エピローグ
ゴールデンウィークも終わり、まあ、休みなんてほとんどなかったのだけれど、とにかく僕にはまたいつもの放課後の、文芸部室で読書をする日常が戻っていた。
吹奏楽部を舞台にした一連の事件は、最初にして最多の犯行を繰り広げた小比類巻京子と黒森沙耶が被害者である天海奏に謝罪し、校庭に魔法陣を描いてマネキンを散乱させたことに関する反省文を提出することで、一応の終幕を迎えた。
もちろん、吹奏楽部内の窃盗犯を全て捕まえたわけじゃないから、まだ被害者は出るかもしれないが、しかしそれもじきに収束していくだろう。収束させると、あの二人が約束してくれたし。
壊れてしまった人間関係は元に戻らないかもしれないし、新たに築き上げるのも難しいかもしれないけれど、しかしそれはもう野々宮さんを始めとする吹奏楽部員たちの仕事だ。僕が前に出る必要はない。
「いやいや、今回もお見事だったよ、楠木君。まさかあのミステリーサークルを作ったのが、ああいうトリックだったとは」
小さく拍手しながら、猫屋敷が言った。
「そんなことないよ。それに、今回の僕はただ吹奏楽部内の関係をめちゃくちゃにしただけ、という取り方もできる」
それに、野々宮さんを始めとした各部員が目標にしていたコンクールでの上位入賞は、かなり難しいものになってしまった。
「そう言えば、天海さんが転校するんだって?」
「うん。誘いがかかっている音楽団体が結構遠いところにあるらしくて、高校に通いながら参加するために転校を決めたって言ってたよ」
天海さんにも、悪いことをしてしまったかもしれない。
彼女は何も悪いことをしていない。純然たる被害者だ。けれど、彼女がいるだけで部内の空気が悪くなってしまっていたのもまた確かなことなのだ。圧倒的な才能の差から、友情が生まれることはない。嫉妬や憎悪だけを生み出していく。それは天海さんにとっても、他の部員にとっても、善くないことなのだろう。それを理解していたから、小比類巻部長と黒森さんはあのような凶行に及んだのかもしれない。
「でも……うん。やっぱりあの二人のやり方は間違っていたんだと思うよ。もっと上手くやれたはずなんだ。誰も傷つかない方法だって、あったと思う」
けれど、彼女たちはそれを思いつかなかった。気付かなかった。結局、原因であるところの天海さんを引き離すという選択肢を取ってしまった。
「そのことは、気にしていないと言っていたじゃないか。天海さん本人も。それから部としての戦力を削がれた野々宮さんも」
あの屋上での対話の後、依頼人である野々宮さんにも事の顛末を説明した。彼女は「そっか」とだけ言って、遠くの空を見ていた。もしかしたら勘の良い彼女のことだから、薄々真実には気が付いていたのかもしれない。
しかし、まあ、僕も僕かもしれない。
「自分で自分が許せない」
「どうして?」
「もしかしたら、盗難事件よりもあのミステリーサークルが気になっていたのかもしれないと思ってね」
それは、依頼人であるところの野々宮さんや、協力者のクルミさんと渡嘉敷さん、ひいては天海さんに対して失礼なことだろう。
「君は相変わらず、変な所で義理堅いんだね」
「変な所は余計だな」
「そう言えば、彼女はどうするのかな」
「彼女?」
「渡嘉敷さんのことさ」
「ああ」
彼女とも事件解決の後、話をした。ケーキバイキングでだ。クルミさんの提言で、事件の報告会を開くことになったのだ。……勿論、僕の奢りで。
「吹奏楽部には入部しないってさ。しばらくは帰宅部らしい」
文芸部に入りたいと言っていたのだが、頼むから止めてくれとお願いしたら何とか折れてくれた。別段彼女の事が嫌いというわけではないが、折角のプライベートスペースだし、何より猫屋敷と気軽に話せなくなってしまう。
冗談めかしてそう言ったつもりだったのだが、猫屋敷は突然黙り込んでしまった。いつもなら、さらにやり取りを重ねてくるところなのだが。
「どうかした?」
「静かに」
一言応えて、彼女は眼を閉じる。そこでようやく僕は、彼女が耳を澄ませているのだと気が付いた。合わせて、僕も両目を閉じる。
――トランペットの音色が、聞こえてきた。
僕にはそれが、天海さんが演奏しているのだとすぐに気が付いた。つい先日、彼女が屋上で演奏していたのと同じ曲だったからだ。おそらくまた屋上で吹いているのだろう。
猫屋敷が口を開く。
「良い腕だね」
「うん。すごく上手い」
「まさに魂が込められているといったところか」
「ああ。同感だよ」
「楠木君は、この曲を知っているかい?」
もちろん。この曲は『アメージング・グレイス』だ。
「では、この曲に込められた意味については?」
「意味?」
それは……知らないな。言われてみれば。
「なら教えてあげよう。『アメージング・グレイス』に込められた意味はね」
一拍置いて、彼女は続ける。
「“許し”と“感謝”なんだよ」
――許し。
――感謝。
一体、誰に対する許しなのか。
一体、何に対する感謝なのか。
それは、僕には推理することはできない。
だけどきっと、この曲を演奏している時の天海さんの心情は、僕たちが初めて出会った時のあの青空のように、晴れ晴れとしたものなのだろうということを、僕には確信できた。
「……うん。良い曲だ」
僕は、人知れずそう呟いていたのだった。
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