―4―
「遅いぞ、楠木真!」
習志野中学校門前。
腕を組み、仁王立ちする少女が一人。
僕はそのジャージ姿にポニーテールの少女を前に、口を開く。
「時間には遅れていないよ、葉住さん」
「おお! そうだった! じゃあ……時間ぴったりだな、楠木真!」
事実そのままじゃないか。
そんな彼女の隣でもう一人の、真っ白なマフラーを身に付けたツインテールの少女が溜め息をつく。
「……わざわざお越しいただき、すみません」
「いや、大丈夫だよ」
「……そうですか。それと、一つだけお願いがあります」
「お願い?」
「……私たちのことは氷乃、花火と下の名前で呼んでください。苗字で呼ばれるとややこしいので」
「分かりました。では氷乃さん、僕たちはどうしてここに呼ばれたのでしょう?」
「その説明は私がするぜ!」
花火さんが一歩前に出る。
「実はな、私たち
「依頼?」
と、渡嘉敷さんが首を傾げる。
そういえば、この葉住姉妹は“解決屋”と呼ばれているんだった。
「そうそう。謎解き? っていうのかな! とにかく、ある相談が来てるんだぜ!」
「……楠木真、貴方にはその依頼を私たちと一緒に受けてもらう。そして、早く解決できた方が勝ち、ということでどうですか?」
なるほど。要は競争しよう、ということか。
「けれど、君たちがその依頼人とグルになっていないという保証は何もないよね」
「そいつは信じてもらうしかねーな!」
「……ただ、そんなことをして勝っても、私たちが上だという証明にはならない」
それはそうか。
「分かりました。では、勝負の方法はそれで」
花火さんがニヤリと笑う。
「よっしゃ! じゃあ、付いてきな。案内するぜ!」
そして、あっという間に走り去っていった。どうやら、彼女は“案内する”という言葉の意味を知らないらしい。が、まあ、大丈夫か。ここには妹の氷乃さんが残っている。彼女は一つため息をつくと、僕たちに付いてくるように言って歩き出した。僕と渡嘉敷さんがその後に続く。
僕は校舎に入る前に、渡嘉敷さんに耳打ちすることにした。
「あの、渡嘉敷さん」
「何でしょう?」
「中に入ったら、何か嫌な思いをするかもしれませんが、我慢してください」
彼女の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。それもそうか。
「前にも言いましたけれど、僕はこの中学の人間にはとことん嫌われているんです。あの頃の生徒はもう残っていませんけど、まだ教師はいると思うので」
僕がこの中学を卒業してから二年。中には転任した先生もいるだろうけれど、しかしそれでもほとんど顔ぶれは変わらないだろう。彼らに見つかっては、嫌味の一つでも言われかねない。
「私は大丈夫ですよ。過去の楠木さんはともかく、今の楠木さんがとても優しい人だと分かっていますから」
過度な期待、あるいは妄想と言っても良いのかもしれない。僕は優しくなんてない。だけど、まあ、余計に気負われるよりはマシか。
僕たちは生徒玄関に入る。
過去の記憶と比べて変わったところはほとんどないはずなのに、どこか懐かしく感じた。
と同時に、ありとあらゆる物が、こんなに小さかっただろうか、と思えてしまう自分に、何だか時間の流れというものを感じた。
匂いも、色も、風の流れも、何一つ変わってはいないのだろう。変わったのは、きっと僕だ。僕自身だ。
――僕は自らの過去を回想する。
つまらない授業。
一人の女の子との邂逅。
あの夕焼けの元で語り合った言葉。
発生した事件と、それに対する僕のアンサー。それを賞賛する彼女。
自分の気持ちに気が付いたあの冬と、大切なものを失ったあの夏。
その全ての記憶は、この習志野中学に集約される。
希望も絶望も。
好意も嫌悪も。
本音も虚言も。
今、僕を形作っている全ての事象は、きっと、ここに――ここでの思い出に繋がっているのだ。
「どうかしましたか、楠木さん」
「いや……ちょっと、懐かしいと思ってね」
懐かしい。
そう思えるということは、少なくとも僕だけは、僕自身のことを許せた証拠なのかもしれない。
下駄箱を通り過ぎ、僕たちは中学の校舎内を進む。
