第16.5話 美章園正知子のグルーミーデイズ#8
「何を読んでるの?」
顔を上げると高鷺宇美がいた。
「シェイクスピアよ」
言って本の表紙を見せる。タイトルは「真夏の世の夢」。
「へぇ、美章園さんて、戯曲を読む人だったんだ。もしかして演劇やってたりする?」
期待で目を輝かせ始めたので慌てて打ち消す。
「やってないわ。戯曲も最近読み始めたの。小説を読むのは好きだけど、戯曲は読んだことないなって思って、とりあえずシェイクスピアを読んでみてるの」
「ふーん、どんな心境の変化なの?」
高鷺宇美とはそれほど仲が良いわけではない。悪いわけでもない。ただのクラスメイトだ。
私、美章園正知子が通う桃陰高校では、期末試験で赤点を取った者は、夏休み最初の一週間に登校して補修を受けなければならない。補修が終わった後も、追加の課題が出され、夏休みが終わる一週間前に提出しなければならない。
不覚にも赤点を取ってしまった私は、課題を提出するために登校したが、炎天下の中をすぐに帰宅する気にはなれず、教室に向かった。教室には私と同じように課題を出しに来た者以外にも部活動で学校に来ている者や、文化祭の準備で来ている者もいたが、仲の良い友達はいなかったので本を読むことにしたのだ。
高鷺宇美は補修には出ていなかった。文化祭で行う劇のリーダーになっていたので、その準備で学校に来ているのだろう。
高鷺宇美が言った「心境の変化」は的を得ていた。
しばらく前から私を動かしていたなんだかわからないやる気のようなものが「心境の変化」なのだと、その時になってようやく気が付いた。戯曲を読むなんて始めたのは、正しくその変化のためだ。
本来であればそんなことを他人に教えるのは好きではないのだが、そのことに気付かせてくれた高鷺宇美には教えても良いと思えた。
「あやパーのサマフェスには行った?」
「行った行った。有村さん凄かったね」
あやめ池パークで開催されたサマーフェスティバルで、クラスメイトの有村梓はステージに立ち、歌を披露し、観客を熱狂させた。私も、その熱狂した者の一人だった。
「私、サマフェスを見るまでは有村さんが苦手だったの」
高鷺宇美は眼鏡の向こうの大きな瞳をさらに大きくする。
「今でも苦手なのは変わらないけど。能天気で自分勝手で、でも明るく笑ってなんでも許されて、助けてくれる友達もいる、そんなところがね、ちょっと羨ましくて、妬ましかった。でも、サマフェスを見てそんな感情が吹っ飛んだの。有村さん凄いって単純に感動しちゃったの」
「分かる」
高鷺宇美が真面目な顔で頷いてくれたので少し嬉しくなる。
「有村さんが歌の活動を始めたのは高校に入ってからでしょう。だから私も何か新しいことを始めてみようと思って、戯曲を読み始めてみたの。演劇がしたいとかじゃなくて、今まで読んだことがなかったジャンルにも手を伸ばしてみようって。有村さんに比べれば全然地味だけどね」
「そんなことない。とっても良いと思う」
高鷺宇美はきらーんと目を輝かせる。
「では、そんなやる気に燃えている美章園さんに新しいことに挑戦させてあげましょう」
「あ、間に合ってるから良い」
「何よ、さっきと言ってることが違うじゃない」
新しいことをやってみようとは思うが、面倒ごとをしょい込む気はない。
「とりあえず助けると思ってちょっとだけ見てくれないかなー見て欲しいなー」
「ちょっとだけよ」
予防線を張ってから引き受ける。
「ありがとう。脚本なんだけどね」と言って席から離れ、すぐに紙の束を持って戻ってくる。
「メインの人達と読み合わせとかやっているんだけど、尺が……、時間が合わないの。少し短くしなくちゃいけないんだけどうまくいかなくって。シェイクスピアを読んでいる美章園さんに、ぜひぜひご意見を聞かせていただきたいのです」
「読み始めたところよ」
断りながらも一応脚本を受け取る。
「どれぐらいオーバーしてるの?」
「十分位ね」
「それは大変ね」
持ち時間は二十五分だったはずだ。となると三割近く削らなければならない。
脚本には、赤ペンでの修正が多く入っていた。ほとんど赤で埋め尽くされているページもある。
「凄いね」
「自分だと、もう何が良いのか分からなくなっちゃって」
「頑張ってるのね」
「文化大勲章を取りたいからね!」
そんなものを目指していたのか。
「でも、一年生が取れるの?毎年、文化系のクラブか三年生が授与してるみたいだけど」
「取れないわけじゃないでしょ。私は取れるものは取りに行きたいの。全力を尽くして取れなければ仕方がないけど、最初から諦めたりはしないわ」
高鷺宇美もまた、有村梓と同様に、目標に向かって驀進するタイプなのだ。周りを巻き込んででも、自分の目標に進むのだ。私にはまだそこまでのやる気は持てない。でも、その手伝いならできる。
「分かった。見させてもらうわ。でも、戯曲を読み始めただけなんだから、あまり期待しないでね」
「うんうん、分かってる分かってる。でも、本当はめっちゃめちゃ期待してるけどね」
高鷺宇美は拍手をして喜ぶ。
「でも、文化大勲章を狙うなら、他にも方法はあるんじゃないかな。例えば……、有村さんに主題歌を歌ってもらうとか」
「それ、それ良いよ。最高だよ。よーし、本当に取れる気がしてきた。ねぇねぇ皆聞いて!美章園さんの提案なんだけどね……」
高鷺宇美は、休憩していた他のメンバーの所に行き、今の顛末を説明し始めた。
すぐ隣にいて、あんなに大きな声で話していたんだから全部聞こえていたでしょ、と思いながらも、話の輪に加わるために私は立ち上がった。
*
「ごめんなさい」
いつもは傲慢な態度を隠そうともせずに振る舞っている奥多佳美が頭を深々と下げていた。
長く美しい髪が床に触れそうになっている。
「そんな、奥さんのせいじゃないよ」
高鷺宇美が止めようとするが、頭を下げたまま頭を振った。
「いいえ。うちの運転手がふがいないせいよ」
しかし奥多佳美が運転手のために頭を下げているわけでないのは明らかだった。有村梓のために下げているのだ。
有村梓は、友達にそれだけのことをさせてしまうのだ。
「一年A組さーん、そろそろ体育館に向かって下さい」
文化祭実行委員の呼びかけで、止まっていたクラスが動き始めた。人気歌い手のARIAこと有村梓が劇の最後に主題歌を歌うのはほぼ絶望的になった。しかし劇がなくなるわけではない。自分達だけで最高のパフォーマンスを見せるだけだ。高鷺宇美の発破でクラスメイト達は活気を取り戻し、威勢の良いことを言いながら体育館へ向かった。
空元気の者も多いだろうが、とりあえず今はやるしかない。
「いざとなったら、私が曲に合わせて即興のダンスをするよ」
謝蘭華が案を出す。確かに彼女のダンスは観客を魅了するだろう。しかし彼女は劇の中でも大立ち回りを見せる。同じものを続けて見せても、大きなインパクトは得られないだろう。
ではどうするのか?
私なら何ができるのだろうか?
考えながら少しおかしくなる。何を一生懸命考えているのだろうか?見直しはしたが、私は今でも基本的には有村梓を好きではない。その好きではない者が開けた穴を埋める方法を一生懸命考えているのはなんだか滑稽に思えた。もちろん、有村梓のためだけではなく、クラスのためであるし、責任者である高鷺宇美のためにもなるであろう。
しかしきっかけを作ったのは有村梓で間違いない。そして、彼女に主題歌を歌わせるように最初に言い出したのは私だ。好きでもない人を御輿に担ぎ出したのは私なのだ。
私と、高鷺宇美、奥多佳美、吉本花月は体育館の調整室に入った。体育館の上部にあるこの場所からは、観客席とステージを見ることができる。ここから音出しを行い、照明やステージへの指示を行うのだ。私達以外にも、それらの担当の文化祭実行委員が調整室にいる。
私は高鷺宇美をフォローしつつ、鏡の精の声を担当する。
高鷺宇美は小さな体をあちらこちらに向けながらてきぱきと指示を送っている。動揺しているだろうにその素振りを全く見せない。やはり彼女も大したものだ。
だから私も、やってみることにした。
「高鷺さん。最後の主題歌のパートだけど、私に任せてもらえないかしら」
突然の申し出に高鷺宇美は、そして奥多佳美と吉本花月も目を丸くする。私がそんなことを申し出るような人間だとは思っていなかったのだろう。無理もない。私だって思っていない。
「……何をするの?」
「奥さん、スマートフォンで有村さんにテレビ電話をかけて、それをプロジェクターで映すことはできるかな?」
「……できるわ」
「告知もいっぱいしたし、ポスターにも書いた。観客は有村さんが、ARIAが出てくるのを楽しみにしている。だったら出てもらうしかないでしょ」
「でも、梓が電話に出るとは限らないわよ」
「その時は私が泥をかぶるわ。どう?」
「泥をかぶっちゃ駄目だよ」
高鷺宇美は力強く言った。
「思いっきり輝いてきて」
まっすぐな視線を向けられて思わず逃げた。私はそんな輝けるような人間じゃない。こんなことで涙を流したりするような人間じゃない。
「鏡の精の声は、下からマイクでも大丈夫よね」
顔をこすっているのを見られないように出口に向かいながら訊ねる。
「できるよ」と吉本花月が答える。
「せっかくだから、有村さんが着るはずだった衣装を使って」
最後に高鷺宇美の声が追いかけてくる。あんなアイドル顔負けのブリブリ衣装を私に着ろというのか!顔を顰めながらも、やるならとことんやるわ、今日だけは!と心に決めて階段を下りた。
「十一人の白雪姫と七人の小人」はなんとスタンディングオベーションで幕を閉じた。
これなら出ていく必要はないんじゃないだろうか?今からやろうとしていることは完全に蛇足なんじゃないだろうかと思うが、そんな私の恐れは誰にも気付いてもらえず、場内には主題歌が流れ始め、その後ろでは電話の呼び出し音もかかっている。
舞台袖にいるクラスメイト達は、私が今から何をやろうとしているのか知らない。彼女達の期待と不安と疑念が入り混じった視線から逃れるように、ステージに出た。
観客は一瞬沸いたが、すぐに出てきたのがARIAではないと気が付き、すぐにこいつは誰なんだ、見たいのはお前じゃないという視線を向けてくる。
このまま電話が繋がらなくては泥をかぶる程度では済まなくて、殺されちゃうんじゃないかと思ったが、幸運にも有村梓は電話に出た。
「はい、梓です」
その声だけで観客はARIAだと分かり、場内が沸く。声はするが、舞台に映し出された画面は真っ黒だった。
「もしもしARIAさん。スマホから顔を離して下さい」
「え、タッカミーじゃないの?声が変なんだけど。あ、なんか映ってる。分かった、正知子ちゃんだ」
奥多佳美の奮闘により、向こうのスマホにはステージにいる私が映っているはずだ。
「正知子ちゃんではありません。鏡の精です」
なぜか場内がどっと受ける。
「テレビ電話なんだから、スマホを振らないで下さい」
「分かったよ。これ、テレビ電話だ。そっか、こんなことができるなんて、最近のスマホは凄いね」
「それはあなたが知らなかっただけです」
普通に受け答えをしているだけのつもりなのになぜか場内には受けている。
「正知子ちゃん、ごめん。私今急いでるの?」
これは本気で言っているのだろうか?
天然なのだろうか?
どちらにせよ、あいかわらずいらっとさせてくれる天才だ。
だから、ここから先の方針が決まった。
「知っています。それではステージをすっぽかしたARIAさんに罰ゲームターイム」
「罰ゲーム?イヤだよ。え、なに?」
身構え、怯えながら左右を見回す有村梓の仕草に会場は盛り上がる。映像から、先ほどは住宅地にいるとのことだったが、人通りが多い場所に出てきていることが分かった。場内からは具体的な地名を叫ぶ声も聞こえてくる。
「それでは一つ目の罰ゲーム、後ろにいるスキンヘッドの方にどっきりを仕掛けて下さい」
「一つ目っていくつあるの?スキンヘッドって、ああ、あの人か。どっきりって何をすればいいの?」
慌てている声が飛んでくる。
「ARIAさーん、スマホを振り回さないでくださーい。それでは制限時間後十秒。十、九、八…」
「これで映ってる?後三秒って、わーーーーーーー」
突然叫んで突進してきた梓に、スキンヘッドのおじさんが慌てて逃げ始めた。梓はそれを追いかけていき、会場は爆笑に包まれる。
おじさんには悪いことをしたと反省しながらも、私は私で次の罰ゲームを考えるのに必死だった。
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