映画のエンディングのように

 次の日の学校。最近学校ばかり行ってる気がするけど、俺たちは高校生なんだから当然だろ。学校行き過ぎてるからしばらく学校に行かないとかいう無茶な選択はありえないわけで。

 それはいいんだけど、今日も俺は変事に見舞われている。

 レイナさんが見てくる。朝のホームルーム前、十分休み、俺が誰かと話している時、教室移動するその一瞬、およそ自由時間と呼べる全ての隙間、離れた場所から視線を感じた。

「あ~眠いな~まだ授業終わんねえのかよ~」

 こうして堀北と机を囲んで文化祭委員の打ち合わせをする昼休みにも。

「眠いのか? 俺はあんまり眠くないぞ。昨日はたっぷり昼寝させてもらったからな」

 隠微に緩む堀北の口元から、こいつは俺がこの話題を持ち出すのを待っていたのだなと悟った。

「知らねえよ。お前の昼寝の話なんか興味ねえし」

 喋りながら脚を組む堀北。

「それより文化祭委員の話をしようぜ?」

「話を逸らそうとするなよ! あの後帰り道で迷いそうになったんだぞ。普通一緒に帰るでしょ。何考えてんの?」

「だったら私が帰ろうとした時に引き止めればよかったじゃん。待ってってさ」

「無理だろ! そんなタイミング良く都合の良い寝言が飛び出すか!」

「寝てるのを起こすのも悪いしさ、可愛い寝顔してたから」

「あ、あとお前金払えよ」

「おーけー。わかったわかった払う」

「いつ払うんだよ?」

「文化祭が終わったらまとめて清算する。ほらだってカラオケは文化祭委員の仕事で行ったじゃん?」

「それまでずっと俺に立て替えさせるつもりかよ! 嫌な彼女だなあ、絵里は」

「っ!!」

 耳まで赤くした堀北のその表情は、俺に形勢逆転の手応えを強く実感させてくれた。優位に立ったつもりでいた不良少女の一転した悔しい顔はとても絵になるな。

「急に何いってるの、意味わからない! もう知らない。本当はお金払おうと思ったけど払ってあげないから」

「あっそ、別にいらねえよ。腐れ金にこだわる男じゃあないからな」

「は? 喧嘩売ってんのか? おい真智、表出ろよ」

「そうやって俺を人気のない場所に連れ込んで愛の告白するつもりだろ? 俺の純潔を奪うつもりだろ? この痴女め!」

「……あ、もうキレたわ」

 ぷっつんと音が聞こえたような気がした。比喩でもなく。人の体のどこからそんな音が聞こえるのだろう。しかし今はそんな無意味な想念に限られた脳のうんぬんをあれしてる暇はなく逃避するべきだ! やり過ぎてしまった。痴女はいいすぎだわ。

「誤解が無いように弁解しておくけど、俺は痴女大好きだぞ。俺くらいの年の男の子はみんな、痴女大好きです!」

 メラメラと憤怒の炎を湛えた堀北の双眸がかっと見開かれた。その瞳の波動が俺の耳に激痛を走らせた。

「いたたたた あれ? 何で痛いの?」

 目力でここまでのダメージを与えれるわけはなく、疑問を浮かべながら、肩越しに後方へ目を向けると、

「さそりくん……女の子からかっちゃダメでしょ」

 麗奈が怒っていた。よく見ると麗奈じゃなくてレイナさんだった。

「ごめんなさい、堀北さん。私からさそりくんには懇々と説教しておくわ。とりあえず、この場は収めておかない? みんなから注目浴びちゃってるから」

「なんだよ。やっぱり付き合ってんじゃねえか」

 いいさして、気を静めるように深呼吸をした。

「よかったな、良い彼女がいて。彼女に免じてひとまず休戦しといてやるよ」

 ばーか、蚊の鳴くように小さく呟いて、堀北は去って行った。鞄を持ってったということは早退したのだろう。

 争いの当事者の内のひとりが帰ってしまったので、クラスの好奇と侮蔑の視線は必然的に俺に集まってしまう。仲裁者であるレイナさんが、

「もう! くだらないことで怒らせて、どうして女の子に優しくできないの?」

 聞こえよがしに俺を非難した。そのおかげで教室の中に安心したような笑いが起きた。

「ちょっとエロい話しすぎたわ! 後で謝っとかなきゃ」

 道化じみた弁解を大声でする俺を指差して、また笑い声が起こった。


 そして放課後になり、当然文化祭委員の仕事は無いわけで、レイナさんと一緒に帰らなければいけなくなった。自転車を押して歩く俺の肩に寄り添うようにレイナさんがくっついてくる。肩が触れ合うか触れ合わないかの危うい距離。思いっきりパーソナルスペース内に侵入してきている。