放課から大分時間が経っているせいか、生徒の姿はほとんど見かけることはない。部活に行っているか、あるいは既に下校したのだろう。どこからか吹奏楽部の楽器の音色や、運動部の掛け声が聞こえてきている。
廊下を進み、階段を上る。この先には特別教室が集まっていたはずだ。
角を曲がったところで、ぬっと人影が現れた。
「よぉう。誰かと思えば、楠木じゃねえか」
目の前に現れた長身の男が、そう言った。
男の身長は190㎝はありそうではあるが、しかし猫背のために実際よりも小さく感じてしまう。細長いシルエットに、もじゃもじゃとした頭、煙草の臭いが染み込んだ白衣を着ているその男には、見覚えがあった。というか、僕がここに通っていた時とまるで変ってはいない。
「
僕がそう言うと、
升田幸一。理科教諭。化学部顧問。「俺は頭が悪いからな」が口癖の、冴えない中年男性だ。
面倒くさがりというか、考え方も他の教師陣とはかなり変わっていて、職員の間では変わり者ともっぱらの評判だ。
しかしながら、あの人を否定してばかりの猫屋敷が認めた数少ない人間の一人であり、何より僕や彼女の良き理解者でもあった人間でもあった。
「お前さぁ、たまには顔出せよ。卒業してから、一回も来てねえだろ」
「そうですね。すみませんでした」
「わかりゃ良いんだ。そんで、今日はどうした。誰か先生に金でもせびりにきたのか? 言っとくが、俺は一文も出さねえぞ。昨日、パチンコですったばかりだ」
「そこまで金銭的に困ってはいませんし、仮に困っていたとしても、他人に金をせびったりはしませんよ」
「はん。どうだか。お前は昔っから人の弱点を見つけるのだけは上手かったからなぁ。いや、この場合は弱味か。脅迫の一つ二つしていても、まるでおかしくはねえ」
金をせびったことはないけれど、確かに脅迫じみたことは何度かしたことがあるから、返す言葉がないな。
「まあ、どんな目的があろうと、先生方に用事があるってんなら無駄だぞ」
「どうしてです?」
「今は、職員会議中だからだ」
なるほど。それならば逆に好都合だ。ここにいることを咎められることがなければ、嫌味の一つも言われることもない。
しかし。
「その理屈では、升田先生もここにはいないはずですけれど」
「良いか、楠木、一つ教えといてやる。この世の会議なんてものはなぁ、八割は無駄なものなんだ」
「はあ」
「会議ってのは責任の在り処をはっきりさせるためにある。要は、責任の擦り付け合いだ。まったくもって面白くねぇ。そう思わねえか?」
「単に升田先生が面倒がっているだけでは?」
「けっ。相変わらず可愛くねえガキだ」
升田先生は、こうやって繕わずに話すことが多い。だからこそ、僕と完全に敵対せずに済んだ人間でもある。僕がどれだけ彼の弱味を握ったところで、推理したところで、「ふーん。それで?」と返すような、むしろダメなところが多すぎて、弱味にもなっていないような、そんな男が彼――升田幸一であった。
「まぁ、何でも良いんだけどよぉ」
チラリと、僕の横に並ぶ渡嘉敷さんを見る。それから葉住氷乃さんも。
「両手に花ってのは、ちょいとムカつくな」
「そんなんじゃないですよ」
「ああ、そうだよ。お前はいつだってそう答える。あーあー、嫌だ嫌だ。自分がモテるって自覚のない奴は」
完全に
……いや、どうかな。彼の軽口は今に始まったことではない。
「それはさておき」
彼は言って、再び氷乃さんに目を向ける。
「葉住妹、お前、また面倒を起こそうってわけじゃねえだろうなぁ?」
「……」
「勘弁してくれよ。お前ら姉妹が何かやらかす度に、担任の俺が上から小言言われるんだからよぉ」
「……私たちは、正義を執行しているだけです」
「正義ねぇ」
升田先生は、懐に手を伸ばす。そして、白衣の内ポケットから、煙草を取り出し、咥える。ライターを顔の前に持ってきた。
生徒の目の前だろうと校舎の中だろうと構わずに煙草を吸うのは、彼の悪い癖だ。
「お前らがやってるのは正義なんかじゃねぇよ」
「……どういうことでしょうか」
彼は白衣の、今度は外に付いているポケットから携帯灰皿を取り出す。蓋を開け、煙草の灰を落とした。
煙を吐き出し、続ける。
