―6―

 体育館へと続く渡り廊下。その手前に階段がある。屋上へと続く階段だ。僕はその階段を上る。

 踊り場の窓から夕陽が差し込んでいる。西日が暑い。

 踊り場を抜けると屋上への扉が現れる。

 不意に、影が二つに分かれた。

 僕のすぐ隣に――猫屋敷綾が出現した。彼女が口を開く。


「懐かしいね、この学び舎も」

「そうだね。ここから全てが始まった」


 そして、一人の女の子が終わった場所でもある。

 僕はドアノブに手をかける。……開かない。施錠されている。


「近い過去に生徒が自殺したんだ。当然の計らいだろうね」


 自分でそれを言うのか、という気持ちはさておき、おそらく猫屋敷が言う通りだろう。もっとも、彼女が自殺する前に――そこから飛び降りる前に、施錠されていなかったということの方が、些か異常なことだったのかもしれない。

 仕方がないので僕は階段の踊り場まで戻り、窓を開けた。

 西日はやはり暑いが、しかし気持ちのいい風も入ってくる。

 僕は窓のある壁に体重を預け、その外に目をやる。

 そこから見えた景色は、僕がかつて屋上で見ていたものに近いもので、丁度その方角にある街並みが一望できた。記憶と違っていなければ、その逆側と左側には裏山の一端が、右側には遠くに川が見えるだろう。


「この景色を見ながら、僕たちは出会った」

「私が初めに何て言ったか覚えているかい?」


 当然だ。忘れるわけがない。

 いや、もしかしたら、僕は彼女の発した言葉を一言一句、全て覚えているのかもしれない。それほどまでに彼女の言葉には“重さ”があったし、また彼女の存在感も強かったのだ。

 あるいは、独特のカリスマ性を持っていた、と言ってもいいのかもしれない。もしくはただ単に最初から僕が彼女に惹かれていたのか。

 とにかくこの猫屋敷綾という少女の言葉に、僕は傾聴せずにはいられなかった。それは彼女が幽霊となった今でも変わることはない。


「こんなに良いとも悪いとも言える日は初めてだ……君はそう言ったんだ」

「私にとっては衝撃的な出会いだったからね。『マクベス』第一幕の言葉を引用させてもらった」


 言いながら、少女は僕の背中に自身の小さな背中を預ける。

 軽いな、と僕は思った。それに温かさも感じない。

 彼女が幽霊だから? いいや、違う。

 猫屋敷綾という少女は生前から体重が軽かったし、体温も低めだった。僕は彼女を抱き上げたこともあるし、手を握ったこともある。だから分かるのだ。

 猫屋敷綾は、あの頃から何一つ変わってはいない。

 性格も。体格も。髪形も。彼女を形成する条件は、何一つ変わってはいないのだ。ただ単に、僕以外の人間には見えなくて声も聞こえなくて、存在を認識することができないだけだ。

 それは、とても素晴らしいことだと僕は思う。

 誰にも察知されない、僕にしか感じ取れない、ということはつまり、彼女の全ては僕の――僕のものだということだ。好きな女の子を独り占めできるなんて、幸せの限りではないだろうか。

 少女が続けて口を開く。


「そうだね……悪いと思った理由は、君に名探偵の素質があったことだ。それまで私は自分の推理力にそれなりの自負があったんだがね、君を前にして自分の才能のなさを痛感したよ」

「それじゃあ、良いと思った理由は?」

「君に出会えたことだよ、楠木君」


 ふっと彼女の背中が僕から離れる。

 僕は振り返った。

 と、同時に彼女はクルリと回る。まるでワルツでも踊っているかのように、鮮やかに。スカートと髪の毛がふわりと舞い、重力に従って纏まる。そして、彼女は僕と顔を合わせた。どこかイタズラめかした、そんな表情だ。


