―3―

 私がアヤちゃんと出会ったのは、もう十年も前になります。

 ……ええ。当時の私はまだ日本にいましたから。その次の年にはもうイギリスに行っていまうわけですけど……でも、その頃のことはとてもよく覚えています。

 ――人間は、なんて美しいのだろう。

 彼女はそう言ったんです。そう、話しかけてくれたんです。……はい。シェイクスピアの『ハムレット』に登場する名言ですね。

 私がその台詞がシェイクスピアのものだったと知るのは随分後のことですけど、今にして思えばあれが私がシェイクスピアに興味を持つことになったきっかけだったと思います。

 当時六歳だったアヤちゃんがシェイクスピアを引用したというのは、確かに彼女らしいですね。

 話を戻しましょう。

 当時の私は一人でいることの多い子供でした。

 友達を作るのが苦手、というか、その必要性を見出せずにいました。

 ……ええ。彼女のおかげで、私は友達の大切さというのを学びました。ですから、今では人との縁を、とにかく大事にするようにしています。

 とにかくそんな、孤独だった私に、アヤちゃんは話しかけてきたんです。

 私たちはすぐに仲良くなりました。どうしてでしょうね……彼女にはそういった不思議な魅力があったのかもしれません。

 それから私たちは一緒に遊ぶというのとは少し違いますけど、でも、多くの同じ時間を過ごしていたと思います。楠木さんには負けるかもしれませんけど。

 え? 六歳の頃の彼女が想像できない?

 ふふっ……とってもかわいかったですよ。

 そしてある時、私たちは約束しました。

 ――私たち、一生友達でいようね!

 ――どうかな。私は結構忘れっぽいんだ。けれど、まあ、もし君のことを忘れてしまったとしても、その時はまた、何度でも友達になるよ。それだけは約束しよう。

 ――うん! 約束!

 そう言って、私たちは指切りをしました。




「そのやり取りの三日後、私は父の急な転勤でイギリスに引っ越すことになりました。もうアヤちゃんには、二度と会うことはありませんでした」


 俯いていた彼女が、顔を上げる。


「でも、ジュニアハイに入学する頃に彼女から手紙が届いたんです。何でも昔私が彼女に送ったプレゼントを見て、思い出してくれたんだとか。宛先を調べて送ってくれたことを知って、私はとても嬉しかったんですよ?」

「じゃあ、僕のことはその時に?」

「ええ」


 小さく頷く。


「中学でとても変な男の子に出会ったって、手紙には書かれていました」


 変な人か。猫屋敷には言われたくないなぁ。


「でも、とても素敵な人だということも書かれていましたよ。人の本質を見ることが得意なんだって。私は、アヤちゃんが本気でその男の子のことが好きなんだと思いました。彼女が素直に何かを褒めるということは、なかなかないことでしたし」


 そういう風に他人から言われると、やはり照れてしまう。僕は思わず顔を背けた。

 彼女は話を続ける。


「十五歳になって日本に帰国して、私がまずしたことはアヤちゃんを探すことでした。幸い、送られてきた手紙の住所は昔のままでしたから、すぐに見つかるだろうと思っていました。でも……」


 猫屋敷綾は、死んでいた。

 学校の屋上から、飛び降りた――自殺である。

 そしてその場には、僕もいた。


「ええ。私も自分なりにその件を調べました。私の知るアヤちゃんは、自ら死を選ぶような人ではありませんでしたから」


 そして、その調査線上に、僕が浮かび上がった。


「はい。色々なことが言われていました。中には楠木さんがアヤちゃんのことを殺害した、というものも」

「……」


 それも、当時はよく噂されたものだ。その時、その場には猫屋敷の他には僕しかいなかったのだから、当然だろう。警察にも事情聴取された。野々宮さんとクルミさんの証言で何とか容疑は晴れたけれど――いや、やはり僕が彼女を殺したようなものだ。

 僕は、おそらく最も猫屋敷の傍に居ることが多かった人間である。一番話したし、一番触れ合っただろう。

 しかし、それでも彼女の本当の気持ちというのには気付けなかったのではないか?

 彼女が何かに悩んでいたことに、僕は気付けなかったのではないか?

 もしそうならば、それは僕が彼女を殺したことと同義だろう。


「そんなことはない、ってアヤちゃんなら言いそうですけどね」

「……さあ、どうかな」

「とにかく私は噂を検証しようと思いました」

「なるほど」


 だから。


「ええ。楠木真という人間が入学したという習志野学園に転入したんです。学校に入って野々宮さんと知り合ってすぐに、学園の探偵のことを聞きました」


 謎に困ったら文芸部室を訪れると良い。

 そんな紹介をされる人間は、そうはいないだろう。

 だから彼女は文芸部室を訪れた。もしかしたら、謎に巻き込まれること自体、ラッキーなことだと思ったのかもしれない。


「そうですね。そういった気持ちが全くなかったとはいえません」


 でも、と続ける。


「あの時は本当に助かりました。あのまま帰っていたら、私はクラスの皆さんの気持ちを無駄にしてしまうところでしたから……そして、私は確信しました。この人は、アヤちゃんを――一人の人間を自殺に追い込むような人間ではないと」


 彼女は真っ直ぐに前を見据えたまま、そう言った。

 だから、というわけではないが、その言葉は彼女の本心だったのだろう。

 けれど、どうかな……僕には彼女が言うことが、猫屋敷の気持ちを言い当てているものなのかは、正直自信がない。

 猫屋敷綾は、僕のせいで自殺した。

 どうしても、僕にはそう思えてならなかった。


「さて、私の昔話はこれでおしまいです。次は楠木さんの昔話を、と言いたいところですけど……やっぱり、止めておきます」

「どうして?」

「枢木さんと約束しましたからね。十万円と引き換えだって」

「そんな約束、守らなくてもいいと思いますけどね」


 実際、クルミさんもそうとう渡嘉敷さんに懐き始めている。おそらく、今の彼女が頼めば、クルミさんは僕たちの中学時代のことを容易く教えてあげるだろう。


「いいえ。これだけはきちんと正面から向き合いたいんです」

「どうしてそこまで……」

「さあ、どうしてでしょう。もしかしたら、私もアヤちゃんと同じように、楠木さんに惚れたのかもしれませんね」

「……渡嘉敷さん、僕は、」

「分かっていますよ」


 彼女はそう言って、こちらを向く。こちらを向いて、笑顔を見せる。


「冗談です。本気にしちゃいました?」

「……」

「すみません。でも、私がアヤちゃんから、彼女が好きだった人を盗るわけないじゃないですか」


 まったく。

 やはり、僕にはこのお嬢様の考えていることが分からないな。

 けれど――

 彼女と、今はもういない猫屋敷との間にある感情は、絆は、それだけは本物なのだろうと、僕は思った。

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