるいはむき出しのまま保管されていたりしていた。思っていた以上に空気の流れも良いようで、埃も目立たない。

 ここに置いてある多くの作品は、美術なんかにはまるで縁のない人間にとっては何が良いかはさっぱり分からないのだが、しかし上堂は文字通り目をキラキラと……どころかギラギラと輝かせてそれらを見つめていた。あるいは、そうやって技術の一つでも盗もうとしているのかもしれない。それはそれで正しい態度なのかもしれないが、今は調査にもう少し身を入れて欲しいと思う。


「ええと……あったあった、これだ!」


 そう言って、美術部員は一枚の絵に掛かっていた布を捲った。

 現れたのは……よく分からない絵だった。

 何やらオレンジの下地に、赤で点々と模様が描かれている。なるほど。さっき上堂が塗料を筆で垂らしたり、飛ばしたりして、自然にできた模様で芸術を表現するのが“ドリッピング・ペインティング”だと言っていたけど、まさしくそんな感じだ。

 しかし、おそらく作者の南戸さんにもそれなりの考えがあって仕上げた作品なのだろうけど、抽象画というものだろうか、如何せん素人には分からないものがある。

 絵の下には名前の書かれた小さな紙が貼られていた。

 南戸みなと瑠美るみ。おそらくそれが南戸さんのフルネームだろう。


「ね。やっぱりダメだよ、こんな色使いじゃ」


 美術部員が腰に両手を添えながら呆れたように言った。そんなこと言われましても……私にはどう返すのが良いか分からない。が、上堂には通じたらしく、二人は美術の会話をし始めた。

 私はもう一度絵の方に視線を移す。別に絵に興味があったのではない。何か落書き事件を解決させる手がかりがないかと思っただけだ。

 絵の下の紙を見てみるが、特に変わった点はない。住所も連絡先も書かれていない。書かれているのは彼女の名前と『神々の叫び』という絵のタイトル(どの辺りが神々の叫びなんだ?)だけだ。


「にしてもさ」


 と、美術部員が口を開く。


「あんたたちも南戸に何か用なの?」

「いえ、ちょっと伺いたいことがありまして」

「ふーん。そういや、さっき村上先生も来たけど」

「本当ですか?」

「本当」


 やはり、先生は今回の一件に関わっていたのだ。


「先生も南戸を探してたみたいだけど」

「そうでしょうね」

「あいつ、何かしでかしたの?」

「いえ、それはまだ何とも言えませんが」


 だが、彼女を探す必要はあるだろう。ここまで調べたからには、あの楽譜の意味を聞かなければ気持ちが悪いというものだ。


「ま。あいつもあいつで問題児っぽいからね」

「……と、言いますと?」


 と、葉住氷乃が聞き返す。


「まあ、生活態度とかは普通なんだけどねぇ」


 美術部員がずいと体を乗り出す。内緒話をするように。私たちもそれに習って彼女の口元に耳を寄せた。


「噂なんだけど……村上先生とデキてたらしいよ」

「はあ」

「いやー、先生もまったく何を考えてるんだろうね。生徒と恋愛だなんて」


 それはそうだけれど、どうしてたかだか噂ごときでそこまで言い切ることができるのだろう。確かに先生は見た目は良いからモテそうだけど、常識ある教師ならそんな軽率な行動はとらないだろう。

 だがしかし、それを差し引いても有力な情報を入手できたのは確かだ。村上先生と南戸さんが、例え噂の通りの関係でなかったとしても、少なくともそんな噂が立つくらいの親交はあったのだろう。

 落書きを書いたとされる人物と、それを見て明らかに動揺した人物。

 その間に面識があるというのなら、それらのことはきっと偶然重なったことではない。

 もう少しのはずだ。もう少しで、真相に辿り着ける。が、その最後の閃きがやってこない。

 やはり、あの楽譜に込められた暗号を解くしかないのだろうか。

 私はもう一度、脳内であの音を再生する。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。

 やっぱりダメだ。ただの音の羅列にしか思えない。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド……。


「何、その曲?」


 しまった。声に出ていた。


「いえ、何でも……」


 いいや、ちょっと待て。


「この曲に聞き覚えはありませんか?」


 もう一度、唱える。

 ド、レ、ド、ソ、ド、ミ、ド。

 美術部員が首を傾げる。


「さあ、覚えはないけど……有名な曲?」

「そうでもないです」


 多分、マイナーな曲だ。何ならオリジナルの曲かもしれない。あるいは曲自体には特に意味はなく、その音符の並びに何か意味があるということもあり得る。

 とにかく、ここで聞けることはこれで全てだろう。


「では、私たちはこの辺りで……」


 目線で葉住姉妹に合図する。上堂は……話を聞きそうにないから、引きずってでもいこう。


「もう良いの?」

「はい。お忙しい中ありがとうございました」


 そして私たちは、美術準備室を後にした。




「さっきの話、どう思う?」


 音楽室へと戻る道中、私は他の連中に尋ねてみた。


「やっぱり芸術高校の部活は一味違うと思いました!」

「何か、よく分かんねえけど、色々あってすごかったぜ!」


 やはり、この二人は話にならないようだ……私は視線を葉住妹へ向ける。


「……村上とかいう教師の話は、気になりますね」

「やっぱりそうだよね」

「……どんな先生なんですか?」


 私は村上先生のことを軽く説明することにした。

 背が高くて痩せ形で、眼鏡をかけていて、人当たりが良いため女子生徒に人気がある、ということだ。

 それから吹奏楽部の顧問であること。そして、落書きを見た時、明らかに様子がおかしかったことを付け足す。

 氷乃が小さく頷く。


「……なるほど。これは何かありますね」

「そうだね」

「……でも、やはりあの暗号を解かなくてはならないような」

「うん……でも、それが全く思い付かないし」


 本当にお手上げ状態だ。


「てか、どうしてそんなに悩んでるんです?」


 後ろから声がして、私は振り返った。

 上堂が不思議そうな表情でこちらを見つめている。

 まさか彼女にはもう解けたというのだろうか。


「いやいや、そんなの無理に決まってるじゃないですか」

「じゃあ、どういう……」

「餅は餅屋にって奴ですよ。暗号だったら、それを解く専門家に頼めば良い」

「専門家」

「楠木先輩ですよ」

「いや、あいつは用事があるって……だからそこの双子を寄越したんじゃない」

「でも、メールを見るくらいの暇はありますよ、きっと。連絡先を知っているんでしょう?」


 いや、メールアドレスは知らない。知っているのは電話番号だけだ。そして電話番号だけを知っているのでは、暗号の画像を彼に見せることはできない。


「えー……何か変な関係ですね」

「そう?」

「そうですよ。仲が良いのか悪いのか分からないです。普通はメールアドレスよりも電話番号を大事にするものですよ」


 なるほど、言われてみればそうかもしれない。

 連絡先を教えるならまずはメールアドレスで、それから電話番号だ。メアドだけ知っているというのなら理解できるけど、電話番号だけを知っているというのは、少しばかり変な話かもしれない。

 ……まあ、あの男が変人だからかもしれないけれど。

 どんなに取り繕ったところで、あいつは間違いなく変人だ。

 それはさておき、私があいつのメアドを知らないとなると、誰が知っているのだろう?


「……仕方ありませんね」


 氷乃が小さく溜め息をつく。


「……あの人に頼るようで癪ですが、私がメールしておきましょう」

「悪いわね」

「……いえ、私たちのプライドよりも大切なことがありますから」


 大切なこと?


「人助けだぜ! そこに困っている人がいるなら、炎氷姉妹リバース・シスターズは助けるんだ!」


 ふむ。

 思わず感心してしまった。

 正直、内心では彼女たちを頼りないと思っていたが(どこかの名探偵と比べてしまっていたのかもしれない)、しかし存外、この姉妹はそれなりの覚悟を持って活動していたらしい。

 それに。


「あいつなら、間違いなく解けるだろうし、ね」

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