―2―

 午後六時。

 僕は欲しかった本を完全に諦め、指定された大井工場跡地に向かっていた。

 大井工場は、小さな町工場だったところだ。だった、と過去形なのは、そこがもう運営されていないからである。数年前に倒産しただとか、社長が借金のあまり夜逃げしただとか、様々な噂が錯綜してはいるが、正確なことは分からない。ただ一つ言えるのは、そこが既に廃工場と化している、ということだ。誘拐犯の隠れ家とするには、絶好の場所だろう。

 その工場は習志野川の川沿いにあるのだが、そこがまた、僕が通っていた中学のすぐ傍なのだ。だから僕は、その場所は知っている。

 工場に付く頃には、既に辺りは暗くなっていた。

 僕は寂れた扉の前に立つ。

 資材搬入用の大きな扉は、随分くたびれてはいるようだったが、しかしその機能は未だに生きているようで、脇のスイッチを押すと甲高い金属音を上げながら、ゆっくりと開いていった。

 僕は工場の中に一歩足を踏み入れる。

 工場内は暗い。灯り一つない。埃っぽい臭いだけ、感じ取ることができる。

 僕は慎重に、歩を進める。

 そして丁度、中央に差し掛かったあたりで、一斉に灯りがついた。

 工事現場などで使われているようなライトが、僕の周囲を囲んでいる。

 僕は強い光に眼を細めながら、先を見る。

 そこには、仮面を着けた二人組がいた。

 僕は口を開く。


「約束通り来ました。渡嘉敷さんを解放してください」

「……」

「また、だんまりですか」


 仕方がない。こちらからカードを切ろう。


「君たちの正体は大体分かっている。まず一つ」


 僕は右側に立つ方の仮面の人間を指差す。


「変装するにしても、足元まで気を遣った方が良かった。君の靴はローファーだよね。背丈から考えても、君は学生ということになる。そして、あの時間に花咲交差点に行くことができる――それも、僕の下駄箱に暗号文を入れてから、となると、君の所属している学校も大体特定できる……習志野中学だね?」


 習志野中学校は、習志野学園と最も距離が近い。僕と同じ学校、ということも考えられるけれど、しかし、僕にはこの二人の正体を特定する確かな根拠がある。推理ではなく、根拠が。