「私はその瞬間、恋に落ちたんだ。世界中の誰よりも君のことが好きになった。これだけは言えるよ。君に対する愛情の大きさは、私は世界中の誰にも負けるつもりはない」

「それは僕も同じだよ、猫屋敷。僕も君を愛している。世界中の誰よりも」


 きっとこんな感情を抱く相手は、僕の今後の人生で一人も現れないだろう。

 彼女はふふ、と小さく笑った。その笑顔は夕焼けに照らされ、まるで幻想なのではないだろうかという美しさを放っていた。


「それはさておき、楠木君」


 と、猫屋敷。


「例の美術部員の話、どう思う?」

「情報が少ないからまだ確証は持てないけれど、一応、仮説はあるよ」

「ほう。是非とも聞いてみたいね」

「それは良いけれど、どちらかと言えば君は、僕が推理小説の探偵役よろしく登場人物全員の前で大見栄を張るのを楽しみにしているんじゃなかった?」

「それもそうだね。では、楽しみは後に取っておくことにしようか」


 僕も、確信を得てから話したいし。


「それはそうと、猫屋敷」


 と、今度は僕の方から切り出す。


「君は渡嘉敷さんと面識があったそうだけれど」

「ああ、そのことか。うん、そうだよ。いわゆる幼馴染というやつだ」

「そんなこと一言も言っていなかったじゃないか」

「わざわざ話すことでもないし、それに名前を聞くまで私もすっかり忘れていたんだから仕方がない」

「でも僕は、君の全てを知りたいんだ……わがままかな?」


 僕が尋ねると、少女はクスリと笑ってみせた。


「まったくわがままなんかじゃないよ、楠木君。私は嬉しい。……分かった。今後はきちんと伝えることにするよ」

「ありがとう」

「その代わり、君もあまり他の女の子と仲良くしないように」

「僕はそんなことしないよ」

「どうかな。例えばあの双子とかね」


 炎氷姉妹リバース・シスターズ。僕のことを敵と認識している双子の姉妹。

 けれど僕は別に、善意や好意で彼女たちの挑戦を受けたわけじゃない。


「あの二人はかつての僕だよ」

「君はあの二人ほど無能ではないだろう?」

「さあね。総合的に見れば確かに僕の方が上なのかもしれないけれど……でも、部分部分で見れば、僕は彼女たちには勝てないよ」

「そうだとしても、いや、それなら尚更、君が彼女たちと似ているとは思えないけれど」

「違うよ、猫屋敷」


 彼女たちはかつての僕と似ている。

 あの双子は勝つために勝ちたがっているのだ。

 誰かを守るためでもなければ、誰かに認められるためでもない。ただ自分自身のために、勝利を求める。僕はその姿に、かつての――中学時代の僕を重ねられずにはいられない。

 ただ謎を解くために解きたがっていた、自分の姿を。

 それは大きな間違いだ。猫屋敷の言う名探偵とは、全く違うものだ。

 それを気付かせてくれたのが、野々宮美里であった。

 ならば、それは今度は僕の番だ。

 力のために力を求めたのでは、意味がないのだ。それをあの双子は、まだ知らない。


「なるほど、君らしいね」


 少女が少し俯く。

 ――君は優しすぎる。

 小さく、言った。少女が。

 どういうことだと言及する前に、猫屋敷は消えていた。

 まったく。気まぐれなところも変わってはいないな。

 僕は携帯電話を取り出す。

 そして通話履歴の一番上の人物――枢木胡桃の名前を選択した。


「ああ、クルミさん? まだ学校にいるかい? ……ちょっと調べ物を頼みたいんだけれど」


 調べて欲しいことを並べ、電話を切る。

 僕の推測が正しければ、上堂さんからの依頼は明日にでも解決するだろう。

 それにしても、と僕は再度窓の外に視線を向ける。

 この景色を見るたびに、思い出す。

 いや、その景色を見ていない時だって、脳裏にフラッシュバックする。

 少女が最後に僕に見せた背中。僕にはそこに翼があるように見えた。

 そして少女は両手を広げ、空を見ながら言ったのだ。


「君には才能がある。名探偵になりたまえ」


 そして――


「――私の自殺の理由を、解き明かしてみたまえ」


 そう言った直後、まるで風に吹かれたように、少女の体が浮かび上がり、一瞬にして視界から消えた。

 ただ虚しく、伸ばした僕の両手が空を切っていた。

 それは、ある夏の日の幻想だったのかもしれない。当時の僕はそう考えようともしたな。

 しかし、現実は非情だ。

 猫屋敷綾は自ら命を絶った。

 自殺の動機という、最大の謎を残して。

 僕は心に、いや、猫屋敷という一人の少女に誓った。

 必ず、全ての謎を解き明かすことを。

 だから僕は今日も、そして明日からも謎に立ち向かっていくのだろう。

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