―3―
「どうしてそんなに面白いことを教えてくれなかったんだ」
放課後を迎えるや否や、猫屋敷が僕の机に飛んできた。表情からして憤慨しているということは、付き合いの短い僕にでも簡単に分かる。
「面白いことって?」
「クッキーがばらまかれた事件のこと」
誤魔化そうにも、どうにも無駄なようだった。
と言うのも、実は昼休みに既に彼女には説明したのである。その時はクルミさんも一緒だったから猫屋敷が感情を表に出すことはなかったが、しかし事件のことを教えてもらえなかったことにはやはり怒っていたらしい。
だが、ちょっと待って欲しい。
「仮に昨日の段階で話したとして、君は朝が弱いだろう? 張り込みは朝の六時半からだよ」
つまり起床時間自体はもっと早い――五時半から六時といったところか。
「私だって早起きくらいできるもん」
「猫屋敷、口調がぶれているよ」
そう言うと彼女は顔をわずかに赤く染めた。コホンと咳払いを挟んで続ける。
「とにかく、私も張り込みをするから」
「それは構いませんけど」
しかしあまり見張りの人数が増えても、犯人に勘付かれるおそれがある。あまり目立ちたくはない。
それに第一、犯行時刻すら特定できていないのだ。張り込み自体、意味のある行為かどうか分からない。
「まあ、安心したまえ。この謎はきっと解けるよ」
「どうしてそう言い切れるんだい?」
「君が挑んでいるからさ。名探偵には解けない謎はないものだよ」
そうだろう? と訊いてくる。
そんなわけない、と僕は答える。
名探偵って言ったって人間であることに変わりはない。謎を解き明かすことができない時もあるだろう。それに第一、僕は名探偵なんかじゃない。
「今はね。だが君には素質がある」
「素質、ねえ……」
「ああ、勘違いしないでくれたまえ。素質というのは何も推理力のことではないよ」
「違うのかい?」
「違うね。確かに推理力は名探偵には必要不可欠な条件ではあるけれど、しかしそれは素質とは違う」
「じゃあ、何を素質と言うんだい?」
「名探偵に最も必要な素質はね」
一拍置いて、猫屋敷が答える。
「事件に巻き込まれることさ」
「事件に巻き込まれること……」
そうだ、と彼女が頷いた。
「どれだけ推理力があっても、どれだけ知識が蓄えられていようとも、それは事件に遭遇しなければ何ら意味を成さない。その点、君は素晴らしい。君の元には次々に変わった事件が舞い込んでくる」
「舞い込んでくるというより、巻き込まれているだけだけどね、僕の場合は」
まったく、冗談じゃない。僕はただ平和に暮らしたいだけなのに。
それなのに猫屋敷と言い、野々宮さんと言い、どうしてそこまで面倒に自分から首を突っ込んで行けるんだ。そんな労力のかかる人生を送る意味というのを、僕には理解できない。
「そう言うなよ。謎があるから私たちはこうして出会い、仲良くなれたんじゃないか」
そうとも言えるかもしれないけれど……。
いや、そもそも僕たちは言うほど仲良くはないのだから、前提条件からして間違っているのかもしれない。
「私はもう君とは親友だと思っていたが?」
「はあ……」
「嬉しくないのかい? こんな美少女とお近づきになれたんだぞ」
「そういうところがなければ、嬉しかったのかもしれない」
見た目だけは魅力的だし。
とは言っても、僕の好みでないけれど。
「じゃあ、君の女の子の趣味を教えてくれたまえ」
「なんで僕が……」
「良いじゃないか。話の流れだよ」
「そうだな……黒髪が綺麗で、スタイルの良い人が好きだな」
勿論、冗談だけれど。
しかし猫屋敷は本気にしてしまったようで、その茶髪がかった髪の毛を染めようとか、けれどスタイルはどうしようとか、本気で悩んでいるようだった。終いにはあと五年待ってくれと頼んできた。五年の内に成長するから、と。
「君の場合、最大の問題は性格だと思うよ」
「どうしても嫌だと言うのなら改善しよう。私は君にはもっと好かれたいと思っている」
「いや、別にそのままで良いんじゃないかな。少なくとも僕はね」
誰かのためだからと言って、自分を変える必要があるとは思えない。迷惑をかけているのなら別だけれど。
それに、何だかんだ言って僕は猫屋敷との会話を楽しんでいるのだ。
他の男子たちの人気が欲しいと言うのなら、話は別だけれど(少なくとももっと愛想を良くする必要がある)。
さてと。
僕は自分の鞄を持って立ち上がった。
「これから調査かい?」
「調査というか、張り込みですね」
今朝のことを踏まえると、犯人が早朝に犯行に及んでいるとは限らないのだ。ならば放課後にも張り込みをするしかなかろう。それはクルミさんとも相談した結果だ。
