―7―

 目的地である屋上に続く階段は、特別棟の端にある。屋上はそれぞれの棟の上にあるのだが、吹奏楽部内でそこに続く扉の開け方を知っているのは、三つ並ぶ棟の真ん中――特別棟屋上だけだった。

 階段を上る途中で、クルミさんが足を止めた。


「あれ、この曲って……」


 言われて、僕も気が付いた。


「トランペットだね。曲名は……」


 聴いたことがある。これは、そう、『アメージング・グレイス』だ。

 音楽には明るくない僕でさえ知っているくらい有名な曲だ。それに、猫屋敷が好きだった曲でもある。


「すごい……素敵な演奏ですね!」

「うん。とてもね」


 おそらく屋上の方から聞こえてきているであろうその演奏は、階段の真ん中だということもお構いなしに、思わず聴き入ってしまうものだった。技術はもちろんのことながら、演奏者の魂や想いが伝わってくるようだ。

 僕もクルミさんも、眼を閉じて聴き入ってしまう。

 僕たちはその演奏が終わるまで、ただ黙って聴いていた。そして曲が終わるのと同時に、ゆっくりと屋上に通じる扉に手をかけた。

 扉を開けると、階段に光が差し込む。光は広がっていき、やがて僕たちの視界を白く染め上げる。少し目を細め、外の明るさに慣れるとそこには――一人の女子生徒がいた。

 女子生徒の手にはトランペットが握られている。おそらくさっきの演奏は彼女によるものなのだろう。ということは、この人がさっきの話題にあった天海さんか。

 天海さんは風にたなびく長い黒髪をおさえながら、こちらに視線を向ける。

 そこまで来て、ようやく僕は彼女の顔に見覚えがあることに気が付いた。二日前、猫屋敷と共に音楽会に行く途中、電車の中で見かけたあの女の子だ。黒森さんたちの話によると彼女は天才ということだから、図らずもあの時の僕の推理は的中してしまったらしい。


