アリアドネの珈琲(上)(著者/ヒビキケイ)

アリアドネの珈琲(上)

著者/ヒビキケイ


叔父さんの淹れてくれる珈琲でしばしの夢を。

迷う心に道案内をする、二人の魔法使い。


 おいしい飲み物や食事を求めて。休憩や待ち合わせ、または家で集中しにくい勉強や読書のため。あるいはただ「何もしない」をしに。わたしたちはしばしば喫茶店へ向かいます。居心地のよいお店とは生活の財産ですが、当然ながらどれだけ常連でも、客は必ず喫茶店から帰宅します。覚めない夢がないように、喫茶店が与えてくれるものはあくまで〝ひととき〟です。

 「アリアドネの珈琲」は、「ありえたかもしれない人生」を見させてくれる喫茶店の物語。舞台が喫茶店というのはとても象徴的です。あのとき、もしもこうしていたら……。選択しなかった・できなかった方の人生とは魅力的で、誰しもつい夢想してしまうもの。未練や後悔ともいえるでしょう。けれども、しばし立ち止まること、束の間夢にひたることよって、ひとは明日を生きていけるのかもしれません。

 本作は、現代ファンタジー作品ですが、ファンタジー部分は夢をみさせる仕掛けの部分にとどまります。物語はあくまで人と人、気持ちのやりとりが主役。作者のヒビキケイさんは戯曲も書かれる作家さんで、なるほど、ワクワクとドキドキが巧みな構成です。丁寧につむがれたドラマにすんなり感情移入し、夢中で読みました。心にまっすぐ響く物語です。

 「貴方が望む夢、お見せします」住宅街にひっそりとたたずむ喫茶店「合縁奇縁」は、叶わなかった夢を見させてくれる喫茶店としてひそかな噂になっています。おいしい珈琲と手作りのスイーツが自慢(アップルタルトとガトーショコラ、食べたい!)。

 相手の思考を自分に同化させる能力を持つウエイター・祐弥。人や物にまつわる記憶・思いを感じ取り、べつの人間に憑依することができます。お客の持ち込んだ思い出の品によって思考や記憶を再現し、お客に「夢」を見させます。彼の叔父・士郎は合縁奇縁のマスターで、自分の気持ちや思考を相手に同化させる能力を持ち、お店を静かでリラックスした雰囲気に保っています。特殊な能力といえばそうですが、極端にいえば、感じやすいウエイターと、空気をつくるマスターといったところ。また士郎はかつて探偵をしており、当時の後輩である探偵・拓海が依頼のサポート役として店に出入りしています。主要メンバーはこの三人。爽やかで快活な一方、能力ゆえに繊細な青年・祐弥、穏やかで優しげな(だけではなく実はいろいろ抱えていそうな)士郎、お茶目だけど仕事には冷静な拓海……彼らのアンサンブルが絶妙で、かけあいがチャーミングです。物語は、彼らに依頼するお客が語り手となり進行します。

 第一章「Will you marry me?」の主役は、結婚を控えた女性・千春。かつての恋人・秋人と偶然再会し、今も彼と付き合っていたら…、そんな「If」にとらわれて、「合縁奇縁」を訪れます。

 千春は、能力によって秋人になった祐弥とデートし、自分の気持ちと向き合います。マリッジブルーという言葉はよく知られていますが、自分らしくいることやパートナーとの関わり方など、ライフイベントを機に揺れる気持ちが丁寧にえがかれていて思わずうなずいたり自分を省みたり。途中のハラハラする展開も相まって、あっというまに「合縁奇縁」の見せる夢に入り込みました。

 また、祐弥たち三人はお客の手助けをしますが、彼らもまた依頼によって成長し、自分や過去と対峙していることがえがかれます。

 さて本作がすごいのは、このパターンで次の話を書かないことです。

 第二章「父と息子の四ヶ月」は、母子家庭の少年・翠くんが主役。ある日母親の恋人から「スイくんのお父さんになってもいいかな?」と提案された翠くん。再婚に反対というわけではないけれど、父親とはどんなものなのか知りたい、実の父親に会ってみたい、と「合縁奇縁」を訪れます。

 このエピソードでは、祐弥がお父さんに憑依して夢を見させるのではありません。おもに探偵・拓海の采配により翠くんは実の父に会いにゆくのですが、「合縁奇縁」のメンバーがおこなうのはこういったお膳立てや途中の手助けだけ。翠くんはあくまで自分自身の心と言葉でぶつかってゆきます。

 母親が家出したということにして翠くんは父を訪ね、少しのあいだ一緒に暮らすことに。父親の柊平は、かつて編集者だった母親が担当していた作家。執筆に没頭すると寝食を忘れるタイプで、食事はほとんど外食か出前、父親としては頼りない。柊平の担当であり友人の喜多島や、柊平のいとこの井上一家、現在の恋人(であろう)カオルさん……翠くんはさまざまな人たちとの関わりを通じて、家族や自分について学んでゆく。

 柊平のいとこたちとの擬似家族的な生活を経たあとで、翠くんと柊平がふたりで過ごす時間が本当によかったです。ああ家族って、そうだった。彼の得た結論は、ほんとうに胸に沁みました。あんまり野暮な説明をしないほうがいいでしょう、翠くんのまなざしでえがかれるみずみずしい物語に、ただ飛び込んでほしいです。タフでまっすぐな少年の目を通して世界を眺めたら、自分の身の回りがいつもよりいとしく思えました。殊勝にも、実家に電話しようかなあなんて思ったりして。

 翠くんはもののはじめから、母親とその恋人と新しい生活をするために「合縁奇縁」を訪れます。必ず目を覚ますことを約束した、ひとときの夢です。自身の心と言葉を精一杯駆使して「夢」を見、帰ってくる翠くん。「合縁奇縁」は、迷う心に道案内をする役割なのでしょう。

 アリアドネ(Ariadne)はギリシャ神話の女性の名。クレーター王ミノスの娘で、英雄テセウスがミノタウロスを退治する際に迷宮から脱出するための糸を渡します。難問解決の手引きという意味で「アリアドネの糸(Ariadne’s thread)」という言葉が知られています。

 「合縁奇縁」がおこなう、手引きとしての夢。その後どうするかは、その人しだいです。ひとときの夢を見て、どう生きていくか。人物の気持ちや思いが丹念にえがかれた物語は、生きていくこと、人と関わりあうことをまっすぐ肯定してくれます。悩んだりぶつかったりすることこそが、人生の希望のように思えました。

 商業単行本のようなしっかりした装丁は、お気に入りの喫茶店でゆっくり浸るのにぴったり。ぜひ物語のつづきを、おいしい珈琲とともに味わいたいです。



作者さまおじコメント/元・探偵、現・喫茶店店主の優男。甥っ子と二人暮らし。大体の場合においてサポート役に徹しているが、その実、結構熱い男。兄譲りの無鉄砲な甥に、いつもハラハラさせられている反面、それさえも心地よく思っている。下巻でやっと主役を張ります。

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