「私も張り込みに参加しても?」
「ダメです」
「……どうしても?」
「貴女が絡んできたら絶対に面倒なことになるでしょう」
「君の中では私はどういう性格なんだ?」
面倒を持ち込む野々宮さん。
面倒を育てる猫屋敷。
そういう印象だ。
「君は相変わらず失礼極まりないな」
「それだけ親交を深めたということで」
本音をぶつけ合える仲というのは、少なくとも初対面では不可能だし、仲が悪い同士でも不可能だろう。
まったく、と猫屋敷が肩を竦めてみせる。
「じゃあ、事件が解決したらその顛末を教えてくれよ」
「分かりました」
「約束してくれたまえ」
「約束しましょう」
「何に誓う?」
「貴女との友情に誓って」
「良かろう」
そして僕は猫屋敷と別れて生徒玄関へと向かった。
「先輩、遅いです」
生徒玄関で僕を迎えたのはクルミさんの小さな声だった。
今朝と同じようにロッカーの陰に隠れている彼女は、膝を折って体育座りのようにしている。小さな彼女の体が、より小さくなっていた。
どうやら犯人に見つからないように、という配慮のようだったが、僕としてはそんな埃っぽいところでうずくまって制服が汚れないかの方が心配だ。
「何言ってるんですか、真先輩。今朝だって、そんな油断があったから犯人のことを見落としたのかもしれないじゃないですか」
「流石にそれはないと思うけど」
考えられる可能性は二つだろう。
一つ。犯人は何らかのトリックを用いて、僕たちが見ている前で犯行を行った。
二つ。そもそも犯行時刻は今朝でなく、前日の放課後だった。
現実的に考えておそらく後者だろう。ならばこうして見張っていれば、いつか犯人が現れるということだ。そういった面ではクルミさんのように張り込みに力を入れるのは正しいことだ。しかし、だ。
「今からそんなに気合を入れなくても良いんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「昨日も言っただろう? 放課後は人の目があるから犯行をしづらい。だから犯人がやって来るとしたら、もっと遅い時間だよ」
大抵の生徒が部活に行き、帰宅する生徒が学校を出た時間――おそらく午後五時前後だろう。現在の時刻は午後四時十五分。気合を入れるにしてはやや早い。
僕にしたってこれから購買部に行ってコーヒーでも買ってこようと思っていたところだ。
「じゃあ、先輩は行ってきても良いですよ」
「後輩を一人残しておくのは少し心苦しいな」
「どうぞお気になさらず。私にはあんぱんと牛乳で良いですよ」
お気になさらずというか、先輩をパシリに使う気満々だった。
本当にこの後輩はふてぶてしい。こういうところは猫屋敷と上手くやっていけるかもしれないな。
ちなみに昼休みに彼女を猫屋敷に紹介した時は、おそらく僕からの情報を元にしたのだろうけれど、クルミさんが付け焼刃のクラシック音楽と演劇の知識を披露し、それなりの友好関係を築いていた。猫屋敷は少なくとも野々宮さんよりかは気に入っている様子だった。
クルミさんは友人に好かれるために情報を集め始めたと言っていたが、その本分を見事に果たしたわけである。
しかし、どうしてあんぱんと牛乳なのだろうか。
「やっぱり身長を気にしているから?」
「違いますよ。大体、私、そんなに小さくありませんし!」
小声はどこにいったんだ。
「第一、先輩知らないんですか? 牛乳には身長を伸ばす効果はないんですよ。骨を丈夫にするだけです。身長を伸ばすにはバランスの取れた食事と適度な運動が大切なんですよ」
「へえ。詳しいね」
「そりゃあ、調べましたからね」
おそらくそれは情報屋としての情報収集ではなく、彼女の個人的興味だったのだろう。流石にこれ以上怒らせたくはないから口には出さないけれど。
「あんぱんと牛乳と言えば、張り込みの必需品ですよ」
「そうなの?」
「そうです。太陽と月、海と砂浜、夜景に恋人、くらいに当たり前の組み合わせです。刑事ドラマの常識じゃないですか」
どうやら情緒を大切にするという面でも、彼女は猫屋敷とかなり分かり合えそうであった。猫屋敷が自由気ままな野良猫なら、クルミさんはそれに憧れる子猫といったところか。
とにかく。
「あんぱんと牛乳だね。買ってくるよ」
僕はそう言って、購買部へと向かった。
「あれれ、楠木君じゃない」
「どうも、野々宮さん」
購買部。数少ない僕の友人にして、数少ない顔を合わせたくない人物――野々宮美里さんと遭遇した。これから部活に行くのだろう。赤を基調としたテニスウェアで、ラケットの入ったケースを肩にかけている。
「これから張り込み?」
「ええ」
答えながら、僕は商品棚からあんぱんと牛乳を見つける。それから自分の缶コーヒーもだ。
「野々宮さんはこれから部活ですか?」
「そうだよ。ごめんね、楠木君たちにばかり押し付けちゃってさ」
「それは、まあ……僕が引き受けたことですから」
面倒と言えば面倒だが、黙って下駄箱を見ているだけで済む仕事だ。真っ直ぐに家に帰って読書をするのと労力で言えばさして違いはない。そして違いがないのであれば、他人の役に立っている今現在の方が幾分か生産的ではあるだろう。
「ふぅん。やっぱり楠木君って優しいんだね」
「そんなことありませんよ」
購買のおばちゃんに小銭を差し出す。420円。
「野々宮さんの方がよほど他人に優しいでしょう?」
「そうかな?」
「そうですよ」
「でもね、楠木君」
言いながら、彼女もスポーツドリンクを手に取り、その料金をおばちゃんに手渡した。
「やっぱり、楠木君の方が優しいし、それに正しいよ」
「正しい、ね」
正しさなんてものは、決して絶対的ではない。状況や立場が変われば、共に変わってくるのが正しさというものだろう。
しかし、まあ、そんな理屈を置いておくとしても、僕には到底、自分が目の前の女の子より正しくて優しいとは思えなかった。そしてそれはおそらく、誰から見てもそう判断されるだろう。
「そうでもないよ。見てる人はちゃんと見てる」
例えば升田先生とか、と付け加えられる。
野々宮さんらしくない冗談だ。彼女はもっと、こう、ユーモアに溢れる冗談を言うタイプだと思っていたけれど。
仮に冗談でないのであれば、何とも筋違いな意見だと言わざるを得ないだろう。升田先生に限って優しさを見ているなんてことはないはずだ。彼は面倒を避けるために何も見ていない。
「どうかな。先生の判断はともかくとしても、楠木君が私より正しくて優しいっていうのには根拠があるんだよ」
「なかなか興味深いですね。是非ともその根拠というのを教えてもらいたいものです」
これは皮肉ではなく、心からの言葉だった。
僕と彼女のことを知る人間百人にアンケートをとっても、おそらく九十パーセント以上は野々宮美里の方が正しくて優しいと答えるだろう。僕に入れた十パーセントの人間は、あまりにも人を見る目がない。もしくは天邪鬼か。とにかくまともとは言えない。
「簡単だよ。君がそうあろうとしているから」
「……というと?」
「うーん、そうだなあ……」
少し考えて、彼女が答える。
「偽物と本物の話だよ。例えば本物があったとして、逆に本物になろうとする偽物もあったとする。本物は生まれた時から本物だけど、偽物は本物のようになりたいと努力するわけだ。両方とも同じ性質を持っているとして、どちらが尊いかな」
「……」
「もう少し分かりやすく言うとね、天才的なスポーツ選手と、凄まじい努力を重ねたスポーツ選手がいたとして。両者とも能力は互角だとして、どちらが評価されるべきかな?」
「それは……どちらも同じと評価されるべきでしょう」
「どうして?」
「能力が等しいのなら、出す結果も等しくなるからです」
「結果を重視するわけか。なるほど。楠木君らしいね」
でもね、と彼女が付け足す。
「人は誰しもそこまで割り切れるわけじゃないんだよ。大抵の人はね、楠木君。結果が同じなら努力している方を良く評価したがるものなんだよ」
そして、
「私は、確かに世間一般で見れば楠木君より優しくて正しいのかもしれない。でもそれは言うなれば生まれつきだし、何より自分のためなんだ」
「自分のため……」
そう、と頷く。
「自分がそうしたいからそうしている。自分が満足したいから、そうしているんだ。けれど、君は違うでしょ?」
違う。
「楠木君は、正しくありたいと思っている。優しくありたいと思っている。そしてそれを行動に移している。だから私は、自分よりも楠木君の方が尊いと思う」
「そんなこと、ないですよ」
まったくの勘違いだ。思い違いだ。というかこのお人好しは、どこまでお人好しなんだ。
仮に彼女の言う通り僕の方が尊いとして、しかしそれでもやはり、それを見抜き、認める彼女の方が正しいし、優しいのだと思う。
「でも……なかなか面白い話でした」
「ありがとう」
彼女が笑う。
「でもこの話、猫屋敷さんには秘密ね?」
「どうしてですか?」
面白い話だと思ったのは本当のことだ。そしておそらく、猫屋敷はこの手の思考実験が大好物のはずだ。
「だって猫屋敷さんが嫉妬したら嫌じゃない」
「嫉妬って……」
どうして猫屋敷が嫉妬するんだ?