「貴女が天海さんでしょうか?」


 と、クルミさん。


「そうだけど……あんたらは?」

「新聞部の者です。私は枢木。こっちは助手です」


 僕はペコリと頭を下げる。


「部長さんから取材の話が通してあると思うのですが」

「ああ、あんたらがそうなんだ」


 言って、ひどくつまらなそうな視線で彼女は僕たちを見た。


「私は天海あまみかなで。トランペットのパートリーダー」

「それで、取材したいんですけど」

「取材、ね」


 天海さんが視線を空に向ける。青空を見ているのか、あるいは遠くの雲を見ているのか。


「枢木さんって言ったっけ。悪いんだけど、取材内容はそっちで適当に書いといてくんない? 当たり障りのないことを書いてもらえれば、それで良いからさ」

「そういうわけにはいきません!」


 クルミさんが一歩前に出る。


「高校の部活動とはいえ、私だってジャーナリストの端くれです! 事実以外のことを書くことはできません!」


 その勢いに、思わず天海さんも押される。僕も正直少し意外だった。まさか彼女にここまでのジャーナリスト魂があったとは。

 はあ、と溜め息をついて天海さんがこちらを見直す。そして風で乱れた髪を掻き上げながら観念するように言った。


「分かったわよ。質問に答えれば良いんでしょ」

「よろしい」


 クルミさんが勝ち誇ったような笑顔を見せた。こうしてみると本当に子どもみたいだ。まあ、それを本人に言ったら間違いなく怒られるのだろうけれど。

 クルミさんはボイスレコーダーの電源を入れると、コホンと咳払いを一つ挟んでからインタビューを始めた。


「では、まず学年と名前、担当楽器をお願いします」

「一年D組、天海奏。担当楽器はトランペット」

「パート内の雰囲気を教えてください」

「別に……普通だと思うよ」

「真面目に答えて下さい」

「あんたが事実を答えろって言ったんだろ。私は真面目だ。それに、パート練習にはあんまり顔を出してないからよく分からないんだ」

「でもパートリーダーなんですよね?」

「形式上はね」


 言いながら、天海さんはA.K.と刻まれた手元のトランペットを弄ぶ。おそらく彼女のイニシャルだろう。もしかしたらこうしている間にも練習を再開したいのかもしれない。


「黒森先輩がどうしても私にやって欲しいって頼んできたんだ。……私の方が実力があるからって」


 彼女の視線は落とされたままだ。あるいはパートリーダーなんて本当はやりたくないのかもしれない。


「だってほら、私のせいでギクシャクしてるでしょ」

「そんなことは……」

「気を遣わなくても良いよ」


 空を仰ぐ。高く、青い空を。まるで答えのない問題の解答を探すように。


「本当は私、分かっているんだ。この部にいるべきじゃないって」

「どうしてそう思うんですか?」


 訊いたのは僕だった。


「だって私、他の皆と違うから」

「違う……?」


 どこが違うというのだろう。僕からしたら彼女も、そして彼女を嫌っていた、例えばトランペットパートの一年生コンビも、大して変わりはない。どちらも普通の女の子だ。


「普通の部員はフンメルのトランペット協奏曲をノーミスで吹けないし、トマジのトランペット協奏曲に至っては、演奏どころか名前も知らないかもしれない」


 天海さんは続ける。まるでこれまで溜め込んできた想いを爆発させるかのように。まるで水が一杯に入ったダムが決壊するかのように。


「さすがにトマジは知っているんじゃ」


 と、クルミさん。僕はそのトマジとやらを知らないが、吹奏楽部を取材するにあたって、彼女は下調べをしてきたらしい。そして二人のやり取りから推察するに、そのフンメルとトマジというのは、かなり難度の高い曲なのだろう。それをできたら“天才”と言われるくらいには。

 天海さんが静かに首を振る。そして全てを諦めているかのような表情と口調で、続けた。


「知らないよ、あの人たちは。だって考えてるのは部活の帰りにどこに寄っていくかとか、次の休みはどうするかとか、そんなんばっかだし。少なくとも私はそういうことには興味を持てない」

「じゃあ、天海さんは何に興味があるんですか?」

「音楽だけだよ。寝ても覚めても、ずっとのことだけを考えてる」


 彼女の視線はずっとトランペットに向けられている。よほど音楽が好きなのだろう。それは彼女の今の話しぶりと、先程の演奏を聴けば分かる。


「やっぱり、私って変だよね。ってか、何でこんなん話してるんだろ。初対面のあんたらにさ」


 そう言って、照れくさそうに自身の後頭部を掻く。それに対してクルミさんは、優しく微笑んでいた。


「それはきっと、貴女がここにいる楠木先輩に似ていたからでしょう」

「私が……?」


 じっと、天海さんがこちらを見つめる。


「どこが……?」


 ここに来るまで分からなかったけれど、ようやく野々宮さんが僕と天海さんが似ているといった理由を理解できた。猫屋敷も言っていたではないか。僕が推理の天才だと。彼女風に言うのなら、天海さんは演奏の天才なのだろう。しかし、それを目の前の女の子に伝えるのは、些か難しい。何か良い方法はないかと考えていると、クルミさんがポンと手を打った。


「真先輩、いつものやつやってみてくださいよ」

「いつものやつ?」

「相手を見るだけでその人のことが分かっちゃうっていうアレですよ」

「ああ」


 この前、電車の中で猫屋敷に見せたようなことか。そういえば、あの時の観察対象もこの天海さんだったな。確かに、僕の推理力を裏付けるには良い方法だろう。

 僕はもう一度、天海さんを頭の先から足の先まで観察することにした。その間約十秒。


「何なの?」

「いえ……」


 よし、考えがまとまった。


「北中学出身で自転車通学。両親は共働きで朝は早い。そのこともあって、貴女の家事能力はかなり高いようです。例えば毎朝自分のお弁当を作るくらいには。それと裁縫も。経済的に裕福ではないが音楽については両親の賛同を得ている」


