第2話
退院して二日目の午後に、それは突然俺を襲った。それ、というのは、これから俺が “病めるときも健やかなるときも” を誓わなければいけなかった、憎しみを通り越してむしろ愛さえ感じる、頭痛、というものである。彼女に言わせると、更年期を迎えて、女性特有の痛みと煩わしさが無くなってしまったときの感情と似ているんじゃない?とのことだ。本当かよ。ともあれ、俺はその日から頭痛と共に生きていかねばならない運命に立たされたのだが、その頭痛は、俺の奇妙な能力と密接に関係しているらしかった。その頭痛が始まった午後四時、俺は俺の奇妙な能力を、再び取り戻していたのだ。
取り戻してから初めに見たものは、自分の母親だった。なんせ夏休みで、部活もしておらず、ひっきーだった俺の見る人間とすれば、母親ぐらいしかいない。悲しいことに。とにかく、俺が突然の頭痛を抱えながら、自分の部屋から台所の冷蔵庫に、大好きなコーラを取りに行こうとしていた時に、俺は台所に入っていく母親を見たのだ。そして「見えた」のだ。
そのとき母に「見えた」のは不幸だった。母はおそらく、夕飯の用意をしようと台所に向かったのだろう。そして流し台の上にある棚を開けるのだろう。夕飯の調理に使う鍋を取り出すために。母は開ける。すると雪崩れてくる。鍋の山が……。
そこまで考えて、俺ははっと我に返った。我に返ったという表現が正しいのかはわからないが、わからないというのは、俺の中に流れてくるイメージが、果たして俺が実際に考えていることなのか、はたまた、イメージが勝手に脳内に流れ込んでいて、俺はそれを「見ている」に過ぎないのかがはっきりしないからだ。おそらく前者なら我に返るという表現はあっているのだろうが、後者だと、乗っ取られている状態から解放される、というほうが感覚的には近いと思う。しかし、それがどちらなのか、その時の俺はまだ定かではなかったし、そんな感覚の表現をいちいち吟味している暇などなかった。
感情の第一に驚きが来た。そして第二に、防がなければ、と思ったのだ。先日の犬のおばさんが、思ったよりも俺に大きな影響を及ぼしていたらしい。とっさに俺は「母さん!」と叫んでいた。
「なに?」
ひょっこりと顔を出した母は、どうやらまだ棚を開けていなかったらしい。間一髪。ホッとため息をついた。
「何なの?今から晩御飯の支度をしないといけないから忙しいんだけど」
まあ、男子高校生、しかも引きこもり、に対する母親の態度とは、このようなものだろう。全国水準で見ても俺の家はおかしくないはずだ。よな。うん。とりあえず冷たい。こんなもんだろう?
俺の母親は冷たく怪訝な顔で俺を見て、早々に台所へと戻ろうとした。呼んだくせに何も言わない俺を見て、変な子ね、とでも言うように。だからまた俺は慌てて呼び戻さなければならなかった。
「ちょっと待って、ちょっとこっち来て」
母はさっきよりももっと怪訝な顔で出てきて、また「何なの」とつぶやいた。
母が俺のところまでやってくるまで、実際の時間はおそらく二、三秒かと思われるが、俺はその数秒の間に、一体母にどうやってその不幸の訪れを説明すればいいか、頭をフル回転させなければいけなかった。おそらく、というよりほぼ確実に、正直に話して、はい、そうですか、とはならないことはわかりきっていた。ならどうする?ここは母に危険の存在を気づかせるだけにとどまるべきか……。そうこう考えているうちに、二、三秒が過ぎた。俺がとっさにとった危機回避方法は、我ながらあきれるほど下手くそな方法だったと思う。
「母さんさ、最近何かいいことあった?」
「は?いいことって……ああ、そういえばこないだ買った宝くじ、三千円だったけど当たっていたのよ。それぐらいかしらねえ」
自分の母親ながら、幸運がそんなしょうもないことでちょっとあきれたが、俺は続けた。
「じゃあ、次はきっとよくないことが起こる気がしない?ちょっとした小さなことかもしれないけどさ――ほら、例えばさっき開けようとしていた棚から鍋の山が転がり落ちてくるとか」
「何言ってるの。そんなこと考えていたら、どれだけ小さな幸運があっても次に起こる不幸を待ち構えてびくびくしてなきゃダメじゃない。それなら小さな幸運も台無しね。変な妄想してないで部屋の片付けでもしなさい」
「妄想じゃないって!こないだ母さん、あの棚に鍋をぎゅうぎゅうに押し込んでたから、絶対に雪崩れてくる。嘘だと思うなら開けてみなよ。ただし注意しなきゃ、かなり痛い目を見ると俺は思うね」
呆れた顔半分、困り顔半分、といった具合で、母は仕方がないとでもいうように肩をすくめてゆっくりと戸棚を開けに戻った。その母の後ろ姿は、さっきよりも幾分か、背負う不幸が軽くなったように思えた。