 陽は空高くに昇り、高みからぎこちない俺たち二人を見下ろしている。麗奈以上俺未満の背丈のレイナさんを、俺も見下ろす。といってもレイナさんは俺より四センチ低いくらいなので、この時俺が見下ろしているのは胸元の方だ。季節は移り変わりシャツの上にカーディガンを羽織っているレイナさんの膨らみを横目で窺う。

「いつもお疲れだね。文化祭。私も、そろそろ劇の稽古が始まるかも」

 麗奈よりも大人びた唇が言葉を紡いだ。

 間を置いて俺は答える。風がレイナさんの麗奈より長い髪を揺らし、凪ぐまでを待つ。

「俺が悪いんだ。調子乗って、堀北のことからかった」

 しかし厳密にいうと俺だけが悪いとは思えないが、それを考えたらキリがない。明日謝ろう。

「二人は仲良いね。まるで腐れ縁みたいに」

 鈍感でも難聴でもない俺は、普通の男子高校生以上には女子の心情の機微を解せているという自負がある。だから、レイナさんの考えてることも察することができた。

「さそりくん、楽しそうだもん。堀北さんといる時」

 やっぱりだ。

 おそらくレイナさんは堀北に嫉妬しているわけではない。

 今まで、九月の上旬から今日のこの日まで、俺がレイナさんのことを麗奈として扱わず、非情にも遠ざけてきた結果がこれだ。一応は気を遣ってきたつもりだ。無下にはしてない。特別扱いこそしないまでも、普通のクラスメイトの女子としてはそれなりに尊重していたつもりだった。しかし、そんな赤の他人めいた態度はレイナさんの心に暗い影を落とす一因になってしまったらしい。

 俺は黙り込んで俯く。ぽつぽつと語られる言葉に耳を傾けながら。

「幼なじみって段々疎遠になっていくものなのかな……」

 俺は罪悪感に胸が締め付けられた。涼しいはずなのに額に汗をかいた。

 けど、俺にだって理由がある。俺はこいつのことなんかこれっぽっちも知らないのだから。俺の知っている麗奈はもっとうるさくてクソガキで、キックボードに乗っていて……

 こんな奴、知らない。

 さっきの罪悪感とは、詳しく説明すると、ただ単に同じクラスの女子を傷つけてしまったことに対して生じた自責の念だ。

 レイナさんが俺との距離感の開きに心を痛めていようと、俺にはそんなこと関係ない。

 他人なんだ。別人なんだ。だから、勝手に落ち込むなりしてればいい。

「さっきから何なのその態度⁉ 何がそんなに不満なの? 思春期なの、女の子とお喋りするの恥ずかしいの? こじらせちゃう前に克服した方がいいよ。後から後悔しても遅いんだから! 高校卒業して、大学生になっても社会人になっても、いつまでも童貞のままでいいの? 今私に優しくしておかないと、超然絶後のチャンスを取り逃がすことになるよ!!」

「別にそういうわけじゃねえよ」

「っ!……そうだよね。延々と私が幼なじみ面してるの、鬱陶しいよね。成長するべきは私だよね」

 麗奈にはずっと幼なじみ面しててもらいたいものだが。レイナさんは、正直知らない人だしな。

 俺はそのことをハッキリいうべきなんだろう。俺の感じている、違和感と忌避感の正体をよーく噛んで含めるべきなんだろう。レイナさんにとってそれは残酷な真実なのかもしれないけど、早晩伝えておくべき事柄だ。だったら今、いってしまおう。洗いざらいぶちまけてスッキリしよう。

「あのさぁ……」

 かつてこれ程重たい口を開いたことはなかった。この台詞をいってしまった結果、訪れる未来をおもんぱかると憂鬱すぎて胃が重くなる。ジェットコースターで急降下する時みたいに気持ち悪い。けど……

「前から思ってたんだけど……お前さ、俺、お前のことが……誰だか分からないんだ」

「っ⁉」

 どういうこと、予想外の言葉を突き付けられた少女はそう呟いて、

「ふざけないでよ。こんなシチュエーションで、こんなタイミングで、一体どういう神経してるの⁉ もう意味分かんない! 頭おかしいんじゃないの!!」


 号泣、嗚咽、慟哭、落涙。それを文字で表すには色々な表現がある。紅涙を絞るなんていうのもある。

 その中でこの場面を表すに相応しいのは、慟哭。一番惨いやつ。

 やってしまった。

 泣いて、泣いて、涙に声を詰まらせても、まだ泣いた。

 高校二年生の女子がここまで激しく泣くことなんて、滅多にない。

 陽が暮れる前の秋の空に、遮蔽物のない田んぼ道に、世界中を沈鬱に叩き落してしまうような女子の泣き声が響き渡った。鼓膜を震わせるその悲愴に、ようやく俺の心は揺れた。

 悪いことをしてしまった気がする。実際、悪いことをした。非道のそしりもまぬがれない。

 レイナさんとの関係どころか麗奈との関係すら手酷く壊れていく予感がした。

こんな時に麗奈のことを考えるのも悪いことだ。しかし考えずにはいられないだろう。


「うううぅ……ひどい、最低、……さそりなんて……」

「違うんだ。決してレイナを傷つけるつもりじゃ……」

 いや、違くない。俺の心の中には、レイナの存在に苛立って明確に傷つけようとする意思が確かにあったはずだ。レイナだとか、麗奈じゃないとか、そういうことは置いておいて。俺は一人のあどけない少女を泣かしてしまったことに深く反省するべきだ。嘘をつかず、自己弁護もせず、誠意を込めた謝罪をするべきだ。

「俺が、全部悪いんだ。ごめんな、マジで」

 高校生にもなってロクな謝り方もできない自分が情けなかった。こんなんでレイナの涙が止まるわけがない。けど、どうしたらいい?

 昔もこんなことがあった。遠い昔の淡い記憶。あの時も、こんな風に麗奈を泣かしてしまった。

 こんな風に、クソみたいにしょうもない俺は何をしたらいいか分からずオロオロして、近くを通り過ぎる大人に見咎められやしないかビクビクして……

 麗奈はずっと、こんな風に、しゃがみこんで咽び泣いて、

『麗奈、もう泣くなって。ごめんな。もう二度と泣かせたりしないから』

 そう。こんな風に。

 俺はレイナの華奢な背中に手を回して。

 と、うっかりブラジャーのホックに触れてしまい慌てて手を引っ込めた。

「……ほら、立てるか?」

 ゆっくりとレイナさんは立ち上がった。その顔に表情は無く、俺はぞっとした。

「帰る……さそりくん……ついてこないで」

「そんなわけいくかよ。お前一人で歩けるのか?」

 俺は無理に笑顔を作って明るく励ますように、無粋な行動をする。

「そうだ。文化祭、楽しみだな。俺絶対観に行くよ」

 観に行くもなにも俺は文化祭委員なんだから当然だ。こんなこといっても意味が無い。

「駅の向こうにカラオケあるの、知ってるか? 今度の休みにクラスのみんなで行かない?」

「ねえ……」

 つと立ち止まるレイナさん。

「さそりくん、やめて」

 それはいつか見た光景だった。二度と見たくない代物だった。

 泣き腫らした双眸。赤く充血して潤んだ、美しい瞳。その目元にぎりかからないくらいの黒い前髪。きつく噛んだ薄い唇。

 穏やかな風が吹いて、柔軟剤の甘い香りがした。

 暮れなずむ街、息をひそめる世界、その全ての中心に立つ、可憐な少女。


 あれ、麗奈?? 


 レイナさん?


 一瞬どっちか判別できなかった。

 少女は、俺に見向きもせず、歩み去る。

 その背中に、幾多の謎を内包したまま。遠く小さくなっていく。

 悲しい別れの映画のエンディングのように。

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