第17話
「今、なんて言ったんだ?」
「ここを出ましょう、と言ったのよ」
聞き間違えかと思って問うと、何の疑問も抱かず、そう返ってきた。出ると言ったって、どうやって出るんだ?もちろん出入り口は固く閉ざされているし、何より、両手はロープできつく結ばれている。とても自力で解けるようなものではない。一体、どうしようというのだろうか。
すると、白崎は自身の身体をうしろにひねって、なにやらごそごそと身体を動かし始めた。ちょうど俺からは白崎に遮られて見えない。次に姿勢を戻したときには、何かを縛られた両手で掴んでいる。
「これは――」
彼女の手に握られていたのはカッターだった。ごく一般家庭で見られる、ふつうのものだ。一体どこからこんなものを引っ張り出してきた?
「なぜ、こんなものを」
「そこのゴミ袋の中にあるの、知っていたのよ。でも一人じゃきっとカッターで手首のロープを切ることはできなかったでしょうね。あなた達が来てくれてよかったわ」
知っていたとは、どういうことだ?まさか――
「前にも、ここに来たことがあるのか?」
「ええ」
白崎はさも当たり前のように答えた。
「何度もきたわ。いつもは明け方には家に帰してくれるのだけれど、今回は殺されるそうだから、逃げなきゃね」
知りたいことができたし、と彼女は嬉しそうに囁いた。だがその言葉は俺の頭の中に入ってこなかった。混乱していた。どうなってる?
白崎は俺の手首にカッターの刃を向けた。じっとしていてね、と一言置いてから、俺のロープを器用に切り始める。
今は考えるのをやめよう。脱出するのが先だ。早く佐々を助けて、犯人が帰って来る前に、ここを離れるんだ。
程なくしてロープが解け、俺の手は自由になった。次に、俺が彼女のロープを切る。両手が使えたので、難なく終えることができた。
「それで、ここからはどうやって出るんだ?」
手首に残った痣をさする。俺よりも長い間、縛られていたであろう彼女の手首の痣は、白い肌に際立って赤く、とても痛々しかった。
「言ったでしょう、ここに何度も来ているの」
彼女は得意げに、といっても、俺にはそう見えただけで、彼女自身は得意でも何でもなかったと思うが、とにかく彼女は狭い空間に膝立ちになって、後ろのガラクタの山を探し始めた。
「何を探しているんだ?」
俺も手伝おうと思って尋ねる。
「もう見つかったから、大丈夫よ」
彼女の手にはかなり大渕の金槌が握られていた。
「ここの板はもう古いから、これで破れると思うわ。彼が物音に気づいてあがってこないかどうか気がかりだけど、この雨音じゃ心配ないかもね」
なるほど、ここのガラクタの山も、ここの建物の仕組みも、全て知っているということだ。犯人はずいぶん間抜けらしいな。こんなところに、何度も同じ人間を閉じ込めておくなんて。
俺は白崎からその金槌を受け取って、引き戸を叩き始めた。バキ、という音とともに板が割れる。これならいけそうだ。俺は今度は勢い良く金槌を振り下ろした。
狭い穴から二人とも抜け出すと、反対側の押入れから叫び声が聞こえた。
「おーい!誰か!」
紛れも無く佐々の声だった。金槌で壊して中を覗くと、佐々が俺たちと同じように手首を縛られて横たわっている。
「待ってろ、今助けてやる!」
何とかカギを壊して、扉を開ける。中は思ったより狭く、佐々は息苦しかったのか、出てすぐに大きく深呼吸をした。
「思いっきりぶん殴りやがって、死ぬかと思ったぜ」
「頭の傷は、大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃねえよ。すっげえ痛い。たんこぶできてやがる!」
頭をさすった佐々が声を上げた。それだけ元気なら大丈夫そうだな。
「ささっとここから離れよう」
見つかっていなかったら、窓に立てかけた梯子はそのまま残っているはずだ。可能性は低いかも知れないが、それでも二階なら、梯子を使わなくても降りられないことはないだろう。
俺たちはドアの陰から、廊下を窺った。すると、窓の傍で外を眺めていた白崎が俺たちを呼び止めた。
「どうやら、その必要はないようよ」
「何でだ?」
「聞こえない?」
白崎が耳を澄ます。俺たちも、彼女に習って耳をそばだてた。すると、雨音に混じって、覚えのあるサイレンが聞こえてくる。
「警察!」
そうだった、俺はきちんと通報してから来たのだ。
「あら、あなたが通報したの?でも、忘れるなんて、用心深いのか、抜けているのかわからないわね」
彼女は満足そうに笑って、観音開きの窓を開け放った。土砂降りの雨など気にすることも無く、身を乗り出して、澄んだ声で叫ぶ。その声音は、事件の被害者のものらしくなく、まるで友人に呼びかけるように明るかった。
「ここです!助けてください!」
その後のことは、ここに書く必要はないだろう。
事件から数日が経って、犯人が逮捕されたと報じられた。新聞にも、一面ではなかったがそれなりのスペースは確保されて掲載された。もちろん、俺たちの名前も、被害者である白崎の名前も載ってはいなかったが、犯人の名前はきちんと明記されていた。
江藤 大己(えとう だいき)(45歳)
元東脇高校体育教師
犯人は今年の五月にも、同校で問題を起こし、退職処分となっていた。
俺たちはその名前を見て、驚かずにはいられなかった。もっとも、俺たちが学校で再会したのは、お互い雨の中、小一時間走り回っていたせいでこじらせた風邪を完治させてからのことだったが、新聞記事を見て、佐々がすぐに、もはやLINE友達である白崎に連絡を入れた。
『てっきり、知っていて乗り込んできたんだと思ったわ。そうじゃないと、住所なんてわからないでしょう?それに、表札を確認しなかったの?――ええ、そうよ、学校に頼んで、公表しないように頼んでいたの。あの時、ちゃんと警察に話していれば、あなた達を巻き込まずにすんだのに、申し訳なく思っているわ。ごめんなさいね』
「だってよ」
通話が切れてから、佐々が言った。俺はため息をもらす。
江藤が不祥事で退職になったのも、白崎が不登校になったのも、今年の五月、同じ時期だ。いつからかはわからないが、彼女は江藤に目をつけられ、今回のように、強引に家に連れて行かれることが多々あったのだろう。しかし、江藤は学校にばれ、白崎も教室で授業を受けられなくなった。同様の事件が今後起きては困る、そういう学校側の勝手な都合で、白崎を誰にも目に付かない場所に追い込んだ。江藤は江藤で、自分が退職になったのを、白崎のせいだと逆恨みした。しかし、白崎への欲情も抑えられなかったのだろう。だから、誘拐して犯してから、殺そうと思った。後に警察と、事情を聞いた白崎からそう教えられた。
「そういえば、白崎さんに過去能力が効かない理由、わかったのか?」
学校の屋上で、佐々が俺に尋ねた。秋が深まり、少し肌寒くなってきた。西に沈んでいく夕陽が屋上を照らしている。
「何でそう思うんだ?」
「いやにお前がすがすがしい顔しているからだよ」
そんな顔しているだろうか?俺は自分の頬に触れた。
「引っかかった。やっぱり、理由わかったんだな」
してやられた。俺はむっとしてぶっきらぼうになる。
「そうだよ。――彼女は、幸福とか不幸とか考えたことがないって言ってた」
他人と比べるのは無意味だ――、彼女は言った。自分は自分で、自分でできることを、やるしかないのだと。その結果は自分のものなんだと。
「なるほど、やっぱり、変わってるなあ、白崎さん」
佐々はフェンスにもたれかかった。
「そうだな、でも――おかげさまで、何で過去能力が効かないのかがわかったよ」
白崎は、幸福と不幸という価値観を、有していなかった。主観的価値観が無かったのだ。過去能力はその対象の、主観的価値観に反応して作用するらしい。
「でも、未来能力は効くわけだろ?」
「未来能力は、主観的じゃないんだ。客観的価値観なんだよ。客観的といっても、俺しかいないが、俺が勝手に判断して、その人の幸福や不幸をそうと決め付けているんだ」
白崎は、今回のことも、駅でのことも、不運だと感じてはいなかった。なのに、俺は俺の価値観で勝手に判断して、他人の幸福や不幸を決め付けていた。この能力は、なんて身勝手な能力なんだろう。
「ま、それでも、目の前にいる人が不幸に合うとわかってたら、助けるしかねえだろ」
佐々が隣で、うんっと伸びをする。
「白崎さんも、そう言ってたんだろ?自分で出来ることをやるしかねえって。俺も、同意見。でも、俺はできないところを皆でカバーしたら、もっといろんなことが出来るんじゃねえかって思う」
眩しいのか、佐々が手で額にかざした。俺は、右目にしたアイパッチを、そっと指の腹でなぞった。
「佐々」
「ん?」
「俺の能力は、呪いじゃないよな?」
俺は沈んでいく夕陽に目を向けながら尋ねた。
「ばーか。お前が能力って思ったんなら、呪いじゃねえよ」
言葉がきらきらと、夕陽に輝いた。
人はみな平等だ、と誰かは言うが、俺はそれがたいてい、合っているのではないかと思う。たいてい、というのは少しいい加減な言葉だが、俺はそう思いたいのだ。そう、これは俺の希望なのだ。幸か不幸か。それぐらい、自分で決めたいと思うのだ。自分で決めてもいいのではないかと思うのだ。幸せは自分の心次第なのだと、そう思わずに生きていくには、この世界は少し、不平等なのだから。
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