部長と絵クジラの夏
いづみ上総
第1話
「ねえ、絵鯨って知ってる?」
石膏に向きあってデッサンをしていると、部長はそんなことを口にした。
ふと手を止めると、油絵にハケを這わせていた部長がこちらをみていることに気付いた。まとめられていた髪はほどかれ、夜を散らしたような長い黒髪が背中に流れている。
うるさいセミ達がシワシワと熱狂している。
彼女の前にあるキャンパスには精緻な風景画があり、平面であるはずの四角形には、限りない奥行きが広がっている。
イーゼルに立てかけられているのは海だ。
大海への扉。そんな単語が脳裏をよぎる。
「なにそれ? 絵鯨って、美味しいんですか?」
例によって、ボクは儀式(イニシエーション)のように使い古した言葉を漏らす。知らない、とただ無為に口にするのは悔しいから、負け惜しみのように茶化すのだ。
「食べられるのかは分からないなー」
どこかの海に繋がるキャンバスの前で部長が眉を寄せる。飾り気のない、だけど魅力的な表情だ。
そんな部長の指が、天井を指さし、スゥっと虹でもたなびかせるようにアーチを描く。白魚の指がトビウオの軌道をなぞる。
「絵クジラは泳ぐの。旅をするんだよ」
断片的で、抽象的な言葉。校内でも有名な美人が振り絞る主張。それらは決まって僕ら凡人の理解を超える。
彼女は絵の天才で、芸術に愛されたような美人で、それ以外がなにもかも残念だ。だから、友達もいない。いくつものコンクールで入賞していても、美術の部員はボクと部長だけだ。
顧問の先生ですら、彼女の変人っぷりに音信不通になった。もう半年も前のことだ。
「旅をするんですか」
そう。とうなずく部長。その目は真剣だ。どうやら絵鯨とやらは旅をするらしい。まったく要領を得ないが、それだけはボクにも理解できた。
「絵の中を泳ぐんだよ。ズゥア、ヴァブシャーって!」
その擬音はどうなのだろうと思ったが、絵鯨というだけあって、その住処は海ではなく絵の中だという。
ふぅむ、鯨なら狭いキャンパスの中はさぞや窮屈なのではないだろうか? などと絵鯨に同情する。あるいは、窮屈だからこそ旅をするのかもしれない。
部長の絵に鯨はいないですね。などと言ってみる。
「来たら困る。せっかく描いたのに食べられるのは嬉しくない。でも、見てみたい」
ボクの冗談に対する部長のシンプルな感想。なるほど、絵鯨は絵を食べるのか。
たしかに絵を食べるなら困る。へたくそなボクでも一生懸命描いた絵が、得体の知れない存在に鯨飲されてしまうのは喜べないだろう。
ましてや部長は、絵を描くという行動を、むりやり美人の体に詰め込んだような人だ。戦々恐々さもありなん、といったところだろう。
「絵鯨って、やっぱり大きいんですか?」
大きければ食べる絵も多いのだろう。世界中の画家を阿鼻叫喚に陥れるなら、ちょっと困りものだ。
「さあ? 見たことないから……」
新しいキャンバスにガシガシと色を塗り付けながら部長が答える。今日だけ三枚目の絵だ。精緻な細部と繊細な色使いのわりに筆のタッチはダイナミックだ。
パレットに彩りが加わり、キャンパスは厚みと完成度を高めていく。ツンとした鼻腔に残る絵具の芳香がまざり、夏の日の記憶としてボクに記憶される。
「見れるといいですね」
「そうね」
会話はそこで途切れ、ボクはデッサンに部長は新しい海を創造することに没頭する。
鉛筆が半分ほどになり指先に黒い粉がこびりついた頃、混沌とした香りがこびりついた美術室に斜日が差し込んでいることにボクは気付いた。
ずいぶん、こうして腐心していたようだ。少しお尻が痛い。部長もそうなのだろうか、などと不埒なことを思い浮かべて猿のように反省する。もちろん、心の中で。
スケッチブックは石膏像のベストアルバム状態だ。みんなバストアップでインディーズ感がはなはだしい。もっとお金をかけて着飾らせたくなる。
「おなか空いた」
どこまでもシンプルな部長にプッと吹き出す。ここでお菓子を取り出せるような女子力も、帰りにおごりますよと甲斐性をみせるだけの男子力もないボクは、「そろそろ、かえりましょうか」というのが精一杯。
我ながら情けないこと。
散らばった画材をひとまとめにして、石膏像を元の位置に戻す。広げていたスケッチブックを持ち上げたとき、ふと、日差しが翳る
薄暮に包まれる美術室をなにかが横切る気配がした。白塗りの壁に大きなヒレが見えた気がした。
しきりに部長が瞬きをしている。
「見ちゃった。絵クジラ」
困惑と喜びの入り交じった視線の先に、首だけになってしまったボクのスケッチが残されている。どうやら食べられてしまったらしい。部長は、その瞬間をみたらしい。
二度見しても、三度見しても、ほぼ白紙になったページだけが残されている。
なにこれ? デッサンって美味しいの? 石膏像なんか食べてお腹を壊さないだろうか?
努力の成果が絵鯨に美味しくいただかれてしまったスケッチブックと、ぴょんぴょんと可愛らしいジャンプを繰り返す部長。
そんなレア現実を目の当たりにしたボクは、どうリアクションをすればいいのか分からないまま、果てしなくカワイイ行動を繰り返す部長の前で立ちつくすのだった。
部長と絵クジラの夏 いづみ上総 @ryoutei_izumiya
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