あんぱん
夫が病気で病院生活。
休みの度に病院に通い、話をする生活。
ある時、
「縁子、いつもありがとう。でも私に構ってばっかじゃなくて何か、楽しみを見つけてくれると嬉しいな」
夫がそう言うので、
「そういうのはいいわ、あなたと一緒ならそれで充分よ」
そう言ったのだが、何か新しいことにチャレンジしてみて欲しいと懇願されて、私はパンの料理教室へ通うことにした。
桜色のエプロンをまとい、先生がみんなに話しかける。
「今日はクリームパンを作ろうと思います」
「あら、今日は簡単なのね」
「そうですね、あ、紹介します。今日から参加される風見さんです」
「風見です、よろしくお願いします」
私はパン教室のみなさんに頭を下げた。
「パンはね、こねる時に結構力使うのよ、これが大変でね。でも出来上がった後のおいしさの事を考えるとつい頑張れちゃうわ」
一緒にパンを作っている宮原さんがパン生地を捏ねながら言った。
「そうみたいですね、私もう手がパンパンになりそうです。どんなパンになるのか楽しみですね」
宮原さんの方を見て笑いながら、生地を捏ねていく。
20分ほどすると、
「さて、生地はこんなもので良いでしょう。少し置いて発酵させる間にカスタードクリームを作りましょう」
先生が、表面をきれいにならして丸める手順を教えてくれる。
30℃くらいの場所で1時間温めると生地が倍に膨らむらしい。
発酵させている間にカスタードクリームを作る。
そうしている間に発酵していった生地を見ると大きく膨らんでいた。
「初めてみるとびっくりするわよね。これがフワフワになる元なのよ」
宮原さんが隣について丁寧に教えてくれた。
「あまり端っこにクリームを乗せると焼いてる間にはみ出ちゃうから気を付けてね」
私は注意しながらクリームを包み、パンの形を整える。
そして再び発酵させてからオーブンで焼いたら、見事なクリームパンが出来上がっていた。
「さぁ、みなさんで試食しましょう」
先生と一緒にお茶を飲みながら、自分たちで作ったパンを食べる。
料理教室も井戸端会議みたいで楽しいかもしれないなとちょっと思った。
「また、次もいらしてくださいね」
帰る時、宮原さんも先生もにこやかに私を見送ってくれた。
私は今日も病院に来て、夫に話しかける。
「最近、パン教室に行っているのよ。あなたにも食べて欲しいわ。あなたはいつもあんぱんばかり食べるから、あんぱんが良いかしらね? でもまだあんぱん習って無いのよね。あなたはこしあんの方が好きだったわよね。粒あんもいいけど、こしあんが好きでしたね。だから私がこしあんを家で作ったこともあったりしたわね、結構裏ごしするのに疲れたわ、でもあなたはちょっと甘いとか、あんこにはうるさいんだもの。いつもの食事は何でも美味しそうに食べるのに、せっかく頑張ったんだから誉めてくれてもいいじゃない? そう思ってもあなたがペロリと食べちゃうのを見るとついつい許しちゃうのよね」
「そうか、縁子の作ったパンを食べてみたいな」
夫はそう言ってゆったりと笑う。
ほとんど私が一方的に話しかけて、夫が笑って一言、二言発するのを聞いている。
毎日いったいどれだけ話すことがあるのだろうかと自分でも関心してしまう。
桜の散る季節。私は彼からプロポーズをされた。一面に咲く桜の木の中、舞い散る花びらの中で彼の言葉は私の琴線に触れた。
「不器用なのね」
私は彼に言う。彼はプロポーズをしながら、手紙も一緒に渡してくれた。
「言葉じゃ伝えきれなくて」
彼は照れ臭そうに言った。顔がほんのり赤い。手紙を渡す手は震えていた。
私は手紙と一緒に、彼の手を掴んで
「ありがとう」
といった。自分の手も一緒に震えていたのを覚えている。
夫は病状が重くなるとほとんど会話できなくなっていった。夫が横になっているのを見ながらあの日の事を思い出している。
夫の手を握る。あの日みたいに震える事は無いけれど、やっぱりちょっとドキドキするね。いつの日か、また手紙をくれるのを信じて私は彼に話し続ける。
