第18話 お別れの空
青く澄み渡った空に、うろこ雲が広がっている。
やわらかな光に、稲穂のような金髪がきらきらと輝く。
紅葉の兆しが見える樹々に囲まれた墓地には、少し冷たい風が吹いている。
「弥生、久しぶり」
座間聡子は墓石に笑顔を見せる。
「今綺麗にするから、ちょっと待ってて」
部屋の掃除は全くダメな聡子が、慣れた様子で雑草を抜き、枯れていた花を片付け、墓石に水をかけて磨く。綺麗になると、買ってきた花を供え、線香を指す。そして最後に、プレミアムソフトさきいかを供えた。
「そう怒らないでよ。色々と忙しかったの」
しゃがんだ聡子はワンカップを開け、気持ち良さそうに一口あおった。
墓石に酒をかけながら話を続ける。
「従妹が歌い手になったって話したでしょ。それがさ、たった半年で、あっという間にCDデビューが決まったの。我が従妹ながら凄いでしょ」
自慢気に笑いながら、もう一口飲む。
「それでCDを出すってなったら、権利関係とか色々と面倒くさいことがあるのよ。でもあの子達はまだ高校生だからさ、やっぱりその辺りは大人が見てあげなきゃいけなくって、それで私が頑張ってたってわけ。どう、えらいでしょ」
その口調は先程とは違い、自慢気ではない。
「ね、褒めて」
寂しそうに呟き、墓石に頭をもたれさせた。流れ落ちた金髪が表情を隠す。
五分位その姿勢でいた聡子は、やおら顔を起こす。
「そういえば、あなたの妹も頑張ってたよ。ビデオで見たんだけど、文化祭で従妹が妹さんに遊ばれてたわ。うん、楽しそうにしてた」
笑いながら立ち上がる。
「だからさ、そんなに怒らないで」
飲みかけのワンカップを供える。
「じゃあ、また来るね」
聡子は勢いよく歩き始め、振り返ることなく墓地を後にした。
『美章園家之墓』の前を、赤とんぼがついっと横切った。
*
放課後、先生に頼まれた日直の仕事を終えて教室に戻ってきた有村梓は冬服を着ている。
教室に残っている人はまばらだった。
鞄を取り、教室を出ていこうとした梓をノートに何かを書いていた高鷺宇美が呼び止めた。
「花月達から伝言。先に行ってるって」
「先に行ってる?どこに?」
梓は小首を傾げながらスマートフォンを取り出す。
「行先は言ってなかったけど」
「あれ?通じないよ」
「まだだめ?さっきから電波が悪いんだよね」
「そっか……。それは何を書いてるの?新しい脚本?」とノートを覗き込む。
「演劇部の人が文化祭の劇を気に入ってくれて、脚本を書かないって声をかけてくれたの」
「凄い!良かったね!楽しみ」
梓は手を叩いて喜び、宇美は照れて頭をかく。
「ありがとう。でも、演劇部に頼まれたってなるとプレッシャーもあって、なかなかうまくいかなくって、好き勝手に書くのとは違って難しいなって思ってるところ。梓ちゃんは凄いよね」
梓は頭を振る。
「私は歌ってるだけだよ。凄いのは花月ちゃんと、たかっみーと委員長。じゃあ、私は皆を探しに行くね。頑張って。バイバイ」
「バイバイ」
梓は元気よく教室を飛び出していった。
「今日はお姉ちゃんが出かけてて部屋が使えないから、一緒に帰らないってことにしてたと思うけど、何かやることにしたのかな?」
梓は呟きながら廊下を歩く。
「たっかみーが何か思いついたのかも。となると撮影かな?」
多佳美は良いシーンやアングルを思いつくと、すぐに撮りたがる。積極的に考えてくれるのは嬉しいのだが、授業中でも構わずに撮りに行こうとするのは困ったところだ。
学外に出るなら待っていてくれるはずだ。となると学内のどこかにいるのだろう。
「どこかな?まだ撮ったことがないところかな?」
思いついた幾つかの候補の中からプールに来てみたが、皆の姿はなかった。
十月も半ばを過ぎた屋外プールは、水泳部も使用しておらず、誰もいなかった。
うろこ雲が映し出された水面を、繋がったトンボが飛んでいるだけだった。
桃陰高校は敷地の北側に校舎が建っており、南側にグラウンドがある。プールはその南東の端にある。
梓はプールサイドからグラウンドを眺めたが、サッカー部と陸上部が練習をしているだけで、花月達の姿は見えなかった。
校舎に戻る梓の足元に、サッカーボールが転がってきた。
「ありがとうございまーす」とサッカー部員が手を振っている。
運動神経は良くないが、子供の頃は兄の徹也と一緒にボール蹴りぐらいはしたことがある。梓は右足を後ろに大きく振り上げ、――見事に空振って転んだ。
「だ、大丈夫?」
慌てて駆け寄ってきたサッカー部員に助け起こされると、「大丈夫です」と恥ずかしさで顔を赤くしながら逃げるように去った。
場所を移し、校舎内を探索する梓は家政科室内の光景に目を奪われた。半裸の謝蘭華が少女に抱きつかれていたのだ。蘭華が廊下の方を見た気がして、梓は素早く身を隠した。
「スカートも脱いで」
少女が抑揚のない声で蘭華に命令する。見つかってはいないようだが、梓の方からも二人の姿を見ることはできず、声だけが聞こえてくる。
「ブラウスは着てても良いかな?」
蘭華の口調に嫌がっている雰囲気はない。
「どうして?」
「だって寒いんだもん」
「すぐ終わるから我慢して」
「りょーかい」
蘭華があっさりと従うと、スカートを脱いでいるのであろう衣擦れの音がする。
「良い身体してるね」
「さんきゅ、ってまじ寒いから早くして。なにしてんの!」
蘭華が小さく悲鳴を上げるが、少女の攻めは止まらない。
「私の手、温かいでしょ」
「温かいけど、そんなんじゃ間に合わないからっていきなり、ん……あっ」
梓は我慢できなくなって、家政科室のドアを開けた。
「なにしてるの?」
「終わった」
梓の問いには答えず、蘭華の身体からぱっと離れたのは同じクラスの平野桐子だった。桐子はそのまま使っていた道具を片付けを始め、カチューシャで止めていた前髪を下した。長い前髪が顔の半分を覆い隠す。
「あ、梓。ちょっと待って」
蘭華は慌てながら服を着た。
「今度ダンス大会に出してもらえることになったんだ」
服を着終わった蘭華が得意気に教えてくれる。
「そうなんだ!おめでとう!」
「梓達のおかげだよ。梓のビデオで踊っているのを見て、大会に出ないかって声をかけてくれた人がいたんだ。もちろんOK!それで、文化祭の時の梓の衣装がかわいかったからさ、私も桐子に作ってもらうことにして、採寸してもらってたの」
「あの衣装、すっごくかわいかったよね」
「結局着てもらえなかったけど……」
桐子が恨みがましい感じで言う。文化祭では梓が遅刻したため、せっかくの衣装を着ることができなかったのだ。
「新曲の動画では着てるよ。もうすぐ公開するから見てね」
「分かった。楽しみにしてる」
桐子はこくりと頷いた後、荷物をまとめたリュックを背負う。
「それじゃ、明日までに案をまとめてくるから」
「あ、ねぇねぇ。花月ちゃん達を見なかった」
「放課後は見てないよ」
蘭華が答え、桐子も首を振る。
「一緒に探そうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。それじゃバイバイ」
梓は手を振りながら桐子を追い越して家政科室を出た。
生徒会室の前を通ると、ドアが開いていたので中を覗いてみた。
奥の巨大な机でふんぞり返っていた光陣はるかの姿も、その横に毅然と立つ東村流星の姿もない。文化祭の時に顔見知りになった生徒会役員達は、特に大きな行事がないためかのんびりとしていた。
梓に気が付いて小さく手を振ってきたので、会釈をしてその場を離れた。
まだ歌い手を目指していた頃、野上わこの歌い手活動が生徒会に妨害されるという話を聞いて多佳美が乗り込んでいったことを思い出した。
あれからまだ半年近くしか経っていないのだ。
「もう半年経ったんだ」
どちらにせよなんだか懐かしい思いがこみ上げてきて、得も言われぬ感情に梓は走り始めた。
「有村さん。廊下は走らないで」
「おお、四話でようやく初登場したもののたっかみーを恐れて何も言えなかった事なかれ主義の担任の先生!お久しぶりです」
ちなみに担任は、二十代後半の人畜無害そうな男性教諭で、地学が専門である。
「なんのことですか?さっきもホームルームで会ったじゃないですか」
「こちらの話なので気にしないで下さい。ところで先生、花月ちゃん達を見ませんでしたか?」
「吉本さんですか?いえ、ホームルームの後は見ていません」
「そうですか。ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる梓を呼び止めて、担任は逆に訊ねる。
「聞きたいことがあるんですけど、少し良いですか?実は最近、私の姪っ子が歌い手になりたいって言い出したんです。どう思います?」
「先生じゃなくて、姪っ子さんなんですか?」
「私がなってどうするんです」
「なってみたら良いと思いますよ。先生も。姪っ子さんも」
屈託のない梓の笑顔に、担任は困った顔をする。
「そんな簡単にできることじゃないでしょう」
「簡単です。歌を歌って動画を上げるだけです。作詞作曲して、凝った動画を作るってなったら大変ですけど、歌い手になるだけならそんなの全然必要じゃないですよ」
一曲目から作詞作曲をしてもらい、凝った動画を作ってもらった者の言うことではないと思われるが、梓はそう言い切る。
「……それじゃ、歌い手に必要なものってなんですか?」
「歌を聞いて欲しいって気持ちです。それじゃ、花月ちゃん達を探さないといけないので失礼します。頑張って下さい」
梓はすぐに走り出そうとしたが、すぐに速足に切り替えてその場を去った。
次に梓が出会ったのは同じクラスの久宝寺未来と志紀照海と加美玲奈の三人だった。三人は漫画やイラストを描くのを趣味としており、同人活動も行っているのだが、カップリングの趣味で比与森和と反目し、彼女をクラス内で孤立させることになった。
文化祭を機に和と三人は和解したのだが、孤立していた和を梓が仲間に引き入れたこともあり、梓と三人はあまり話をしたことがない。
しかし梓はそんなことにはおかまいなしに訊ねる。
「花月ちゃん達を見なかった?」
「んー、見てない」と三人が顔を見合わせながら答える。
「分かった、ありがとう」と梓はすぐに去ろうとしたが、未来に呼び止められた。
梓は足を止めたが、三人はなかなか要件を切り出さない。肘でお互いを突き合って、誰が話をするのかを押し付け合っている。
「また今度で良いかな?」と梓が訊くと、ようやく未来が代表して口を開いた。
「あ、あのね。お願いというか希望というか、まぁなんかなんだけど……。知ってると思うけど、私達もイラストを描いたりしてるんだ。勿論、比与森さんに比べたら全然下手なんだけど。だけどまぁ、ちょこっとでも良いから、有村さんの動画に私達のイラストを使って欲しいなって、使ってもらえると嬉しいなって思うんだけど、どうかな?」
「分かった」
梓はあっさりと了承する。三人はそのあまりの容易さに驚いて喜ぶのを一瞬忘れたが、喜ぶ前に、梓の次の言葉でどん底に落とされた。
「たっかみーに相談するね」
ARIAの動画担当のクールビューティー、奥多佳美が動画のクオリティーに最新の注意を払っていることは、クラスメイトであればだれもが良く知っていた。三人よりも遥かに実力のある和でさえも、多佳美の注文に日々四苦八苦しているのだ。
その多佳美が、三人のイラストの採用を許してくれるとはとても思えない。
夢潰え、諦めの心境の三人であったが、照海があることを思い出した。
「そういえば先生って、ホームルームが終わったらすぐに帰ったんじゃなかったっけ?」
文化祭でアシスタントの真似ごとをした三人は、それ以降、和のことを先生と呼んでいる。
「あ、そうそう。慌ててたから、今日はなんかの新刊の発売日だっけ?って話したよね」と玲奈も思い出す。
「校門にいつもの黒い車が停まっているのを見た気がするけど……」
「花月が自転車に乗っているのを見た気がするけど、あれって今日じゃなかったのかな」
「やだー、しっかりしなよ」
「やっぱり帰ったのかな?ありがとう、バイバイ」
梓は首を捻りながら手を振って三人と別れた。
「ここにはいるわけがないか」
屋上のドアを開けながら一応確認するが、やはり人の姿は見えない。
今もドアには鍵がかかっていた。
「ここも久しぶりだな」
変化のない、電装設備や貯水タンクが並んでいるだけの殺風景な風景だ。
聡子に合格を報告しに行った時、お祝いとして鍵をもらった。なんで聡子がここの鍵を持っているのかは教えてくれなかったが、「大事な場所だから大切にしてね」とだけ言われた。
一人になりたい時には便利だが、それ以外では特に来たくなるような場所ではない。
「そういえば、正知子ちゃんはどうしてここへ来たんだろう」
入学式の日、わこに別れを告げられ、ここで落ち込んでいた梓の前に正知子が現れた。あの時、彼女はなぜここに来たのだろうか?
冷たい風が吹いた。梓は身体を縮こませながら、紅く染まり始めた空を後にした。
その正知子が廊下の向こうから歩いてきた。彼女が屋上に来られる理由も気になったが、まずは当面の懸念事項から確認した。
「正知子ちゃん。花月ちゃん達を見なかった?」
「吉本さんは見てないわ。奥さんも比与森さんも見てない」
「ありがとう」
次に、なぜ鍵を持っていたかを尋ようとすると、正知子が先に口を開いた。
「でも、野上さんを見たわ」
「わこちゃん?」
梓の表情が緊張で固くなる。
「伝言を頼まれたの」
「なに?」
梓の拳が密かに握られる。
正知子が告げたのは、梓が全く考えていなかった一言だった。
「転校するんですって」
「転校って……、いつっ?」
上ずる声を隠しもせずに訊ねる。
「今日、これから家に帰ってすぐに出発するって」
「なんで?」
「転校する理由?聞いてないわ」
正知子は淡々と答える。
「分かった、ありがとう」
梓は駆け出した。
残された正知子はじっとその背中を見送った。
*
空が夕焼けに染まる中、帰宅したわこは家の前に車が停まっていることに気が付き、足を止めた。黒いSUVで、白で凝った装飾とマーキングが施されている。そのマーキングは、わこがボーカルを務める「A girl in Opera grassess」のものだ。
運転席のドアが開き、男が降りてきた。左の前髪だけが長いアシンメトリーな髪形。スポーツタイプのサングラスをかけてため目の表情を見えないが、口元はにやけている。中肉中背の身体を覆っている洋服は全体的に黒で、上着の裾が少し長めだ。おもむろに顔の前に掲げられた右手の人差し指と中指には、甲冑型の指輪が付けられている。
「大井さん、どうしたんですか?」
男がもったいぶっている間に、わこは先に質問した。
「瘡乃刃と呼んでくれ」
右手の人差し指でわこを指さしながら告げる。
「瘡乃刃さん、どうしたんですか?」
「姫君を迎えに来たんだよ。もう逆らったりしないようにね」
瘡乃刃の口調はやや芝居がかっている。
「逆らったりなんかしません」
「それはどうかな?とにかく、せっかく迎えに来たんだ。乗りたまえ」
「……親に挨拶ぐらいさせて下さい」
わこの要求に、瘡乃刃はニヤッと笑う。
「母君は、娘さんの新居を一緒に見に行きませんか?と誘ったら快く賛成してくれたよ」
瘡乃刃の視線に車の中を見ると、後部座席で母親がにこやかに手を振っていた。わこは大きな溜息をつくと、すぐに決心した。
「分かりました。よろしくお願いします」
瘡乃刃がにこやかに助手席のドアを開けた。
「わこちゃん!」
遠くから届いた声に、わこは足を止めた。
振り返ると梓が走ってくるのが見えた。
「ふふふ。やっぱりすごいわね、梓は」
ここまでずっと難しい顔をしていたわこが表情を和ませながら笑った。
梓は息を切らせながら、わこの前に立った。
「君がARIAか。始めまして、僕は……」
「どこに行くの?」
梓は話しかけてきたごきげんビデオ界のキングとも言える瘡乃刃を無視してわこに訊ねた。
「東京よ。メジャーデビューをするには、ここにいるのは何かと不便だから引っ越すことにしたの」
「そんなの嫌だよ」
「でももう決めたの」
わこは後部座席のドアノブに手をかけた。
「それが、わこちゃんがやりたかったことなの?」
わこははっと目を見開いた。ドアノブに手をかけたまま、ゆっくりと梓を見る。
「やりたかったことなんて覚えてない。でも今は、これが私のやりたいことよ」
きっぱりと言い切った。
「分かった。頑張って!」
梓もきっぱりと応え、応援する。
わこは梓に優しい笑顔を向けた。
「待ってるわ」
「うん」
梓はその言葉に笑顔で答え、もう、車に乗り込むわこを止めたりはしなかった。
手持無沙汰になった瘡乃刃は助手席のドアを閉めると、運転席に回り、梓をちらりと見てから車に乗り込んだ。車はすぐに出発した。
三つ向こうの角を曲がって見えなくなるまで、梓はその場に立って、じっと見送った。
半ば暗くなった空の下を、梓は歩き始めた。
その顔に涙はなく、あるのは決意だった。
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