―4―
木曜日。時刻は午前六時。
僕は一人で学校へ向かった……はずだった。
「やあ、楠木君、おはよう」
「……おはよう、猫屋敷」
というか、どうして彼女がこんなところに?
「いやいや、ただの気まぐれさ」
「気まぐれでこんな早起きをしているんだね」
「たまには早めに登校するのも良いと思ってね」
絶対に嘘だ。
「じゃあその手に持っているバスケットは何だい?」
中身は、推理しなくても分かる。おそらく彼女の手作りサンドイッチが入っているのだろう。
「これも、まあ、気まぐれだ」
「そうですか。だったら気まぐれで、僕にも分けて下さいね」
「考えておくよ」
と、言いながらも彼女ならきっと分けてくれるのだろう。いつもの昼食のように。
「それで、張り込みはなかなか難航しているようだね」
「どうして分かるんだい?」
「上手くいっていたならこんな時間に家を出ないだろう」
確かに彼女の言う通りだ。
「上手くいっていないね」
「どうして上手くいっていないんだい?」
どうして上手くいっていないのか。
大きく二点、まったくもって理解し難いことがあるからだ。
第一に犯行方法。
事件現場であるところの下駄箱は、僕とクルミさんの監視下にあった。誰一人として怪しい人間は近づいていないはずだ。では犯人は手を使わずに、あるいは姿を消したまま犯行に及んだのだろうか。いや、それはあまりに現実的ではないだろう。
第二に、犯行動機。
なぜ犯人は須藤さんを除く二年F組の生徒全員にクッキーを配ったのか。どうして須藤さんだけ除外されたのか。愉快犯というのにも少し無理があるし、しかしだからと言って、他に合理的な理由も思い付かない。
捜査は手詰まり状態だ。
「なるほど」
「何か気になることでも?」
「いいや、特に見当たらないな」
「そうですか」
少し残念だ。彼女ならば何か気付いたのかもしれないと思ったのだけれど。
「ただ、君がよく言っていることを復唱してやろう」
「僕がよく言っていること?」
「推理のイロハだよ。推理は全て繋がっている。それと、前提条件を疑う。見方を変える。対象を変える。これが謎を解くコツだと、君は最初に出会った時に言っていたはずだ」
そんなことを言っただろうか……どうにも記憶が曖昧だ。
「君は自分のこととなると途端に無頓着になるんだね」
「それは猫屋敷、君もあまり変わらないと思うけど」
しかし、なるほど。推理のコツか。今まで語っておきながら、はっきりと意識したことがなかったな。
推理は全て繋がっている。
前提条件を疑う。
見方を変える。
対象を変える。
今回の事件を5W1Hに当てはめると、
When……早朝から下校時間までを除く時間。
Where……生徒玄関、下駄箱で。
Who……習志野中学の生徒が。
What……クッキーを。
Why……合理的な理由は不明。ただし、自己顕示欲の強いタイプの愉快犯ではないと思われる。
How……普通に下駄箱の扉を開けて行われたはずだ。
これらを「推理のコツ」に当てはめて改変すると、
When……下校時間以降、登校時間以前。
Where……これは変わらず、生徒玄関、下駄箱で、だろう。
Who……習志野中学の生徒が、と思っていたけれど、生徒だけに限定することはできないだろう。
What……これも変わらず、クッキーを、だ。
Why……これも変わらず合理的な理由は不明。ただし“自己顕示欲の強いタイプの愉快犯”と決めつけるのは、些か早計だ。
How……普通に下駄箱の扉を開けてという前提も、もはや怪しい(とは言っても他に具体的な方法は思い付いてはいないのだけれど)。
と、なるだろう。
「つまり犯人の動機と犯行の時刻が分かれば、犯人を絞り込むことができるというわけだ」
「そうなるね」
しかし、それが最大の謎なのである。
それにクッキーを入れただけでなく、その対象から須藤さんを除外した理由が分からない。
「まあ、それは良いじゃないか。それよりもそろそろ学校へ行こう。もしかしたら、これから犯人を現行犯で捕まえられるかもしれないじゃないか」
「それもそうだね」
ここであれこれ考えていても何も進展しないだろう。
僕たちは学校へ向かうことにした。
校門前でクルミさんと合流し、僕たちは生徒玄関へと入る。
そして昨日と同じようにロッカーの陰に隠れた。今回は猫屋敷もいるため、僕は女子二人に挟まれる形になる。これはかなり窮屈であるのだが、仕方がない。
「今朝は現れますかね、犯人」
「さあ、どうかな」
いい加減現れて欲しいけれど、しかし犯人のこれまでの抜け目のない犯行を見る限り、今朝も望み薄かもしれない。
いや、ちょっと待てよ。
「クルミさん、今朝は下駄箱のチェックは?」
「していませんけど」
まさか。
僕はロッカーの陰から飛び出した。
真っ直ぐに二年F組の下駄箱の元へ駆け寄り、開ける。
――やはり。
「どうしたんですか、先輩!」
背後から響くクルミさんの声に応えるまでもなく、下駄箱を片っ端から開けていった。
が、直感した通りだ。
下駄箱には、既に今日の分のクッキーが用意されていた。
一体、いつだ?
いつ、犯人はこのクッキーを入れたというのだ。
……いや、考えるまでもないか。
「どうやら、何か分かったようだね」
「ええ」
クッキーが配られた。しかし、今朝もおそらく須藤さんの下駄箱には何も仕込まれてはいないはずだ。
ならば。
仮定は立った。
後は情報を集めれば、全ての謎が解けるはずだ。
となるともう、今朝の張り込みを続ける必要はないだろう。
僕は振り返り、言った。
「教室で朝食にしましょう」
正直、猫屋敷のお手製サンドイッチは楽しみだったのだ。
不思議そうにこちらを見る二人を連れて、僕は自分の教室に向かったのだった。
放課後。僕は図書室にいた。何ということはない。ただ図書当番だったのだ。
時刻は既に午後七時を回り、いくら日が長くなってきた季節とはいえ、既に窓の外は暗い。
この時間にもなると図書室の常連であろうとも、流石に僕以外には誰一人として残ってはいなかった。そもそも図書委員会の仕事は午後五時までということになっているが、僕が残っているのには理由がある。
僕は待っているのだ。
誰でもなく、今回起きた一連の出来事を仕組んだ人物を、だ。
受付のカウンターに座って、お気に入りの文庫本を広げる。しかし、内容はまったく頭に入ってくることはない。僕の頭の中は、この後対決するであろう犯人のことで一杯だった。
考えをまとめよう。
犯人を仮にXとする。
結論から言うと、Xは習志野中学の生徒ではない。無論、部外者というわけでもない。いくら何でもわざわざ校外からやって来てクッキーを配る人間なんていないだろう。
ならば誰がやったのか。
早朝、生徒玄関が開かれるより早くに犯行が可能な人間。それでいて放課後の下校時間より後まで学校に残れる人間。
となると考えられるのは、教師だけだろう。
なぜクッキーを配るなんてマネをしたのかということは、須藤一馬が除外された理由を考えたら思い至った。
須藤一馬はXに嫌われて除外されていたわけではない。むしろその逆なのだ。
僕たちが初めに須藤さんに依頼を受けた時のことを思い出す。あの時、野々宮さんはこう言ったのだ。
――だって気持ち悪いじゃない。朝来たら自分の下駄箱にクッキーだよ?
その通りだ。大抵の人間は自分の下駄箱に差出人不明のクッキーが入れられていたら気味悪がる。現に被害に遭った二年F組の生徒の大半は、それに手をつけなかったそうだ。
だからある意味、須藤さんは幸運にも被害に遭わなかったと取ることもできる。
いや、それは決して幸運などではなく、犯人の思惑だったのだ。一度だけならば犯人が入れ忘れたということも考えられるけれど、四回連続となると偶然ではないだろう。
では、どうしてXは須藤さんにだけクッキーを配らなかったのか。
簡単だ。Xは自分の作ったクッキーを須藤さんにだけは食べさせたくはなかったんだ。
二年F組の生徒には自分の作ったクッキーを食べて欲しくて、しかし須藤さんにだけは食べて欲しくなかった理由は何か。
それは嫌悪感からではない。
彼が嫌いなら、もっと直接的な嫌がらせをすれば良いのだ。
ならばその逆で、発想の転換で、彼のことが好きだったからだ。
須藤さんは言っていた。
――何人かは食べていたようだけど、怪しがって食べない人も多かったよ。
――普通に美味しかったって。
ポイントは
当然、これだけのことを仕組んだXだから、クッキーが気味悪がられて食べられることがない、ということは予期していたはずなんだ。そして、しかしその内何人かは手を付けるだろうということも。
不味いものを好きな相手に食べさせるわけにはいかない。
結論を言ってしまえば、クッキーの配布はXにとって、須藤さんを除いたクラスメイトへの人体実験だったのだ。
人体実験と言うと少々語弊があるかな。
ではなぜXがそこまでして味見をさせたかったのか。
どうして、もっと身近な人間に味見を頼まなかったのか。
僕がここまでの仮定と疑問に辿り着いた時、必然的にXの人物像が見えてきた。
自分の料理に自信がない人間。
夜遅い時間まで学校に残ることができる人間。
須藤一馬に好意を寄せる人間。
これらの条件を満たす人間は、そうは多くないだろう。
「貴女が犯人ですね、河内雪菜先生」
僕は扉の向こうの気配に、そう投げかけた。
扉が開かれる。
そこにいたのは、僕の想像した通りの人物だった。
「何を言っているの、楠木君。それより、もう下校時間よ。早く帰りなさい」
「とぼける必要はないですよ。大体の調べはついていますから」
念のためクルミさんに調べてもらった。
須藤一馬とあらかじめ面識があり、彼に想いを寄せていることが他人に知られてはならず、そして夜の遅い時間まで学校に残っていられる人間。
その条件に当てはまる人間は、河内雪菜しかいなかった。
彼女は須藤一馬が中学に入学する前から面識があった。教育実習生と生徒が恋愛関係になってはならない。だから彼女はその想いを誰かに相談することができなかった。
「しかし、どうしても想いを告げたかった貴女は、お菓子に気持ちを込めることにした。だが自信がなかった。だから実験をすることにしたんです」
それがクッキー配布事件の真相だ。
教育実習先での活動期間は約一カ月。事件が発覚しても彼女に疑いがかけられることは、そうないだろう。
そして、学校に遅くまで残ることのできた彼女になら、僕やクルミさんの張り込みを潜り抜けて犯行に及ぶことが可能である。
「勿論、何か物的証拠があるわけではありません。貴女が一言『違う』と仰ってくれれば、それまでです」
「そう。じゃあ、違うわ」
「そうですか……いや、失礼しました」
「それじゃあ、君も早く帰りなさい」
言われて、僕は立ち上がる。
物的証拠は、何もない。
だが、犯人を追い詰める方法はある。
「河内先生」
僕は背中を向けて立ち去ろうとする彼女を、呼び止めた。
正直、あまり気は進まないけれど……。
「すみません。実はコンタクトを落としてしまって。確か先生は車でご出勤されていますよね。送ってもらえませんか?」
「それは……できないわ」
「どうして。クッキーを仕込む時間がなくなるから?」
「そんなこと……ないわ」
彼女の教育実習は今週までだ。つまりクッキーを渡すには明日が最後のチャンスになる。僕を家まで送っていけば、最後のクッキーを仕込む時間がなくなるかもしれない。ここまでさんざん試行錯誤してきたのだ。計画の失敗を、彼女は許さないだろう。
「親御さんを呼んであげる。だから、」
「生憎、今日は両親は帰らないんです」
車でならあっという間でしょう?
と付け加える。
彼女の表所が変わるのが明らかに分かった。
「駄目よ」
「なぜですか? ……ああ! この後に予定があるんですね。例えば人に会うとか」
「……そうよ」
「またまた御冗談を。予定があるなら、そもそも下校時間前の見回りなんて引き受けません」
それもクルミさんに頼んで調べてもらったことだ。
河内先生以外にも教育実習生はいるが、下校時間の見回りをする人間は、彼女しかいなかった。しかも自分から、本来は他の教師の仕事だった見回りを引き受けたそうだ。
「どうですか、河内先生、お願いできませんか?」
「……」
チラリと、彼女が壁の時計を確認する。午後六時四十分。
これもクルミさんから調べてもらった情報だが(本当に彼女は大した情報屋だ)、見回りの先生たちでも八時には学校を後にするそうだ。つまり河内先生がクッキーの仕込みをするまでは、一時間ほどしかない。僕を送っていけばどのくらい時間が残るか、不安でしかないだろう。
しかし彼女は、僕のそんな意に反して、頷いてみせた。
「分かったわ。送っていきましょう」
「そうですか。ありがとうございます」
そして僕は、彼女の後に続いて図書室を出た。
午後七時。僕は今、河内雪菜の運転する車に揺られている。
横目で運転席の彼女を見るが、運転に集中しているようだった。なかなか運転する姿が様になっている。どうやら彼女は車の運手でさえ、そつなくこなしているようだった。
車が赤信号で停まった。
「送っていくのは構わないけれど、私は君の家を知らないわ。案内してくれる?」
「分かりました。では、取りあえず国道を道なりに進んでください」
そして青信号になると、彼女は再びアクセルを踏んだのだった。車がゆっくりと前進する。
「君は……確か園芸部だったわね」
「ええ、まあ」
「園芸に興味でもあったの?」
よく訊かれるが、僕が園芸に興味を持つのはそんなに意外なことだろうか。いや、勿論、興味なんてないのであるが、
「何と言うか、事の成り行きです」
「それは猫屋敷さんに関係してる?」
「……ええ、まあ」
ふふ、と運転席の女性が笑みを浮かべた。
「君は猫屋敷さんが好きなんだね」
「そんなことは……ないと思いますけど」
「照れなくても良いのよ」
「別に照れているわけでは……」
「でもね、楠木君。その気持ちは大切にした方が良いわ。恋愛なんて、学生時代にしかできないもの」
「そういうものですかね」
「そういうものよ」
ハンドルを握る彼女の表情は真剣そのものだ。
きっと、彼女は真剣な恋愛ができなかったのだろう。あるいはその気持ちに気付いた時には既に遅かったのかもしれない。大人は、自分ができなかったことを子供に伝える時、真剣な顔になるのだ。
それからしばらくの間、僕たちの間にあったのは沈黙だけだった。正確には僕が所々で進路を指示していたから、完全な沈黙ではなかったのだけれど、しかし会話という会話はなかった。
語るべきことはもうない。
彼女にとっても、僕にとっても。
時刻は午後七時二十分。
「ここが君の家? 随分立派なところに住んでいるのね」
言って、彼女がその豪邸に視線を向ける。
僕たちの前には豪華な造りの門がある。そしてその先には、ヨーロッパの貴族が住んでいそうな館が建っていた。
「明治時代に建てられたものらしいですよ。と言っても、幾らか手は入れられているようですけど」
「変な言い方ね。まるで自分の家じゃないみたい」
「ああ! すみません。僕としたことがうっかりしていました」
「……どういうこと?」
彼女が眉をひそめる。
「ここは僕の家ではなく、猫屋敷の家でした。いやぁ。彼女のことが好きすぎて間違ってしまったんでしょうか」
「貴方ね」
「どうしたんですか? ああ、怒るのも無理はないです。完全に僕が悪いです。ですが、まあ、僕の家もここからさして離れてはいません。送ってもらえないでしょうか?」
この後、何の予定もないのでしょう? と付け加える。
「分かったわよ! 今度は間違えないでよね!」
「気を付けます」
そして河内先生は、車を乱暴に発進させた。
僕が自宅に着いたのは午後七時三十分を回ったところだった。河内先生が学校に戻るまで二十分ほどだとして、彼女がクッキーを仕込むのはギリギリ間に合うかもしれない。
僕を降ろした彼女はお礼すらろくに聞かずに、車を発進させた。やはり相当あせっているらしかった。
さて。
これで僕ができることは全て終わった。
僕は自分の家に入ることにした。
午後九時。僕はある人物に電話をかけていた。最も新しく電話帳に名前を連ねた人物だ。
『本当に写真を撮るだけで良かったんですか?』
電話の向こうで、少女が言った。
僕は答える。
「うん。遅くまで付き合わせてしまって、悪かったね、クルミさん」
『いえ、私は別に良いんですけど……』
「心配しなくとも、写真だけで十分だよ。僕だって他人の恋路を邪魔するほど器量が狭いわけじゃない」
僕がすべきことは、須藤一馬からの依頼を完遂することだ。
彼の依頼内容は、なぜ自分にだけクッキーが贈られなかったのか、そしてなぜ犯人はクッキーを配るなんてことをしたのか、それを調べることだ。
ならばその調査報告は、犯人――河内雪菜が彼に想いを伝えた後でも構うまい。
とは言え、彼が真相を知ってから報告したとしても、職務放棄と責められての文句は言えないだろう。
『なるほど。だから証拠写真が必要だったわけですね』
「そう。犯行の証拠写真じゃなくて、僕たちが仕事をしていたという証拠が必要だったんだよ」
時間がなくれば犯人が焦るのは分かっていた。案の定、僕を送るために河内先生の見回りは甘くなり、校内に隠れているクルミさんは発見されずに済んだのだ。
そしてクルミさんは、これまでの張り込みと同じように隠れ、犯行の現場を写真に収めた。
これで僕は自分の責任を果たしたわけだ。正直、その後のことは知ったことじゃない。
……しかし、まあ、折角恋のアドバイスをもらったのだから、彼女の恋愛も上手くいって欲しい、とは思うけれど。
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