 根拠はあるのだが、しかし今ここで言うわけにはいかない。この二人の狙いが分かってからじゃないと。

 僕はもう一方の――左側に立つ人物に、人差し指をスライドさせる。


「君はさっき、金属でできた知恵の輪を握力だけで砕いてみせたね。あれは、そうそうできることじゃない」


 何なら人間業ですらないが。


「逆に言えば、あんなことをできる人間は、特定が容易いとうことだ。例えば、格闘技の全国覇者。それも、天才と呼ばれる類の人間だろう」


 僕は上げていた右手を降ろす。


「以上のことから察するに、君たちの正体は近頃噂になっている炎氷姉妹リバース・シスターズだ」


 噂くらいなら聞いたことがある。

 格闘技の天才と数学の天才。双子の姉妹。いつでも、どこでも、何をするのも、二人セットの“解決屋”――通称・炎氷姉妹リバース・シスターズ

 天才を自称しているらしいが、しかしそれに実績が伴っているのには素直に賞賛に値するだろう。

 そして実績はともかく、まあ、彼女たちの俗称は実に中学生らしい、可愛らしいものだろうと、僕は思う。

 ただし。


「いくら何でも、誘拐はやりすぎだな。大人しく渡嘉敷さんを返して、素直に謝れば、許してあげるけれど……どうする?」


 僕がそう言うと、仮面の二人は一度顔を見合わせた。

 どうでもいいのだが、その仮面は前が見えるのだろうか。

 二人がこちらを見る。

 そして、一斉に羽織っていた外套を脱ぎ捨てた。と、同時に仮面も外す。

 そして、そこには、目を爛々と輝かせた女子中学生と、冷たい視線の中学生女子が、現れていた。

 そして二人は交互に口を開く。


「楠木真!」

「……私たち」

炎氷姉妹リバース・シスターズが!」

「……貴方を」

「倒す!」




 二人の言い分は、実に簡単なものだ。

 僕を倒す。

 それだけ。

 何をもって倒すというのか、勝利するというのか、その辺りの定義があやふやだという点は、やはり子供じみている。正直、こんな茶番には付き合っていられない。

 さて。


「彼女を返してもらえないというのなら、僕にも考えがあるよ」

「……考え?」


 僕は左手の腕時計を見る。時刻は午後六時十分。そろそろかな。


「……何を確認しているの?」


 と、葉住妹。


「ん! どういうことだい、氷乃ちゃん!」

「……彼は侮れない。何か罠を仕掛けているのかも」


 葉住姉が、ばっとこちらを見る。


「罠が張ってあるのか! 楠木真!」

「まさか」


 僕は肩を竦ませてみせる。


「ただ、ちょっと、呼んだだけですよ」

「……呼んだ?」


 そして、その音が聞こえてきた。

 遠くから、段々と近づいてくる。


「……この音」

「パトカーか!」


 そう、サイレンの音だ。


「……警察を呼んだんですか?」

「そうだけど、まずかったかな。残された手紙に、警察を呼ぶな、なんて書かれてなかったよね」

「ひ、非常識だぞ! 普通、敵に呼び出されたら一人で行くもんだろ!」

「いやいや。普通に考えるのなら、誘拐犯を相手取るんだ、警察の一つや二つ呼ぶのが、それこそ普通の対応だと思うよ」


 音は、段々と大きくなってくる。もう数分もすれば、踏み込んでくるだろう。


「い、いやいやいや、冗談だよな!」

「まさか。もしかして君たちは冗談だとでも言うつもり? 僕の大切な友人をさらっておきながら?」


 一瞬、姉の方が怯むのが分かった。妹の方は動揺していないところをみると、やはり僕の言った言葉をまだ完全には信じ切れていないようだった。

 しかし、予想通り、この姉の方は少し頭が弱いようだった。ならばそこを突くのが当然の理だろう。

 なんて、考えるまでもなかった。

 次の瞬間には、葉住花火は僕の足元に平伏していた。深々と頭を下げ、要は土下座をしていた。


「すみませんでした! 渡嘉敷さんはお返しします! 全て、楠木真を呼び出すために仕組んだことでした! ですからどうぞ穏便に!」


 実に清々しい謝罪であった。運動部の彼女らしい。

 その後ろで、葉住氷乃が額を抑え、溜め息をついている。どうやら妹である彼女でさえ、姉の残念な思考回路に頭を悩ませている様子だった。


「……あのサイレンが本物という証拠はないでしょう」

「ん? どういうことだ?」


 どうやら、この妹の方にはバレているらしい。僕はネタ晴らしをすることにする。

 僕は未だに膝を付いている葉住姉と、その彼女に冷ややかな目線を送る葉住妹に背を向け、歩く。そして、入り口を出たところで、を拾い上げた。


「僕のスマホです。ここに入る時に置いておきました。クルミさんに指定した時刻に電話をするように頼んでね」


 その時刻が午後六時十分。そして着信音は、パトカーのサイレンを録音したものにしてある。ご丁寧に近づいてくるような音だ。


「……枢木先輩に電話、ということは」

「葉住氷乃さん、君は頭は良いけれど、思い込みが激しいようだね」

「……」

「僕はクルミさんとしか言っていないのに、君は彼女の苗字を言い当てた」


 それは、葉住氷乃が枢木胡桃を知っているということだ。さらに言うなら、接触しているということだ。

 やはり、僕の予想は的中したらしい。


「実はここに来る前――君たちが渡嘉敷さんを誘拐した直後、クルミさんに電話をしたんです。ちょっと気になることがあってね」

「気になること?」

「僕と渡嘉敷さんが花咲交差点に行った時、君たちは知恵の輪を渡したね」

「……ええ」

「それも

「……」

「あれは明らかにおかしい。僕と渡嘉敷さんが会ったのはまったくの偶然だった。それなのに、彼女の分の知恵の輪があったんだ。だからおかしいと思った」


 逆に言えば、渡嘉敷さんを誘拐するというのが当初からの目的だったのならば、彼女の分の知恵の輪も用意する。そして、彼女が僕に付いてきたのも、計画の通りだったのだろう。