 天海さんは一瞬だけ目を丸くした後、


「どうしてそれを……」

「いえ、別に大したことはしていません。ただちょっと観察しただけです」

「もう、真先輩はまたそうやって説明を省こうとして! ちゃんと説明してくださいよ!」


 クルミさんに怒られてしまった。仕方ない。僕はなぜ天海さんの生活について分かったのか、説明することにする。


「北中学出身で自転車通学っていうのは、天海さんの髪の毛を見て分かったんだ」

「髪の毛?」

「さっきチラッと、髪の毛に紅い花びらが付いているのが見えたんだよ。すぐに風で飛ばされちゃったけど、あれは多分、椿の花びらだ」

「どうして分かるんですか?」


 と、クルミさん。


「他に紅い花びらがつく状況が思い当たらないからさ。あの花びらはきっと、北中学方面から学校に向かう途中の、花咲交差点でついたものだ」


 花咲交差点はそこそこに大きな交差点で、本屋と幾つかの住居に面している。花咲というのは俗称で、正式な名前は分からないけれど、そこの住居の多くが綺麗な花を植えているから、そのように呼ばれているのだろう。

 そしてその方角には、北中学校しかない。


「あそこは角を曲がってすぐのところに椿の木があるんだ。自転車に乗っていれば丁度頭の辺りの高さに。だから紅い花びらはそこでついたんだと思った」


 実際、僕も本屋に行く時に髪の毛を引っ掛けそうになった。


「確かに、今朝あそこでぶつかりそうになったけど……他のことはなんで?」

「あれを見たんです」


 視線の隅、屋上を囲う鉄格子の足元にある可愛らしい赤い小袋を指さす。二人もそちらを見る。


「あれには弁当箱が入っているんですよね?」

「ああ、うん」

「今日はいい天気だから、貴女は屋上で昼食を摂っていた。そして見たところあの袋は手作りだ。それから貴女の制服のボタンの一つが付け直された形跡がある。だから裁縫が得意なのかもしれないと思った」

「経済状況とか、親が共働きってのは?」

「貴女の靴下に、ほんの少しだけど泥跳ねがあったから」


 天海さんとクルミさんの視線が下に向けられる。


「ここ何日かは晴れが続いたから、多分一週間くらい前の雨の日についたものだろう。泥跳ねは普通に洗濯したんじゃ取れにくいからね。気付かなければまず残る。そしてその泥跳ねは、自転車で泥道を走った時につくようなものだ。だから雨の日に自転車に乗ったことが分かった。わざわざそんな雨の日にバスを利用しないのは、節約しようとしていた証拠だ」

「分からないよ。雨上がりに自転車を使ったのかも」

「貴女が北中以外の出身だったらその可能性はあったけれど、まあ、今回はまずない。北中方面は最近区間整理されて道路が新しくなったから、まず泥跳ねはしない。雨の日でもなければね」

「……」

「それに第一、貴女は僕の言葉を否定しなかった。それが何よりの証拠だ。

 話を戻すけれど、バス代すら節約するということは、経済状況は決して良くないということだ。だから両親が共働きだと思った」


 僕は改めて彼女の手のトランペットに目をやる。


「そして、ご両親は貴女の音楽活動に肯定的だ」

「どうして」

「経済状況が良くないのにも関わらず、貴女にトランペットを与えてくれたんですから、当然ですよ」


 楽器は安いとは言えない。けれど、あのトランペットは吹奏楽部のものではなく、彼女自身のものだ。それはトランペットに刻まれた彼女のイニシャルが物語っているだろう。


「そして両親が共働きなら、貴女が家事の一端を担っていても不思議ではない……全ての推理は繋がっているんです」


 以上です、と僕は話を締めた。


「ふーん。まあ、大体合ってるけど」

「けど?」

「当たりすぎて、なんかキモイ」

「キモイ……」


 まあ、うん。昔はよく言われていたことだ。何ならもっと酷い扱いをされたことだってある。どれもこれも僕の自業自得だったけれど、しかしそこから正してくれた野々宮さんには、やはり感謝しなければならないだろう。


「まあ、でも、分かったよ。確かにあんたも普通じゃないみたいだね」

「普通でありたいとは思うんですけどね」


 しかし、まあ、客観的に考えれば、僕が普通でないというのは確かなことなのだろう。


「じゃあ、そんな私に似ているあんたに質問」

「何ですか?」

「あんただったら、今の部活の状況、どうする?」

「今の状況というのは」

「自分の能力のせいで誰かが傷ついた時、あんたはどうするかってこと」


 その質問は、中学時代から僕が何度も自分自身に投げかけてきた問いかけだ。事実、僕も過去に居間の天海さんと同じような状況に置かれたことがある。そんな時、どうしたのか。どうするのが正解だったのか、今の僕でも分かっていない。しかし、僕はその時、野々宮美里という一人の人間に助けられた。ならば、僕に答えられるのは、一つしかない。