「不良高校生を再起不能にするのが正義か? ちょいとストーカーをしていた奴に、女性恐怖症になるほどのトラウマを植え付けるのが正義か?」
「……正義です。現に被害者からは感謝の言葉を受け取っています」
「感謝されることが、必ずしも正義ってことはあるめえよ」
「……じゃあ、先生は一体何が正義だとお考えなんですか?」
「そんなもん、俺が知るかよ。俺ぁ頭が悪いんだ。その答えは、そこにいる楠木にでも訊くんだな。お前の先輩だ。良くも悪くも、な」
「……現在
「敵対関係だぁ?」
升田先生が、こちらに視線で尋ねてくる。僕は首肯をもって、氷乃さんの言葉を肯定する。
「あのなぁ」
升田先生は、さらに頭を掻きながら続ける。
「悪いことは言わねえから、止めとけ」
「……先生も、人は皆仲良くすべきだ、とでも言うつもりですか?」
「俺はそんな下らねえことは言わねえよ。人間、合う合わないってのはあるもんだ。ただ、そいつ――楠木だけは別だ」
「……なぜでしょう」
「相手にならねえから、止めとけってことだ」
そう言って、彼は煙草を灰皿に押し付けた。まだ長い煙草を消してしまうのは、彼が生徒に何かを本気で伝えようとしていることの証拠である。
「……私たちは天才です」
「そうかもな。だが、それは中学生レベルの話だ」
「……大人にだって、通用します」
「そりゃあ、そいつらが馬鹿で薄ノロなだけだろ。楠木は違う。そいつは、マジな天才だ。天才の中学生と天才の高校生が戦ったら、どっちが勝つかなんて明白だろう?」
そこまで言われると、僕としても何だかやりづらい。僕としては勝とうが負けようか、関係のない話だと思っていたけれど。
「ほら、そいつの面ぁ見てみろ。自分にゃ勝負なんざ関係ねえ、みたいな面してやがる。昔っからそうだったぜ。こいつは対戦相手を対戦相手とも思っちゃいねえんだ」
そして尋ねる。
「なあ、楠木よ。お前さん、何か策があるんじゃねえのか?」
「と、言いますと?」
「具体的にはさっぱり思い付かねえ。けどお前のことだ。勝っても負けても大丈夫なように、何か考えてんだろ」
「それは……」
「隠さんで良いぞ。むしろ葉住姉妹との勝負が始まる前に言っちまった方が、合理的なんじゃねえのか?」
「……」
全て見透かされていた。相変わらず、この妖怪は侮れない。
全て話した方が合理的、か。確かにそうかもしれない。事実m中学時代の僕ならば真っ先にその行動をとったであろう。しかし、今は違う。ただ相手を打ちのめせば良いというわけではないことを、今の僕は知っている。
ましてや今の葉住姉妹は、昔の僕そのものだ。誰かが、どこかで正しい道を示さなくてはならない。僕の時の野々宮さんのように――今度は、僕が。
「はーん。なるほどな」
何か納得したように、升田先生は頷き、歩き出す。すれ違う。そして、僕たちに背を向けたまま、言った。
「成長したな、楠木」
振り返ると、彼は手をひらひらと振りながら、去っていってしまった。
「……相変わらず、訳の分からないことを言いますね」
と、氷乃さん。
「さあ、どうかな。君にもいつか分かる時が来るんじゃないかな」
僕の言葉に氷乃さんは答えず、升田先生が進んだのとは逆の方向に、歩き出していった。
僕と渡嘉敷さんは、彼女の後を追った。
「遅いじゃないか! 楠木真!」
幾つかの特別教室の前を通り過ぎ、美術室の前まで来ると、そこには葉住花火が待っていた。仁王立ちで。何だろう。彼女は立っている時は常に仁王立ちなのだろうか。
「……途中で升田に捕まった」
「何と! そいつは大変だったな!」
こんな二人からでさえ厄介者扱いされているのか、升田先生は。何だか少し気の毒に感じてきた。
「さてさて、楠木真! 目的地はここだぜ!」
そう言って、彼女は勢いよく美術室の扉を開ける。
美術室には制服の上にエプロンを付け、何やら絵を描く作業中の女子生徒が一人いた。
僕は名前を名乗ることにする。
「初めまして。僕は楠木真と言います。依頼があると聞いてやって来ました」
「あっそ。帰って良いよ」
おそらく美術部員である少女の、そっけない一言により、今回の事件は幕を開けたのであった。
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