―1―
「あれ、楠木さんじゃないですか」
今日は早めに学校を出ようと思い、僕は玄関に向かっていた。二年生の教室がある二階から東階段を使って一階に降りる。この時間はまだ部活に向かう人間は少ないだろうが、しかし掃除だの何だので廊下にいる生徒の数は、むしろ多く感じた。
廊下を進み、角を曲がる。
そして生徒玄関の前まで来た時、僕は後ろから声を掛けられたのだった。
振り返るとそこには、美しい黒髪のお嬢様――
「やあ、渡嘉敷さん」
「今日は。楠木さんは、今帰りですか?」
「うん。まあね」
僕は彼女が並ぶのを待って歩き出す。
「今日は文芸部の方は?」
「行かないことにした。ちょっと欲しい本があって、本屋に寄っていこうと思ってね」
まあ、別に必ず部活に出席する義務もないし。気が向いた時に読書に行くくらいで丁度良い。あとは猫屋敷と話したいときとか。幸いなことに僕の他には部員はいないから、誰に文句を言われるわけでもない。
「そうなんですか。でも、そうしたら大変ですね」
「大変?」
「依頼人の方ですよ! 折角尋ねたのに探偵が不在だと知ったら、きっと悲しみますよ?」
「そうかな? まあ、そうだとしても、滅多に依頼人なんて来ないよ。事件ってのはそうそう起こりはしないんだ」
「そうなんですか……少し残念です」
やれやれ。このお嬢様の妄想癖は相変わらずらしい。
「自分から首を突っ込んで行くのならいざ知らず、普通に生活していればそうそう事件なんかには巻き込まれないものだよ」
まあ、渡嘉敷さんや、あるいは野々宮さん、ひいては猫屋敷の辺りは、自分から事件に関わっていきそうだけれど。
「それに、探偵が暇なのは良いことじゃないか。それだけ平和ってことだ」
なんて言ったら、きっと猫屋敷は不服そうな顔をするのだろう。
僕たちは下駄箱に向かう。
そして僕が下駄箱を開けたのと同時に、ヒラリと、何かが落ちた。その白い封筒は渡嘉敷さんの足元の落ち、彼女がそれを拾い上げた。
「何ですか、これ?」
「さあ、何だろう」
彼女がその封筒を僕に渡す。
「ひょっとして、ラブレターだったりして!」
「そうだと良いですけどね」
言いながら、封筒の表面をなぞる。
……うん、触った感じでは大丈夫そうだ。
「何をしているんですか?」
「カミソリの刃がないか確認をね」
「どうしてそんなにマイナスに考えるんですか……」
「いやいや、別に僕がマイナス思考の人間だとか、そういうことじゃないんだよ」
少なくとも、この手紙は恋文ではないだろう。
「どうしてそう言い切れるんです?」
「ラブレターだとするなら不自然な点があるからだよ」
渡嘉敷さんが首を傾げる。
何もそんなに難しいことではない。普通に考えれば分かることだ。そうだな……。
「以前、渡嘉敷さんがラブレターを貰った時――まあ、あれは偽物だったわけですけれど、あの時のことをよく思い出してみてください。今僕が持っている手紙とは違う点があるはずです」
「違う点、ですか」
彼女が記憶を辿るように、視線を泳がせる。
「何でしょう……見たところ封筒に差出人の名前はありまぜんし、封筒の色やサイズもほとんど変わりはないですよね? うーん……」
少し考えた後、彼女がパッと顔を上げた。
「手紙が入っていた時間、ですね!」
「その通り」
渡嘉敷さんの時は朝に手紙が入っていた。しかし、今回の場合は、夕方に入っていたことになる。少なくとも、僕は今朝この手紙を見つけてはいない。
「手紙で告白するにせよ、呼び出して直接告白するにせよ、相手と待ち合わせをしなければならない。後者は当然としても前者は返事を聞かなければならないからね。ただ、そのためには待ち合わせの日の、できるだけ早く――例えば朝に相手にその時間や場所を伝えなくてはならない」
つまり、相手が放課後に見つけるような時間に手紙を送っていては、待ち合わせに間に合わないことがある、ということだ。
「だからこれはきっと、待ち合わせを支持する手紙じゃないよ」
とすると、考えられる可能性は脅迫状か果たし状、嫌がらせってところか。
僕は封筒を開け、もう一度中身を確認してから中の手紙を取り出した。
折り畳まれた便箋を、渡嘉敷さんにも見えるように広げる。
「何でしょう、これ?」
そう言って、彼女は首を傾げた。
手紙には、奇妙な文章が書かれていた。文章、というか数字の羅列だ。
彼女がそれを読み上げる。
「3、21、37、38、33、24、37、35、23……何でしょう、これ?」
「さあ? 暗号、とか」
「暗号……!」
渡嘉敷さんの表情が、明らかに変わったのが分かった。
暗号なんて言わなければ良かった……彼女のことだから暗号なんてものの存在を知ってしまえば、解こうとするに違いない。ここはさっさと退散するに限る。
「えっと、僕はそろそろ本屋に……」
クルリと背中を向ける。が、後ろから右腕を掴まれた。誰が掴んだかなんて、振り返らなくても察することができる。
「楠木さん! この暗号についてどう思いますか!」
「ええっと……」
「どんな意味があると思いますか! 誰が、何のために出したのでしょう!」
「いや、だから……」
「え、もしかして、楠木さんにはもう分かったんですか!」
どうやらすっかり熱くなってしまっているようだった。
僕は大きくため息をつく。
仕方がない。
「まあ、一応解けてはいますけど……」
「すごいです! あ、でもまだ言わないで下さいね。私も考えますから!」
「それは良いけれど……」
それならば先に帰して欲しい。
「楠木さんもちゃんと見てください!」
「いや、だから僕はもう解けて、」
って、まるで聞いちゃいないな、このお嬢様は。
グイッと、体が引っ張られる。渡嘉敷さんが手紙の内容を僕に見せようとしているのだが、しかしこの体勢は体が密着していることになる。できることならこんなところを知り合いに見られたくはないな……。
僕は彼女が指さす方に視線を落とす。
「ほら、これ。この手の暗号は数字がアルファベットや平仮名に対応しているんですよ。でもこの数字は38まである。ということはアルファベットではないということです!」
アルファベットは26までしかない。だからその説が却下される、というのは誰でも思い付くことだ。
「ということは、この数字は平仮名に対応しているということです。変換すると……う、な、よ、ら、む、ね、よ、も、ぬ……? これ、どういう意味なんでしょう?」
と、また首を傾げてしまった。
うなよらむねよもぬ。まるで意味が通らない。
まあ、しかし、海外生活が長かった渡嘉敷さんが解けないのも無理はないかもしれない。それどころか、生まれてからずっと日本で暮らしてきた僕でさえ、最初は彼女と同じ答えに辿り着いたのだから。
「うーん。何でしょう……できた平仮名を並び替えるとか?」
ああ、どんどん答えから遠ざかっている。
仕方がない。ここでこれ以上時間をとられるのも嫌だし。
僕は渡嘉敷さんにネタばらしをすることにした。
「数字が他の言葉と連動している、というのは良い着眼点だったと思いますよ。僕も最初は貴女と同じように、平仮名に変換してみましたし」
けれど、さっきやってみたように、まるで意味の通らない文章ができあがってしまった。
ならばそもそも数字と文字が連動してはいないのだろうか?
いや、それはないだろう。
この手紙はおそらく僕に対しての挑戦状だ。ならばこの暗号は、この暗号
とすると、だ。
数字を他のものに変換する必要がある。平仮名でもアルファベットでもない、他の何かに。
そして僕は、それが何なのかにはすぐに気が付いた。
「渡嘉敷さんは海外生活が長かったから、もしかしたら聞いたことがないかもしれませんが、五十音には“あ”から始まるもの以外にもあるんですよ――“いろは歌”って知っていますか?」
いろはにほへとちりぬるを……というやつだ。
「日本の古いかなですよね?」
「そう。今回の暗号は五十音変換は五十音変換でも、いろは歌に合わせなきゃいけないんだ」
確かな根拠はなかったが、考えられる可能性はそのくらいだし、それに試してみたら見事に文章が成立した。例えば、暗号文の3というのは、いろは歌の三番目の文字ということになる。
「暗号文の3を変換すると“は”、21は“な”、37は“さ”、38は“き”、33は“こ”、24は“う”、二つ目の37も“さ”、35は“て”、そして最後の23は“む”、つまり“ん”ですね。よって、この暗号文が指す言葉は――」
「花咲交差点!」
首肯。
「行ってみましょう」
「はい!」
まあ、幸いなことに、用事のある本屋は花咲交差点のすぐそばだ。
僕たちは花咲交差点に向けて、歩き出した。
花咲交差点は僕が生まれるよりもずっと前からその名で呼ばれ、親しまれている。本当の名前を、僕は知らない。情報通なクルミさんや、あるいは無駄に博識な猫屋敷なら知っているのかもしれないけれど、とにかく僕は知ってはいない。
花咲交差点はいくつかの住居と、それから小さな書店が隣接している。昔から住人が花を植えるのが好きで、歩道にまで溢れんばかりの花が咲いているから、花咲交差点だ。春になると、それはもう、まさに絶景と言うのに相応しい景色が広がることになる。
しかし、今はもう六月も半ば――高校の制服だって冬服から夏服に替わる時期である。つまり何が言いたいのかというと、春には壮大な景色を楽しませてくれる花々も、既に深緑に変わっている、ということである。こうなってしまうと、やはり少し味気ない。
僕と渡嘉敷さんは、そんなどことなく物足りない道を並んで歩いていたのだった。別に彼女が付いてくる必要はなかったのだが、事の成り行きというやつだ。
「そう言えば」
と、隣で自転車を押す彼女が切り出す。
「枢木さんから、今月の情報を頂きましたよ」
「情報? ……ああ、僕の中学時代の話か。それで、クルミさんは何て?」
まあ、彼女ならば正確に情報を伝えてくれるということは、疑う余地がないのだろうけれど。
「真先輩は中学始まって以来の天才だったって」
「まあ、間違いではないとは思うけれど」
学業における成績だけみれば、そのような結論に落ち付くというのも、我ながら理解できる。が、しかし、それにしても、情報が少なすぎるのではないだろうか。もしかしたら、クルミさん自身もどこから伝えれば良いのか迷っているのかもしれない。
「それ以外には何も教えて頂けませんでした……」
「ハハハ……まあ、その内教えてもらえるよ」
「それにしても、楠木さん、昔から成績が良かったんですね」
「うーん、まあ。自分で言うのもなんだけれど……」
「中間テストでも仰っていた通り、本当に全教科満点でしたし」
「先生たちにとっては教えがいのない生徒だろうね」
僕が言うと、彼女はクスリと笑うのだった。
花咲交差点の昼間の交通量はそれほど多くはない。元々田舎町の交差点だから、ということもあるのだろうが、しかしこの辺りには店や会社も少ないから、自然とそうなってしまうのだろう。
さて。
僕は改めて、交差点の真ん中に――まさにど真ん中に、目をやる。
そこには、奇妙な二人組がいた。
体系は小柄だ。中学生か、よくても高校生だろう。肩幅はあまりないから、おそらく女性であるということは分かる。
しかし、だ。その二人組の格好だけは、理解できないものだった。
二人は、真っ黒な外套を羽織り、体をすっぽりと隠していた。
さらにその二人の顔には、仮面が装着されている。右半分が白で、左半分が黒。耳の辺りまで避けた笑みが描かれている。実に気味の悪い仮面だ。
幸いなことに車は来ていないが、しかし、普通の思考の人間ではないだろう。
「あれ、何でしょう……?」
隣で渡嘉敷さんが小さく尋ねる。
さあ、何だろうね……。
できれば関わり合いになりたくはない。
が、残念ながら僕の願いが叶うことはなく、その二人組はこちらの存在に気が付いたようだった。
二人はぱっと走り出し、僕たちと対峙する。