「自分のしていることが正しいと思っているのなら、そのまま貫きます。間違っているならきっと誰かが指摘してくれるはずです」


 そして、今の天海さんはおそらく間違ってはいないのだろう。

 自らの才能に仕えるというのは大変なことだ。いや、大変という一言で表すことすら間違いなのかもしれない。

 友情を捨て、自らを捨て、そこにあるのかどうかも定かではない――現実の物体としてそこに存在しているわけでもないモノに、多大な時間と労力と精神を費やさなければならない。そんなことをしようとしている天海さんは、決して間違ってはいないのだろう。もし仮に間違っていると言う人間がいるというのなら、それはただ才能のない人間の――あるいは、自らの才能を信じず、奉仕しようとしない人間の嫉妬でしかない。

 だから、僕は言う。


「きっと何年後かの貴女が今の貴女を思った時、決して後悔はしないと思いますよ」


 それは僕がそうだから。

 もしかしたらもっと上手くできたかもしれないと思うことはあるけれど、しかしそれはへの後悔ではなく、への後悔だろう。この二つは似ているようで全然違うのだ。

 僕の言葉が効いたのだろうか、天海さんの表情が少しだけ柔らかなものになる。


「そうだと良いね」


 そう言って、彼女は笑った。

 それからクルミさんがこれまでのパートリーダーへの質問と同じようなことを天海さんにもして、その質問に彼女は答えていった。

 そして最後に、僕が尋ねる。


「そういえば、何か最近変わったことはありませんか?」

「変わったこと?」


 この人にならば、話しても良いだろう。


「例えば何か私物が失くなった、とか」

「ああ、そんなことか」


 あっさりと、彼女は答えてみせた。


「しょっちゅうだよ。中学時代から数えてもね」


 確かに、彼女の場合は嫉妬とやっかみでそういうことに遭うことが多いのかもしれない。


「まあ、確かに最近数は多いかも」

「被害に遭った物といつからなのか訊いても?」

「えっと」


 少し考えて答える。


「四月の中頃くらいからかな。盗まれた物はどれも大したことないよ」

「被害に遭った原因に心当たりはありませんか?」

「そんなのやっかみでしょ。丁度その頃にこの前の音楽会の乗り番が発表されたから、選ばれた私が気に入らなかったんじゃない?」

「なるほど……」

「盗難かどうかは知らないけど、部長と黒森先輩も私物がなくなってたって言ってたよ」

「あの二人が……?」


 部長のことは黒森さんから聞いていたけれど、その黒森さんも被害に遭っていたというのは初耳だ。


「まあ、大きな部活にいれば普通にあることだけどね。私もあまり気にしてないし。てか、もう慣れたわ」

「そうですか……貴女は強い人なんですね」

「別に。強がってるだけだよ。そう言うあんたは」

「何ですか?」

「いや、やっぱり良いや」


 何だろう。


「あんたも過去に人を傷つけたことがあるか訊こうとしただけ。でも、訊いたところであんたは答えないでしょ」

「……なぜ、そう思うんです?」

「何となくだよ。あんたは過去や自分のことを訊かれても適当に煙に巻くタイプだ」


 そうだろうか、と思ったが傍らでクルミさんがうんうんと頷いていた。どうやらそういうことらしい。確かに話したがりではないと思っていたけれど。


「ま、話したくなったら話してよ。気になるし」

「そうですか? 別に面白い話はないと思いますよ」

「それを決めるのは私。それに、分野は違っても同じ“天才”なんでしょ?」


 それは確かにそうかもしれないけれど。


「……分かりました。いつか、お話しできると思います」


 そういえば、渡嘉敷さんも僕の過去を聞きたがっていたな。まったく。僕のような人間の過去を知ったところで、何も面白いことなんてないだろうに。

 ――面白いことなんてない。

 僕の過去は一人の女の子に死から始まっているのだから。

 他人を傷つけることしかしなかった、荒んだ負の歴史なのだから。


「期待せずに待ってるよ」


 そう言って、天海さんは再度笑みを浮かべるのであった。

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