―1―

「ちょっとした思考ゲームをしようか」


 猫屋敷さんがすっと右手を差し出す。彼女の右手は固く握られていた。


「この手の中にあるものを当てたまえ」

「その行為に何か意味はあるのかな」

「いいや、深い意味はないよ、ただのゲームさ。まあ、そうだね……」


 そして彼女は静かに両手を広げる。


「それじゃあ、こういうのはどうかな。君が勝ったら目当ての物を渡そう。逆に、もし私が勝ったら、このまま帰宅部を続けさせてもらう」

「はあ……目当ての物?」

「入部届けさ」


 升田教諭から言われて来たんだろう? と、付け加える。

 それが分かっているのならゲームなんてやらずに渡してくれれば良いのに。

 しかし、隣にいる野々宮さんは得心がいっていないらしく、首を傾げていた。


「猫屋敷さん、どうして私たちが升田先生に言われて来たことが分かったの?」

「私は別に君に話していないよ、野々宮さん」

「えー、そんな釣れないこと言わないでよー」


 なるほど、これは話が通じないわけだ……というより、野々宮さんが一方的に相手にされていないだけか。それもそれで憐れな話に思えるけれど。

 猫屋敷さんが僕たちの目的を知ったのは簡単だ。彼女は事前に升田先生に入部届けの件で勧告を受けていた。加えて彼女が屋上にいるということを知っている人間は、升田先生くらいしかいないのだろう。つまり猫屋敷さんを探して屋上にやってくる人間は、升田先生に居場所を聞いてきたことになるのだ。

 野々宮さんが納得したように手をポンと打つ。


「ああ、なるほど。そういうことかー」


 本題に戻ろう。

 僕はもう一度目の前の少女に目をやる。


「僕は君の手の中にあるものを当てれば良いんだね?」

「そうだよ。まあ、実際には何も持ってはいないけれど、そこは思考ゲームだからね。代わりに私は君の質問に何でも答えるよ。ただし、イエスかノーかで答えられる質問だけね」


 なるほど。いわゆる“ウミガメのスープ”ってやつか。

 その手の思考ゲームには経験がある。解き明かすコツは確か、前提条件を疑ったり見方を変えたり、あるいは対象を変更したり……だったかな。

 僕は頭の中で彼女が出した問題の内容を復唱する。

 ――この手の中にあるものを当てたまえ。

 前提条件から疑うとすると、まず右手に収まるものなのか、という点が気になる。彼女はこれが思考ゲームだから実物は手の中に入っていないと言っていたから、実は手に収まらないモノという可能性もあるだろう。

 それに見方というのはともかくとして、対象を変更しても成立するのか。つまりそれが右手ではなく左手でも成り立つのかどうか。

 僕は質問することにした。


「それは右手に収まるモノですか?」

「イエス」

「それは右手ではなく左手でも成立しますか?」

「イエス」


 と、いうことは彼女の言う通り、いや、文字通りと言うべきか、とにかく今猫屋敷さんの右手に握られている(ということになっている)モノは、本当に掌に収まるくらいに小さな物体ということになる。

 続けて尋ねる。


「それは固体ですか?」

「イエス」

「それは学校に普通に置いてありますか?」

「イエス」

「それは普通教室にありますか?」

「ノーだ」


 それならば普通の文房具などということはない、ということになる。特別教室も片っ端から挙げていけば彼女が握っているモノがどこにあるのかを特定することはできるだろうけれど、しかしそれはあまりに途方もない作業になるだろう。


「それはお店で……スーパーで買えますか?」


 そう尋ねたのは野々宮さんだった。どうやら彼女もこのゲームの趣旨を理解したらしい。


「イエス」


 猫屋敷さんも野々宮さんと話す気がないとか言いながらも、彼女がゲームに参加するのは認めるらしい。まったく、よく分からない人だ。


「それじゃあ……それはコンビニで買えますか?」

「イエス」

「うーん。実際にお店に行ってみれば分かるのかな」


 野々宮さんがそんなことを言い出した。その提案は、あくまで最終手段だな。

 それに、これはあくまで思考ゲームだ。つまり逆に言えば思考だけで答えに辿り着くことができるということだ。僕は走るのは必要ならば厭わないけれど、しかしできることなら避けたがる性格だ。誰だって疲れることは避けたいだろう? だから僕は考えることにした。