仕方なく、僕はその二人組に話しかけることにした。
「ええと、僕を呼び出したのは君たちかな」
「……」
二人組は答えない。ただ黙ってこちらを見ている。まるで値踏みでもするかのように。
そして、二人は同時に、こちらに何かを投げて寄こした。
小さな放物線を描いた物体を、僕と渡嘉敷さんはキャッチする。
「これは……知恵の輪?」
「そうみたいだね」
僕はチラリと、目の前の二人組を見た。
二人は動かない。何も言わない。おそらくこの知恵の輪を解け、ということなのだろう。
「任せて下さい! 私、知恵の輪って得意なんです!」
そう言うや否や、彼女はカチャカチャと金属の輪を弄り始めた。倒れそうになる彼女の自転車を、僕は慌てて空いている方の手で支える。危なっかしいお嬢様だ。
「ええと……」
なるほど、手慣れている。が、しかし、なかなか上手くいっていないようだった。
「あれ……? 結構難しいですね、これ」
まあ、そうだろう。僕も知恵の輪は少々かじってはいるが、見たところ簡単に解ける代物ではなさそうだった。
僕は時計を確認する。
午後五時二十分。
花咲交差点に面した山田書房は、小さな書店で、午後六時までしか開いていない。つまり、ここであまり時間をとられると、今日が発売日の本を僕は買うことができなくなってしまうのだ。そうなったら、わざわざ家とは逆方向のここまで来た意味がまるでなくなってしまう。
僕は溜め息をついた。
本当は関わりたくない。手助けだって、頼まれない限りしたくはないのであるが、しかし、緊急事態という判断の元、その主義を、今回限りは譲ることにした。主義は大切だが、主義に凝り固まればソビエトも地図から消えるというものだ。
――僕は、持っていた知恵の輪を、車道に投げ入れた。
知恵の輪は空中を舞い、そして冷たい金属の音を立てながら地面に落下する。
「楠木さん、何をしているんですか?」
「知恵の輪を解こうと思ってね」
「解くって……でも今、道路に」
“解く”というのは、何も“解き明かす”という意味だけではない。絡まっているものを“
丁度その時、一台のワゴン車が通りかかった。
ワゴン車は僕の予想通り投げ捨てられた知恵の輪の真上を通過し、パキッという金属が割れる音が小さく響いた。
僕は後続の車が来ないことを確認して、道路に入り、割れた金属――
僕は掌に乗った金属片を、仮面の二人に見せつける。
「あの知恵の輪はおそらく普通には解けないものだったんじゃないでしょうか」
「……」
仮面の二人は、やはり何も言わない。
が、代わりにその内の一人の腕が、すっと前に伸びる。
見るとその右手には、知恵の輪が握られていた。おそらく僕たちに渡されたものと同じものだろう。
そして、知恵の輪を握る。――握りしめる。
傍から見ても、ものすごい力が込められているのが分かった。
そして、パキッという音が、その手の中から聞こえた。
おいおい、嘘だろう……と思っていると、そいつはそっと右手を開く。
そこには、綺麗に割れた金属片が握られていた。
しかし、ここで臆してはならない。
中学時代にも、こうして僕に挑んできた輩は大勢いた。そしてそのほぼ百パーセントの人間が、ペースを取ろうとしてきたのだ。ならば、ここでわざわざ相手にペースを合わせる必要もあるまい。
僕は尋ねてみた。
「君たちの狙いは何だ? どうして僕を呼び出した?」
「……」
仮面の二人は、しかしこれでも何も答えようとしない。
僕は次の質問を投げかけようとする。考える。どんなことを言えば、二人の動揺を誘えるのか。
しかし――
「……きゃっ!?」
すぐ隣で、渡嘉敷さんの悲鳴が上がる。
見ると、男が三人ほど、彼女の両腕を抑え込んでいた。全員黒のスーツに身を包み、サングラスをした、屈強な男たちだ。
そのすぐ後ろには、黒塗りのワゴンが停まっている。
クソッ。仮面の二人に気を取られて気付かなかった……!
僕は飛び出す。が、しかし、遅い。目の前に立ちはだかった男に遮られる。
僕が足止めされたのは一瞬だ。だが、その一瞬で十分だった。
彼女の体が、ワゴン車に吸い込まれていった。
僕の前に立ちはだかった男を回収したワゴンは、そのまま猛スピードで走り出す。――走り去る。
――そうだ! あの二人は!
振り返る。
が、案の定、そこに二人の姿はなかった。
代わりに、一枚の紙切れが残されている。
僕はそれを拾い上げ、目を通した。
「大井廃工場で待つ……」
僅か一文だけ記されたその紙切れは、間違いなく僕への挑戦状そのものだった。
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