俺は台所の手前の、見えるか見えないかの位置で立って、そっと様子をうかがっていただけだが、母が慎重に戸棚を開けるのが分かった。そして――
ドンガラガッシャン!カランカラン……
というけたたましい音が家中に、いや、俺の家はマンションだから、お隣さんにも、上下の階のそのお隣さんにも、おそらく同様のうるさい音が聞こえたことと思う。
――この駄文をここまで読んでくれている皆さまから、ちょっと待て、その音の表現は何だ、センスなしか、それはないだろう、なんて苦情が来ることは重々承知の上だ。だが、断言しておきたい。これはありのままの事実をそのまま文字にしただけのものであって、一切脚色はしていない。俺の曖昧な記憶力というスパイスは少々効いているかもしれないが、それはもはや事実として、認められてもいいほどの妥協の範囲内であると思うのだ。だって、それを言い出したら、ここに書くすべてが俺の記憶色に染まっている。とまあ、突っ込まれるだろうことと、それに対する言い訳を述べさせてもらったが、正直言って、音の表現なんてどうでもいいだろう?とにかく、それほど典型的で面白味のない演奏を響かせながら、鍋という鍋が、床に散らばっていったのだ。そして最後の鍋が音の余韻を残したまま静止するまで、母は無表情で立っていた。
「ほら」
俺は一言だけ、ちょっと得意げに言ってみた。母はちょっと俺を見てから、拾うのを手伝えとでもいうように落ちた鍋を顎でしゃくった。
「なんでわかったの?」
拾いながら、母が俺に問いかけた。
「言ったじゃん。前に押し込むとこ見てたって」
「それはない。今朝、ここの棚整理したところなのよ?押し込んだりしていない」
「あ、そうなの」
と、素で返事して、しまったと思った。秒で嘘がばれてしまった。他に何か言い訳――
「あんた、絶対ここいじくったでしょ。何しようとしてたの!」
「へ?」
「私がいない間にいじくったから、せっかく整理したのに落ちてきたんでしょう?何したのか正直に言いなさい!」
悪いことをしたのにしてないと信じられて、褒められた時の罪悪感は経験したことがあるが、濡れ衣を着せられた時の焦りようは、この時初めて経験した。なるほど、いわれのない罪で非難されることはこんなにも歯がゆいことなのだ。
しかし、今回は棚から牡丹餅、鴨が葱をしょってくるとはこのこと、俺は母が持ち出した冤罪に盛大に食いついた。それはもう、ガブリと。
「――ゆ、ユーチューブで見た実験をちょっと俺もしてみたくて」
「出たわね、ユーチューブ!」
もちろん、ユーチューブとはあの世界的動画投稿サイトのことである。最近の若者で使わぬものはおらぬ、と言っても過言ではないだろう。自分で撮った動画を自由に投稿し、世界中の人に見てもらうことが可能で、また、もちろん自由に他の人が投稿した動画を閲覧できる。しかも無料でだ。すごいだろう?俺が胸を張っても意味はないが。
とりあえず俺は、母親も呆れるほど、このユーチューブにどハマりした人間の一人だ。しかし、投稿者側でなく閲覧者側でだが。そして、俺のお気に入りの投稿者は、よく変な実験をしていて、たまに俺はそれを家で実践し、そしてわかっていたが大惨事を引き起こしたことが過去数回あった。そのたびに母に怒られてきたのだが懲りずに続けて、いい加減にしろと、目下、ユーチューブ実験禁止令が発動中である。しかし、目を盗んではやり続ける。そういうものだ。
「あんたはまた!もう!」
「未遂!未遂だから許してください!」
自分の演技力に感動しながら、俺はひたすら自分に罪をなすり続けた。今思えばこれは演技ではなく、過去の怒られた思い出の感情を、なぞっているにすぎないわけだが、この時は俳優顔負けの演技力!と内心自分に惚れ惚れ、そこまでではないが、意気揚々と嘘をついた。
こんな感じで、俺は何とかその場を逃れたのだが、いや、逃れたわけではないか。過去の分を合わせて、さらに関係のない日常のことまでしっかりと説教を受けることで、その場を収めることができた。目標であった、母の身に起こるはずであった危険を回避できたのであるから、まあ良しとしようではないか。
かくして、俺は昏倒していた間を入れると約五日間の期間を要して、もう一度、この奇妙な力を半永続的に手に入れることになったのである。半永続的に、というのは、単にこの時から執筆している現在まで、また力を失うといったことがなかったというだけである。現在からそれ以降は、さすがの俺も単純な未来は予測できないのでわからない。とにかく力は、この時から俺の愛しき頭痛とともに、俺の中に住み続けることにしたらしかった。
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