 その推測から導き出される答えは、一つだ。


「渡嘉敷さんも協力者だった。つまり狂言誘拐だったんです」


 さっき葉住姉が、全て僕を呼び出すために仕組んだことだった、と言っていた。これで明らかだろう。


「ちなみにクルミさんに電話をかけた時、面白い答えが返ってきましたよ」

「面白い答え?」

「訊いてみたんだよ。『女子中学生の二人組で、片方はあり得ない握力を持っている。これに心当たりはない?』ってね。そしたら彼女は答えたよ。『答えられない』と」


 つまり、知らないわけではないのだ。おそらく、彼女も協力者だったのだろう。


「君たちはクルミさんを通して僕や渡嘉敷さんの情報を得た。そしてこの誘拐事件を計画したんだ」


 僕を倒すという、たった一つのためだけ。


「まったく。御苦労なことだよ」


 本当に、下らない。

 まあ、こんなお遊びに付き合う僕も僕か。


「さて、これで今回は僕の勝ちで良いのかな」

「ぐぬぬ……!」


 と、葉住姉が歯噛みする。余程悔しいらしい。対して妹の方はあまり気にしている様子はなく、


「……分かりました。負けを認めましょう」


 と、淡々と言った。


「まだ、完全に負けと決まったわけじゃない!」

「まあ、それはそれでも別に良いのだけれど」


 毎回、騒動に巻き込まれるのは御免だな。


「明日の放課後! 習志野中学に来い! そこで決着をつけるぞ!」

「もし行かなかったら?」

「行かなかったら? 行かなかったら……」


 うーん、と葉住姉が首を傾げる。考えていなかったようだ。


「……もし私たちが負ければ、もう貴方に付きまとうことはありません。勝てば私たちの目的は達成されます」

「そうそれ! それが言いたかった!」


 なるほど。それならば僕にもメリットはある。メリットというか、デメリットがなくなると言った方が良いかもしれない。

 面倒だけれど、仕方がないか。

 僕は大きな溜め息をついてから、答えた。


「分かりました。その勝負、受けますよ」


 双子はニヤリと笑い、そして僕と彼女たちの再度の決闘が決定されたのだった。




 と、いうやり取りをしたのが、昨日のことだった。その双子とのやり取りを、隣を歩く渡嘉敷さんに説明する。

 時刻は既に午後四時。中学から下校していく生徒たちとすれ違いながら、僕たちは習志野中学に向かっている。

 中学に行くということで、僕はクルミさんも誘ったのであるが、しかしどうにも都合が悪いらしかった。僕は一人で向かおうと思っていたのであるが、おそらくクルミさんから情報が回っていったであろう渡嘉敷さんが、是非一緒に行かせてくれと頼むので、別段断る理由もないし、僕はその要請を受諾した。だから、彼女は今僕の隣にいる。まあ、一応は当事者の一人だし。

 彼女が口を開く。


「あの、昨日はすみませんでした……枢木さんに頼まれて、その……楠木さんを騙すようなことを」

「いや、それはもういいよ。気にしていない」

「はあ……あの、ところで、私も来て良かったのでしょうか」

「うん。僕も話し相手がいる方が考えがまとまるしね」


 本音を言えば、中学のことを知っている野々宮さんやクルミさん、もしくは猫屋敷を相手にしたかったけれど。まあ、贅沢を言うわけにもいくまい。


「でも、楽しみですね」

「楽しみ?」

「楠木さんたちのかつての学び舎を見ることができるんですよ。私、すごく興味があります」

「そんなに特別なものでもないと思うよ」

「そんなことありませんよ。私は海外で育ちましたから、日本の中学のことはあまり知らないんです」


 そうか。こうしていると忘れてしまいそうになるが、彼女はイギリス育ちだった。しかし、まあ、高校と中学で違うところなんてそんなにないだろうに。


「そうなんですか? まあ、もう一つ気になることがありますし」

「気になることって何です?」

「楠木さんの過去です」


 またそれか……。

 僕が立ち止まると、彼女も一歩前で停止する。

 中学と高校の丁度中間点に位置する公園の前だった。子供たちのはしゃぐ声がBGMのように聞こえてくる。


「あの、渡嘉敷さん、前にも訊いたけれど、どうしてそんなに僕の過去が気になるの?」

「さあ、どうしてでしょう」

「本当のことを話してくれないかな」

「……」


 この質問に、以前の彼女も分からないと答えた。

 しかし、それは本当だったのだろうか?

 本当に、彼女は何の理由もないことのために、例えば十万もの大金を支払おうとするだろうか。

 いや、そんなことはないだろう。

 そこには何か理由があるのだ。

 あの時の返答は、何かを誤魔化したように感じた。

 あの感覚は、僕の勘だ。邪推と言ってもいいのかもしれない。しかし僕とてそれなりの数の事件と呼ばれるものと遭遇ししてきたのだ。この直観も、あながち的外れということはないのではないだろうか。

 僕は彼女に真っ直ぐな視線を向ける。

 不意に、彼女が視線を逸らした。

 そして、


「……楠木さんが優しかったからですよ」


 と言った。

 まるで何かを諦めたような、観念したような、そんな口調である。


「僕が優しい?」

「優しいですよ。彼女に聞いた通りの人でした」

「彼女」

「ショートカットで、手足が細くて、目が大きくて――変な女の子です」


 ――瞬間、僕の中を何かが駆け抜けた。

 疑問。驚愕。あるいは恐怖。表現できない様々な感情が、汗となって背中を伝う。

 ショートカットで、手足が細くて、目が大きくて、変な女の子。

 自称・変人。

 そんな人間に、僕は一人しか心当たりはない。


「猫屋敷……」

「まるで猫みたいな女の子でした。アヤちゃんは」


 その言葉に、僕は彼女が猫屋敷綾を知っているのだと確信した。

 そうだ。彼女は猫みたいな少女だったのだ。

 気まぐれで、人懐っこいようで人嫌いな、追いかければ逃げて行ってしまうような――まさしく猫みたいな女の子。それが、僕から見た猫屋敷綾という少女の印象である。二年前に自殺した、僕が好きだった女の子のイメージである。


「どうして、貴女が……」


 彼女が小さく笑みを浮かべる。


「少し、お話ししましょうか」


 そう言って、公園の方を指さす。

 僕たちは公園に入り、ベンチに並んで腰かける。

 そして、渡嘉敷雅は語り出した。

 それは、僕が知らない猫屋敷綾の物語だった。

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