第3話
「でも、あんたがいうように、幸運の後に不運が起こるのなら、今回私は助かってまた幸運を得たわけだから、今度は大きめの不幸でも待ってるのかしらねえ」
これは、前述した長い長い説教の最後で、母がふと漏らした一言なのだが、この言葉は俺に大きな影響を与えた。具体的に言えば、俺が自分の持つこの変な力と向き合う必要性を早めに教えてくれた、ということだろうか。もっとも、母は「あんたを叱らなきゃいけないことが不幸だわ」といって終わっていたが、これは真相を知っている俺にとっては一大事であった。
つまり、この事件は、まったくもって母の不幸であったということである。母は俺が棚をいじくったせいで鍋が落ちてきたと思っているが、実際には俺はその棚を触ってないし、俺が触ってないとなると、母が棚を整理した朝から、あの時までその棚を触る者は誰もいないのである。つまり、超自然的に、鍋は崩れるに至り、俺が気づかなければ、母は鍋雪崩れにあっていたということである。そこで俺が母に言った仮説、幸運の次に不運があるというものがもし成り立つとしたら、母は受けるべき不運を、俺の能力によって幸運にも回避した、ということである。俺の文章力がひどい有様で大変申し訳ないが、俺が言いたいのはこういうことである。受けるはずの不運を幸運にも回避した場合、次に被るのは、受けるはずだった不運プラス不運を避けるために使った幸運の分の不運となり、最初の不運の二倍の不運になるのではないか?
俺は台所に行った目的である冷蔵庫のコーラの存在をすっかり忘れ、自室に引き返した。ごろりとベッドに寝ころがり、しばらく見慣れた天井を見ていた。天井のシミなんて探したことがなかったが、必死になって探した。とにかく頭を真っ白にする必要があったのだ。頭痛がその行為を幾分か妨げてはいたが、次第に俺は天井のシミに集中するようになった。天井には俺の目で確認できる限り、三つはあったかと思う。天井を一回りして、しばらくぼーっとしてから、俺はおもむろに立ち上がった。そして形だけの勉強机から、長らく放置されて日に焼けたまっさらなノートと、その辺に転がっていた短い鉛筆を引っ張り出して、またベッドに寝ころんだ。そして、少しずつ頭を回転させた。
俺はもともと人よりひねくれた性格をしているため、何かと頭の中でもやもや考えたりすることはよくあった。頭の中で考えたことは結局、行動に移される前にもう一人の自分とやらに全否定され、もともとなかったことにされるか、もしくは、途中で考えるのが面倒になり、書けない作家がやるようにくしゃくしゃと丸められて、ごみ箱へポイ、とされるかのどちらかが多かったが、それでも折に触れ、いろいろなことを考えた。俺の持つこの変な能力も、あれこれと考えすぎるこの性格のせいで生まれたものかもしれないと彼女は言っていたが、俺もその影響は少しあるのではないかと思う。そして、俺はこの能力について考え始めた。でも今回は何となく、もやもや考えるのではなく、考えなければいけなかったのだ。
まず、俺は事実を再確認することにした。ノートを開き、「事実」とだけ項目を書く。わかりやすいように、箇条書きにした。以降はそれの写しである。
○事実
・人がこれから経験する幸福または不幸が見える
・人の人生の幸福度や不幸度が見える
・一度に多くの人の幸福度や不幸度がわかる
・最初にこの力を得てから、三日間眠り、覚醒してから力はなく、二日後にもう一度力を得た。
・もう一度力を得てからは倒れていない(見たのは母親一人のみ、最初は一度に大勢見た)
・再び力を得たと発覚した十分ほど前から、頭痛がしだす
憶測が入らないよう、事実だけ書くように注意したが、それはかなり難しく、何度も修正しなければならなかった。最後の頭痛に関しては曖昧な時間となってしまったが、そこは妥協する。
俺が把握している事実は、この六項目のみであった。ここから様々な憶測、仮定があふれ出てくるが、俺はまず、この事実が確たる真実であるかどうかを確認する必要があった。俺はひとつずつ、確認作業を行うことにした。
翌日の早朝、俺は夜型の体に鞭打って、何とか布団からはい出した。確認作業に朝を選んだのは、最初に力を得た時のように、一度にたくさんの人を「見た」ために昏睡状態になったという可能性を防ぐためだ。きっとみんなは意外と俺が行動派であることに驚いていると思う。でも、残念ながら前に述べたように、俺は行動派じゃない。ではなぜ行動しているのか。それは焦っていたからである。何せあと六日間しか、夏休みが残っていなかったのだ。夏休みが終われば、俺は必ず外へ出ていかなければならない。それがどれほど嫌で面倒を伴うものであっても、学生という立場に身を置かせてもらい、そして親に養ってもらっている以上は、学校に行かなければならない。それは、惰性から引きこもりになった俺でも、理解していることであった。しかし、学校というのは教室という小さな空間に、人が大勢詰め込まれている場所である。今、自分の変化について何も知らない状態で、そのような場所に出ていくのがとても危険だということは、いくら頭が悪い俺でもわかりきっていることだ。俺は何とかなるだろう、なんて思えるような楽観主義者じゃなかった。
とにかく、俺は早朝、具体的には朝の五時過ぎに外へ出た。夏だから外は白々と明るくなってきていた。八月の終わりとはいえ、この時間帯はまだ涼しく、外を歩く俺はとても気持ちがよくなった。朝という時間は不思議なもので、アン・シャーリーの見た美しい景色とは比べ物にならないくらい、俺の街は都会すぎるが、それでも俺の心は透明になり、風通しがよくなったような気がした。朝に起きている、それだけで心は満ち足りた気分になるのだ。
目的地の公園につくまで、俺は誰ともすれ違わなかった。家から十分ほどのその小さな公園は、都会の中にあるにしては、きれいな花々が植えられている、整理の行き届いた公園だった。近所のおじいちゃんやおばあちゃんの憩いの場として親しまれていて、真夏のこの季節には、背の高い向日葵がせっせと朝日に媚びを売っている姿が、入り口から公園の奥にまで見られた。ひとまず俺はベンチに腰掛け、誰かが来るのを待った。ここは駅までの近道となっているから、必ずだれか通るだろう。俺は前日にメモしたノートを出した。事実を忘れないようにするためと、確認するたびにチェックしようと持ってきたのだ。
ちなみに、記載していなかったが、昨夜、俺は母をあれから二度見ている。晩御飯の時と、寝る前だ。どちらの時も、幸福と不幸のバランスは少し幸福に偏りかけ、これから起こる幸福や不幸については見えなかった。幸福に少し偏りかけているのが、前からなのか、夕方の一件があったからなのかはわからない。
さて、話を戻そう。俺がベンチに腰掛けてから十分ほど、腕時計を見ると五時半前ほどだったと記憶する。俺は目の端におじいちゃんをとらえた。おそらく朝の散歩でもしに来たのだろう。杖をつくほどではなくしっかりとした足取りで、しかしゆっくりと公園へ入ってきた。そして、俺は「見た」。そのおじいちゃんの幸福と不幸のバランスは、ほぼ均等であった。おそらく幸福が不幸に勝っていたように思えるが、それは微量で、見えないほどだったのだ。そして、これから起こる幸福や不幸は見えなかった。俺はノートの二つ目の項目、「人の人生の幸福度や不幸度が見える」にチェックをつけ、「今のところいつも」と付け足した。
そのあとも結果はほとんど同じだった。多少幸福と不幸のバランスが違うことはあったが、みんなほとんど幸福と不幸のバランスは均等で、先の幸福と不幸は見えなかった。誰一人として、幸福と不幸のバランスが見えなかった人はいなかったので、俺は「今のところいつも」の部分を、「いつも」に書き換え、さらに、「人がこれから経験する幸福または不幸が見える」の部分に、「たまに」と付け加えた。こうして俺は、通勤通学時間が来る前にそそくさと公園をあとにしたのだ。
それから俺は三日間、同じことを繰り返した。同じこととはつまり、朝五時過ぎに公園へ行き、七時には家へ帰宅する、ということだ。そして、家では母の観察を続けた。面倒なので、詳細は省く。いい加減だと思わないでほしい。同じことをした結果、同じ結果しか得られなかったのだ。つまり、進捗はなかったということだ。一応、少なからず得られたことを分析してみる。公園にて、一度に「見た」のは最大五人だった。少し頭痛はひどくなったように感じられたものの、気分が悪くなったり、めまいがしたりといったひどい症状は感じられなかった。これで俺は一度に五人までは、倒れる心配なく「見る」ことができることが分かったわけだが、たった五人だけでは、学校どころか、コンビニに買い物すら行けない。俺の不安は増しただけだった。
とりあえず、夏休み終了まであと三日の時点で、俺の知る事実は次の通りだった。何か所か付け加えたので、改めて載せておく。なにせ、今もパソコンに向かう俺の隣で、ワーワーうるさいこいつが手伝ってくれるようになってからは、かなり俺のノートは汚くなっていくのだからな。
○事実
✓・人がこれから経験する幸福または不幸が見える(たまに)
✓・人の人生の幸福度や不幸度が見える(いつも)
✓・一度に多くの人の幸福度や不幸度がわかる(今のところ、最大五人)
・最初にこの力を得てから、三日間眠り、覚醒してから力はなく、二日後にもう一度力を得た。
・もう一度力を得てからは倒れていない(最初は一度に大勢見た)
・再び力を得たと発覚した十分ほど前から、頭痛がしだす
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