「今日はあんぱんを作りましょう」
パン教室で先生が言った。あぁ、ついにこの日が来たなと思った。
「風見さんはどんなあんぱんが好きですか?」
先生に聞かれる。私はあんぱんのイメージを思い浮かべる。そこにはいつでも夫がおいしそうに食べているあんぱんの姿があった。
「桜の塩漬けがのった、皮はちょっと薄めのこしあんぱんですね。あんは甘さ控えめがいいですね。それで表面はほんのり茶色くて、桜の塩漬けのしょっぱさがあんと一緒に食べると妙に合って……」
先生も他の生徒の人も和やかな様子で聞いてくれている。
「結構具体的なイメージがあるんですね」
私は少し恥ずかしくなって小さく頷いて「えぇ、まぁ」と答えた。
「せっかくですから、風見さんリクエストのあんぱんにチャレンジしてみましょうか?」
「えっ、そんな」
「いいじゃない、風見さんの話聞いていたら、私なんだか食べたくなっちゃたわ」
「そうね」
宮原さんが言うと、他の生徒の人も和やかに同意してくれた。
ここの料理教室は先生が言ったものを作るだけというよりは、生徒それぞれの思い出を聞いたりして、その味を再現しようとしたりする。いつもうまくいくわけじゃないけど、そこはさすが先生、どう転んでも逸品の美味しさに仕上がっている。
私たちはあんぱんを作って試食する。
「風見さんのイメージは合ってるかしら」
「そうですね、あんこの甘さが加減が絶妙で、なんで先生知ってるんでしょうかと思うくらいです」
「ふふっ、気に入っていただけて良かったわ」
あんこの甘さも、お茶の渋さも、桜のしょっぱさも合間って会話が弾んでいく。
私はこの日のレシピを忘れないようにしっかりと手帳にメモをした。
「ねぇ、あなた。あなたの好きなあんぱんを持ってきたのよ。今日は私の手作り。結構自信あるんだから。料理教室でもね、好評だったのよ。パン屋に行って何食べたい? そう聞くといつも真っ先にあんぱんって言ってたわね。私がたまにはこのチーズのなんかどう? なんて聞いても、あんぱんは絶対に外さないの。私はもう途中から諦めて何も言わなくてもあんぱんを取るようにしていたわ」
夫は静かに横たわり和やかな表情をしている。
手は少しゴツゴツとしているけども、肌はつやつやで私よりも若々しく見える。
寝ている横で私は彼にあんぱんを差し出す。
いつか食べてもらうために私はあんぱんを作り続ける。
あなたに言われて始めたパン作り、ずっと続いてるのよ。
いつの日か、あんぱんを作るのが日課になっていた。
「なぁ、縁子」
夫が一瞬そう言った気がした。
私ははっとして、夫の顔を見るが目を閉じたまま動かない。
ただ夫の目線が机の引き出しに向いているような気がして、私は引き出しに手を伸ばした。
中には夫の手帳や本が雑然と入っていたが、中に紛れて一通、クリーム色の便箋を見つけ手に取る。
「これは私が夫に送った便箋だ」
プロポーズのお返しに、私が茶目っ気たっぷりに手紙を書いて夫に渡した便箋。
まだ取ってあったんだ。
懐かしく思い、中身を見ている。私が送ったんだから見てもいいわよね。
すると、私が書いた手紙とは別に、もう一通入っているのが見えた。
徐に手紙を広げてみると、最近書かれたであろう震えた字で夫の言葉が綴ってあった。
私は夫の方を見て、夫の頭を優しく撫でる。
「あんぱん、たまには粒あんも食べたいな」
ボソッと聞こえる。ゆっくりと目線を夫の方へ向けると目が開いていた。
「あ、……」
私は言葉に詰まる……。
「粒あんも食べたいならもっと元気にならなきゃね」
なんでこんな事しか言えないのか。
私も不器用ね。
私は彼の頭を撫でながら涙が零れていた。
* * * * * * * * * * * *
お題 『クリーム』 『教室』 『桜』
相手を想う気持ちは、良薬?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます