―2―

 自称・変人との実にユーモラスな邂逅を果たした僕であったが、しかしそれから三日間、彼女と再び話すことはなかった。当然同じクラスだから顔を合わせることはあるのだが、ただの一度も、である。

 僕は休み時間はもっぱら読書をするか机に突っ伏しているかしていたし、猫屋敷さんもこれまでと変わらず読書をしたり窓の外を呆然と眺めたりしていた。

 要は、僕も猫屋敷さんもそれまでと変わらぬ日常を過ごしていたのだ(その間、野々宮さんは果敢にも猫屋敷さんと友達になろうと試みていたが、五回目の失敗を迎えていた)。

 しかし日常なんてものは実に不確かなもののようで、僕たちのそんな平和は、あっという間に終わりを迎えたのだった。


「あー、突然だが、お前らを取り調べなくちゃならなくなった」


 朝のホームルームが始まるや否や、升田先生がそんなことを言い出した。実に気だるげに。如何にも適当に。教室の誰よりも眠そうな顔だ。


「いやいや、言い方が悪かったな。まー、何だ、俺もまだ頭が回ってない」


 それはそうだろうな。見れば分かる。


「窓際の連中は窓の外を見ろ」


 言われるがままに、窓際のクラスメイトたちが一斉に窓の外を見る。何なら二列目も。猫屋敷さんだけが文庫本を広げたままだ。

 残念ながら僕は一番廊下側の席なので、視線だけを窓の方へ向けていた。


「窓の下だ。花壇が見えるだろう」


 花壇は校舎とほぼ隣接しているから、二年C組の教室が二階にあるとはいえ難なく見渡すことができるだろう。


「見たら分かると思うが、花壇が荒らされた。犯行時刻は昨日の夜から、今朝の早い時間だろうな。まあ、花壇の被害なんてたかが知れてるから、注意喚起だな。それから、何か知っている奴がいたら職員室まで来るように」


 以上だ、と升田先生が告げる。こんな感じで彼のホームルームは短い。野々宮さんの号令と共に、その日のホームルームは幕を閉じた。




 昼休みの日課はいろいろだ。

 教室でパンを齧ることもあれば、風が気持ち良い裏山で昼食を摂ることもある。食欲がなければ教室や図書室で本を読むことも多い。

 別に避けているわけではないけれど、人と話すのはかなり珍しいパターンだ。

 けれどもその日は、まさにそんなレアケースだった。

 僕は先程挙げた例にはなかったことを、具体的には裏山で読書をするという合わせ技である。そんな僕だけの空間に、入り込んできた存在があったのだ。


「楠木君、やっと見つけた!」


 そこには、野々宮美里が立っていた。

 だけど、という言葉は嘘だ。


「慌てて来たにしては息が切れていないし、わざわざ上履きから外用の靴に履き替えて来ている。ここには上履きのままでも来られる距離なのに」


 まあ、真面目な彼女らしいけれど。

 野々宮さんはイタズラめかして笑った。


「あはは、やっぱりバレてたか。って、今回は笑っていられる状況じゃないんだよ。私もワイルドカードを使わざるを得なかった」

「ワイルドカード?」

「情報屋だよ。今度、楠木君にも紹介してあげる」


 そんなことより、と彼女は続ける。


「猫屋敷さんが大変なんだって!」

「はあ」

「はあって……気にならないの!」

「いいえ、そういうわけじゃないですけど」

「じゃあ、何、またいつもの何でもお見通しで、猫屋敷さんが何でピンチなのか分かるって言うの!?」

「いや、そういうわけでもないです」

「ああ、もう! じゃあ、何なのよ!」

「ちょっと落ち着いて下さいよ。僕には状況は分かりませんけど、あの猫屋敷さんがピンチってことは、相当なピンチなんでしょう? そんな状態で、僕たちにできることなんて何もありませんよ」


 猫屋敷さんは、僕が言うのもなんだけれど、かなり頭が切れるだろう。状況の把握も、人心の掌握も、僕では何一つ敵わないはずだ。ここで僕が彼女の元に駆け付けたとしても、できることはないだろう。何なら足手まといでしかないなんてこともあり得る。

 僕は閉じかけていた文庫本を再び開こうとする。が、それはすぐさま野々宮さんによって取り上げられてしまった。

 流石の僕も顔を上げざるを得ない。


「そういうことじゃないでしょう。友達が困っていたら助けなくちゃ!」

「いや、そもそも僕と彼女は友達じゃありませんし」


 野々宮さんとさえもそうであるとは限らない。ましてやこの前の屋上での一件以外にろくに話をしていない猫屋敷さんならば尚更だ。


「つまり楠木君は猫屋敷さんを助ける理由がない、と?」

「平たく言えばそうですけど、何より助けること自体不可能かもしれないって言ってるんですよ」

「不可能でも、一緒にいてあげるだけでも良いじゃん!」

「それは友達なら、でしょう?」

「そんなことない! 楠木君、よく聞いて。人はね、一緒にいるから友達になっていくんだよ? 今の君は他人から逃げているようにしか見えない」


 逃げている? 僕が? いいや、そんなことはない。なぜなら、僕には逃げる理由はないのだから。


「ううん。違う。楠木君は怖いんだよね。人と仲良くなって、そして傷つくのが。もしくは傷つけるのが」

「そんなこと、」

「分かるよ! 私もそうだし!」

「野々宮さんも?」

「私だけじゃないよ。誰だって怖いんだよ。でもね、楠木君、それでも前に出なくちゃ、誰も救えない。だからさ……」


 彼女が勢いよく頭を下げる。


「お願いします。猫屋敷さんのことを、助けて下さい!」


 僕が猫屋敷さんを助ける理由はない。友人でもなければ借りがあるわけでもない。それに僕は野々宮さんのようなお人好しにもなれない。

 しかし、それは、対象が猫屋敷さんの場合だ。

 今目の前にいる少女――野々宮美里さんは僕のクラスの学級委員長だ。そんな彼女が僕に頭を下げている。

 ……ああ、もう。

 僕は右手の文庫本をパタリと閉じた。


「分かりました。お話を伺いましょう」


 本はいつでも読める。それに僕は基本的には、権力者には逆らわない性格なんだ。

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