 野々宮さんが続けて尋ねる。


「それは食べることができますか?」

「イエス」

「それは美味しいですか?」

「どちらとも言えないね。というか、それは好みの問題だろう?」


 確かに。

 彼女は続ける。


「それは冷たいですか?」

「ノーだ」

「それは温かいですか?」

「それもノーだね」


 ということは、そのモノは常温ってことになるのだろうか。

 片手に収まる常温の固体。食べることができる。スーパーやコンビニで売っている。普通教室にはないが学校にはある。

 野々宮さんも分からないようで、首を傾げていた。

 屋上を照らしていた夕陽は既に沈み、辺りは暗くなり始めている。今後の予定はないにしても、そろそろ帰りたくなってきた。

 と、いうより、そもそもこれは僕がやるべきことなのだろうか。たとえ猫屋敷さんが入部届けを出さなかったとしても、僕が困ることは何もないのだ。ならばこんなゲームに付き合う必要もないはずだ。

 ここで帰ることはできる。

 できるけれど。しかしその時猫屋敷さんはどんな表情をするのだろうか。

 ……きっと勝ち誇ったように嘲笑うに違いない。

 何というか、それは避けたいな。普段ならば誰にどんなことで負けても動じない僕であるけれど、不思議なことに今回に限っては違った。素直に悔しいと思った。それは相手が猫屋敷さんだから? それとも勝負の内容が思考ゲームだから?

 どうだろう。僕は思っていた以上に自分のことを分かってはいないようだった。

 しかし、まあ、僕がここで帰ると言い出した場合、もう一つだけ起こり得る事態を予測することができる。

 きっと野々宮さんが文句を言ってくるのだ。彼女は僕以上に負けず嫌いに思える。と、いうより、勝負に対して真摯なのだろう。正々堂々と行われた勝負であれば負けても構わないが、勝負を放棄したり汚い手を使ったりすることは嫌悪していそうだ。

 つくづく、真面目なお人好しである。

 そういえば、野々宮さんは升田先生により、猫屋敷さんの召集か、あるいは入部届けの入手を命じられているのだった。そしてそれは僕が手伝いを請け負った仕事でもある。事の成り行きとはいえ、何とも面倒なことに巻き込まれたと思うのと同時に、僕は僕自身が果たすべき責任を見つけた。

 もはや言い逃れはできまい。

 理由は見つかった。ならば、考えよう。

 猫屋敷さんの手の中にあるもの――それは、おそらく普通の物体ではない。


「どうしてそう言えるの?」

「普通のモノだったら、ゲームにはならないからだよ。彼女の性格を考えると何か変わったモノだろうね」


 変わったモノ、それでいて、普段から僕たちが目にするものだ。僕たちが到底名称を知らないモノを出題したとして、それは流石にアンフェアだ。猫屋敷さんはそんなことをしない。あまり良く思っていない野々宮さんの質問にすら答えたのだから、猫屋敷さんも猫屋敷さんなりにフェアにゲームに臨んでいるはずだ。

 僕は尋ねる。


「それは食べ物ですか?」

「ノー」

「あれ?」


 と、言葉を発したのは野々宮さんだ。


「でもさっき、食べることができますかって訊いたらイエスって」

「それは可能か不可能化の質問ですよ。僕が訊いたのは、それが食べることを目的としているのかどうかってことです」


 極論を言えば、そこらに落ちている土やら落ち葉やらも、食べる気になれば食べられるだろう。

 そして猫屋敷さんは僕の質問にノーと答えた。つまり、彼女が持っているモノは食べる気になれば食べることができるが、しかし普通に暮らしていてまず口にすることのできないモノ、ということになる。

 ……いや、そうじゃないだろう。

 彼女はそれがスーパーやコンビニで売っているモノだと答えた。ならばそれは土や落ち葉なんかの自然物ではない。おそらく人工物だろう。それでいて片手に収まるモノ。学校にはあるけれど普通教室にはないモノ。

 ふう。落ち着け。何も“食べられない”というのが、衛生面や味覚の問題で不可能ということだけではないだろう。ということも考えられる。

 物理的に食べられないモノ……固体ではなく気体や液体?

 しかし、それはどうだろう。彼女は固体かどうかという質問に対してイエスと答えたんだった。

 ……前提条件に騙されてはならない。

 念のため訊いてみよう。


「それは気体ですか?」

「ノーだね」

「それは液体ですか?」


 猫屋敷さんがニヤリと笑う。

 そして答えた。


「イエス」

「ええっ!?」


 野々宮さんが思わず声を上げる。まあ、その気持ちも分からなくはない。前に固体かと訊いてイエスと答えられているのだから。

 けれど、これで全てが繋がった。


「どういうことかな、楠木君」

「固体であり液体でもあるってことですよ」

「半固体ってこと? スライムみたいに」

「いいえ、違います。文字通り、固体であり液体でもあるんですよ」

「それって矛盾してない?」


 しているけれど、しかしこれは簡単に解決する矛盾なのだ。


「全能者のパラドックスって知っていますか?」


 全能者がいたとして、彼は誰にも持ち上げられないくらいに重い石を作ることはできるのか? というものだ。

 もし石を作ることができるとして、その石は誰にも持ち上げられないくらいに重いわけだから、全能者は全能ではないということになる。

 ならばそんな石は作れないとすると、今度はその時点で全能者は全能ではない。

 こうしてどうやっても矛盾が生まれてしまう、というものだ。


「その話なら知ってるよ。でも、それが今回の問題とどう関係しているの?」

「じゃあ、野々宮さんはこのパラドックスの解決方法を知っていますか?」


 彼女がさらに首を傾げる。


「解決できないからパラドックスなんじゃないの?」

「いいえ、これには解決方法があるんですよ」


 もっとも、それは一説であって必ずしも絶対的な回答だというわけではないのだけれど。


「全能者は、作った時点では誰にも持ち上げられない石を作ることができます。しかしそれと同時に全能者は全能ですから、後からいくらでもその石を軽くすることができます。これなら全能者が全能であるまま、矛盾を解消することができるわけです」


 ふむふむ、と野々宮さんが頷く。

 僕は解説を続けることにした。


「これと同じことが今回の猫屋敷さんの問題にも言えるんですよ」


 要は、初めは固体、その後に液体になったということだ。これならば固体であり、液体でもあったことになる。矛盾は発生しない。

 そして、固体から液体に変わり、かつ食べられるが食べ物ではない、そしてスーパーやコンビニで売っているモノ――答えはもう明白だろう。

 僕は猫屋敷さんの方を見直す。


「猫屋敷さん、貴女が持っているモノは氷でしたね? 今は溶けてしまって、水になっているようですけれど」


 水になったのなら、それは冷たくもなく温かくもない、常温なわけだ。

 そしてこの問題は実物を持っていないからこそ成立する問題でもある。氷をずっと握りしめているのは大変だし、溶けた水が垂れてくるかもしれない。

 なるほど。思考ゲームとはよく言ったものだ。


「ふふ……」


 見ると猫屋敷さんは右手を口に当て、俯いていた。

 そして彼女はすぐに顔を上げた。


「正解だ。私の負けだよ、楠木君」


 彼女の表情は、眩しいくらい素敵な笑顔だった。

 まったく、そんな顔ができるのなら普段からそうしていれば良いのに。

 思わずドキリとしたのは、僕だけの秘密にしておこう。


「まったく、こんなに良いとも悪いとも言える日は初めてだよ」

「はい?」

「『マクベス』さ。君は芸術には疎いのかな」


『マクベス』のタイトルくらいは知っている。シェイクスピアだ。だけどその内容までは把握していなかったのだから、疎いと言われても仕方がないのかもしれない。

 彼女がつかつかとこちらに歩み寄ってくる。

 そして僕たちの前に立つと、ポケットから四つに折られた紙を取り出した。


「目的のものはこれだろう、野々宮さん。君から升田教諭に渡しておいてくれたまえ」


 猫屋敷さんはそれだけ言うと野々宮さんに紙を手渡し、僕と彼女の間をすり抜けて屋上を後にした。

 僕と野々宮さんは一度顔を見合わせた後、彼女は四つ折りの紙を開いた。


「入部届けだ」


 と、彼女が呟いた。

 何より意外だったのは、その内容、というか猫屋敷さんが入ろうとしている部活だ。


「園芸部って……」


 希望する部活の欄には、そう書かれていた。

 何だか猫屋敷さんには似合わない。そう思ったのは野々宮さんも同じようで、僕たちは同時に笑ったのだった。

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