「そりゃあ、だって、ね。彼女、君のことは誰よりも分かっていたいって思っているし」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」
何というか、意外だ。猫屋敷のことだから他人のことなんてどうでも良いものなのだと思っていた。
「そんなことないよ。というか、そんな人間そうそういないよ」
「そうでしょうか」
現に猫屋敷は自分のことを変人とまで言っているのだ。多少考え方が一般人と異なっていても別段不思議ではない。
「変人っていうのはあくまで自称だからね。猫屋敷さんって本当は普通の女の子だと思うよ」
「正気ですか? いくら何でも普通は言い過ぎでしょう」
「ううん」
彼女が小さく首を振る。
「普通の女の子だよ。普通の……恋する女の子」
「はあ……」
恋、ねえ……。猫屋敷に限ってそんなことはないと思うけれど。彼女はそういうのとは最も遠い存在に思える。
誰でも愛する博愛主義が野々宮さんなら、誰にも愛情を向けない利己主義が猫屋敷なのではないだろうか。
「博愛の対義語は偏愛じゃないかな」
「それだと誰かのことは好きになるっていうことですよね」
それはなぜか想像できない。誰かが猫屋敷にとっての特別になることなんてあるのだろうか。
「まあ、楠木君がそう思いたいなら良いけどさ」
言いながら、野々宮さんが購買部の壁に掛けてある時計を確認した。
午後四時半。随分話し込んでしまったようだ。彼女も部活に行く時間だろうし、僕もクルミさんを待たせてしまっている。
「私、そろそろ行かなきゃ」
「そうですね。僕もそろそろ行かなくてはいけません」
「じゃあ楠木君、張り込みの方、よろしくね!」
「野々宮さんも、部活、頑張ってください」
最後に野々宮さんは、太陽のような笑みとピースを残して、購買部を後にした。
さて。
僕も仕事に戻ることにしよう。
張り込みを開始してから約三十分が経過。未だ状況は変わらず。
あんぱんは食べつくされ、既に牛乳の残りも少ないだろう。僕のコーヒーにしても、まだ残ってはいるけれど、なくなるのは時間の問題だ。
「犯人、来ませんね」
「そうだね」
「私たちのことに気が付いたんでしょうか」
「どうかな」
完璧とは言えないまでも、僕たちの隠れているロッカーの陰は一応は死角になっている。
犯人が現れないということは、今朝の事件まででその目的が達成されたということだろうか。
……いや、まだ判断するには早いだろう。
犯行時刻は厳密には特定されていないのだから、もしかしたらもっと遅い時間に行われた可能性だってある。例えば、そう、下校時間である午後七時ギリギリとか。
「やっぱりそのパターンなのでしょうか」
「どちらにせよ、ここで待っていれば分かることだよ……ちなみに、下駄箱の中は確認したの?」
「勿論ですよ。今朝と同じ轍を踏むわけにはいきませんから。ホームルームが終わった後、ダッシュで来て確認しました」
「中身は何もなかった?」
「ええ。全部を確認したわけじゃありませんけど、被害に遭っている二年F組の下駄箱をいくつか調べましたから、大丈夫なはずです。それに何かしらの細工がされていたとしても、下校する誰かがもう気付いているはずですよ」
となると、あの下駄箱は今、完全に被害に遭っていない状態ということになる。
「もしくは先輩が言っていたように、何らかのトリックを使ったとか?」
「それはないと思うけど」
僕たちだけならばともかく、クラスの人間全てを騙すほどの巧妙なトリックなんて存在するわけがない。仮に存在するとしても、それほど大掛かりなトリックを施すのだからかなりの時間と隙を要するだろう。だが、そんなものは確実になかったはずだ。
それにしても……。
「先輩、何を考えているんですか?」
「犯人の動機を、ね」
何とも理解し難いのは、犯人の動機だった。
なぜ下駄箱にクッキーを配る必要がある。
何の得があるというのだろう。
「自己顕示欲を満たすためとか? 自分はこんなにお菓子作りが得意なんだぞっていうアピールです」
「そうだとしたら、クッキーが何の変哲もないというのは気になるね」
「そっか。そんな犯人なら、もっと凝ったものを作りますよね」
うーん、とクルミさんが首を傾げる。
それに、どうして犯人は須藤さんの下駄箱だけスル―したんだ?
一日だけなら入れ忘れたのかもしれないけれど、今日を含めて三日連続でそれはおかしい。
中に何かが入っていて物理的に入れられなかったとか?
「それはないと思いますよ。須藤先輩って、結構几帳面らしいですから」
「下駄箱は片付いているわけか」
「そういうことです」
では、考えられるのは精神的な理由か。
単純に考えるのなら彼のことを嫌っていたから、というものだけれど。
「でもそんなの、確かめようがありませんよね」
彼はイケメンだし、性格も良いようだけれど、しかし全ての人間に好かれているかと言えば、そんなことはないだろう。どうやったって合わない人間というのはいるものだ。そんな人間をことごとく疑っていてはキリがない。
それに須藤さんを嫌う人間が少数、極論を言えば一人だったとしても、その犯行方法が分からない以上、問い詰めるのは相当骨が折れるはずだ。相手がよほどの間抜けでない限り、不可能と言っても過言ではない。
つまりまとめるとこうだ。
「現行犯で捕まえるしか、手はない」
というわけで、張り込み続行である。
――張り込み開始から二時間三十分経過。下駄箱周辺に異常なし。
犯人どころか怪しげな行動をとる人間すら現れていなかった。
一応、念のため、生徒のいないタイミングを見計らって下駄箱の中身を確認してはみたものの、しかしやはり何の変化も見られなかった。
午後七時をすぎると生徒は下校しなければならない。学校祭前などならいざ知らず、何の理由もなしにそれ以降残るのは禁止されている。それはどんな部活、どんな委員会に所属していてもそうだ。
それでもギリギリまでは張り込みを続けようと試みてはみたものの、それは失敗に終わった。
教育実習生・河内雪菜に見つかってしまったからである。
「楠木君? 君、こんなところで何をしているの?」
「ああ、いえ、ちょっと探し物を」
「探し物?」
「そうなんです」
僕はすぐ脇のクルミさんを自分の体の前に引き寄せる。
「実は今しがた彼女とここでぶつかってしまって……コンタクトを落としてしまったようなんです。そうですよね?」
「え……ああ、そうです、はい。この先輩に探すのを手伝ってもらっていたんですよ」
よし。クルミさんは上手く合わせてくれるようだった。張り込みの相棒が彼女で良かった。これが猫屋敷や野々宮さんなら、こんな誤魔化しすら上手くいかなかったかもしれない。
「そう言う河内先生こそ、こんな時間までお仕事ですか?」
「ええ。今は校内の見回りね。もう遅いから、貴方たちも帰りなさい」
「分かりました」
「そっちの一年生の彼女は大丈夫? 一人で帰るのが無理そうなら、親御さんに連絡して迎えにきてもらうとか……」
「いえ! 全然平気です!」
と、クルミさん。
動揺しすぎだ。さっきは彼女が相棒で良かったと思ったけれど、前言撤回しなければならないかもしれない。
「本当に大丈夫?」
「予備の眼鏡があるので、大丈夫です」
「そう。なら良かったわ。じゃあ二人とも、早く帰るのよ」
「分かりました」
河内先生が背を向ける。
「ああ、先生」
「ん? 何?」
彼女がこちらを向いた。
「先生はいつもこの時間まで?」
「ええ。教育実習生って覚える仕事がたくさんあるのよ。それに、私は部活の手伝いにも行っているし」
「サッカー部ですよね」
「よく知っているわね……そういえば、昨日見学に来ていたんだったわね」
「ええ、まあ」
「須藤君と話していたようだったけれど」
「何てことない世間話ですよ」
「そう。サッカーに興味があるならいつでも入部すると良いわ。きっと皆、歓迎してくれるわよ」
「そうですね。考えておきます」
「部員が増えたら私も嬉しいわ。って言っても、教育実習の期間はもうすぐ終わってしまうけれど」
確か、彼女の教育実習の期間は今週一杯だったはずだ。
「先生はどうしてサッカーを?」
「友達に誘われたのよ」
「へぇ。お友達に」
「ええ。実はその友達っていうのが、須藤君のお姉さんなんだけれどね」
「不思議な縁というのもあるものですね」
「本当にね……さて、お話はもう終わり。早く帰りなさい」
「分かりました。ありがとうございます」
そう言って、僕たちは河内先生が去っていくのを見送った。
仕方がない。時間切れだ。
僕たちは最後に下駄箱を確認して帰ることにした。無論、異常なしである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます