第13話 Ready

「私も歌い手になりたい」

 有村麗千流(れいちぇる)は「そのアイテムちょーだい」ぐらいの気軽さで言った。梓は妹にちらっと向けた目をテレビに戻してから応える。

「高校生になれたらね」

「なれるわよ」

 中学三年生のレイチェルは頬を膨らませる。

 涼しいリビングのソファに座る二人の顔はよく似ている。大きな瞳と逆ハの字の眉毛。レイチェルは毛先に癖のあるボブカット、スクエア型のメガネをかけ、Tシャツに膝までのゆったりとしたズボンを着ている。梓はセミロングの髪を後頭部でお団子にし、キャミソールワンピースを着ている。

「こんなのは息抜きじゃない」

 二人はテレビゲームをしていた。タコのコスプレをした子供達が街にペンキでいたずら書きをして回るゲームで、今はチームで戦う協力プレイをやっている。対戦相手はネットの向こうの誰か、だ。

 レイチェルが操っている黄色のキャラクターが軽やかに動き周り、ペンキをあちらこちらにまき散らしているのと違い、梓が操っている赤いキャラクターの動きはゆったりとしており、ペンキを発射する回数も少ない。しかしレイチェルがすぐに敵の罠にはまってしまったり、ペンキを浴びせられたりするのと違い、梓は着実に陣地を広げていっている。

「梓だって勉強してないじゃない」

「レイチェルが誘ったからでしょ。それに私がさっきしていたのは二学期の予習だし」

「宿題は?」

「もう終わったよ」

 レイチェルはゲームを続けながら驚愕の声を上げる。

「東京に行って、サマフェスに出たりしてたのに、宿題がもう終わっていると言うの!」

「うん」

 梓は冷静に、当たり前、といった感じで答える。

「信じられなーい」と立ち上がってコントローラーを落としたレイチェルのキャラクターはペンキで固められて動けなくなった。

「ま、知ってたけどね」

 ちゃらんぽらんに見えることの多い姉だが、意外と計画的にこつこつと積み重ねるタイプだ。

 レイチェルは腰を下ろして再びコントローラーを手に取る。ゲームがリスタートされる。

「まだするの?」

「まだ帰ってこないでしょ」

 二人の母親は、今日は夜遅くまで外出している。受験生のレイチェルはゲームを禁止されているので、出かけた隙を見てはゲームをしていた。梓は中学時代は全くゲームをしなかったが、最近はゲーム好きの友達に勧められて少しはプレイするようになった。

「そんなにするつもりなの?」

「梓が全然家にいないから一緒にゲームをできないんじゃない。ママが夜まで出かけていて、梓が家にいる。こんなチャンスはめったにないんだから」

 梓と一緒に遊びたいように聞こえるがそうではない。

「お兄ちゃんとやればいいじゃない」

「邪魔者扱いされるから嫌だ」

 兄の徹也(てつや)もゲームをするがかなり上手で、レイチェルとはレベルが違い過ぎてお互いに面白くないのだ。ゲーム初心者の梓が相手なら自分が主導権を取れるのが嬉しいらしい。

「ま、私は良いけどね」

 新しい対戦相手が決まり、ゲームが開始される。梓はコントローラーを握りなおした。


「さっきも言ったけど……」

 ゲームをしながらレイチェルがまた口を開く。

「歌い手になりたいの」

「高校生になってからなればいいじゃない」

「そんな簡単じゃないでしょ!」

 口調と一緒に操作も荒くなる。

「歌って、動画に録って、アップするだけだよ」

「だからそういうことじゃなくて、梓みたいに自分の曲を作ってもらって、動画も凄いのを作って欲しいってこと!」

「だったら頑張って自分で作るか、手伝ってくれる友達を見つけるとかするしかないよね」

「花月(かげつ)ちゃんみたいに凄い人がその辺に転がっているわけないじゃない!あーもう!」

 不用意に敵の前に飛び出して集中砲火を浴びるレイチェルを、梓が援護して逃がしてやる。

「確かに、あの出会いはラッキーだったよね」

 売れっ子音楽プロデューサーを親に持つとは言え、吉本(よしもと)花月ほどの作曲能力を持っている高校生はあまりいないだろう。梓は花月とクラスメイトになれた幸運に改めて感謝した。ゲームをしながら。

「だから、私の曲も作ってくれるように花月ちゃんにお願いするから、花月ちゃんを呼んで」

「なんでそうなるのよ」

 妹の理不尽な要求に、梓も少し語気を強める。

「良いじゃない。それとも花月ちゃんは自分だけのものだって言うの?」

「そうじゃないけど、花月ちゃんも忙しいし……」

 梓は言い訳をしながらも、レイチェルの指摘どおり、花月には自分の曲だけを作って欲しいという気持ちを持っているのかもしれないと思った。今までにも、花月に曲を作って欲しいとのお願いが来ているという話は聞いていた。友達から冗談ぽく言われたり、歌い手としてそれなりに有名な人から依頼されたりもしているらしい。ARIAの曲を作るのが精一杯で余裕がないからと断っているらしいが、それを聞いた時、少し胸がぎゅっとしたのを思い出した。

 あの時は何だったのか分からなかったが、花月を取られるかもしれないと不安を持ったのかもしれない。

「忙しいって、新曲?梓は遊んでるのに?」

「遊んでるわけじゃ……、遊んでるけど。ともかく、花月ちゃんも色々と用事があるのよ」

 サマーフェスティバルの後、梓にはお誘いの声が多数かかった。クラスメイト、小中学時代の友達、吹奏楽部の仲間達からだ。高校に入学してからは花月達と一緒にいることが多かった梓は、久しぶりに他の友人達と会って楽しんだ。この一週間はそれらに追われ、花月達とは連絡は取っているものの、全く会っていなかった。花月も同じような状態だとLINEで言っていた。今日も出かけると言っていたと思う。

 少し考えてから答える。

「花月ちゃんは無理だけど、委員長なら多分来てくれるよ」

「委員長って、眼鏡で胸が大きい人でしょう」

 レイチェルは少し不満そうだ。

「レイチェルだって眼鏡じゃない」

「違うわ。私はおしゃれ眼鏡なの。あの人はオタク眼鏡!似て非なるものじゃなくて非で非なるものなの」

 ゲームそっちのけで力説する妹に冷たい目を向けながら訊ねる。

「じゃあ呼ばない?」

「呼んで下さい」

 膝につくぐらい頭を下げる。レイチェルは花月の曲だけではなく、委員長こと比与森(ひよもり)和(なごみ)、一部で絶大な人気を誇る華京院(かきょういん)・R・椿子(つばきこ)のファンでもあるのだ。


 電話をかけると、五回のコール音の後に和が出た。

「もしもし。うん、久しぶり。元気だった?私は元気だよ、ありがとう。何してたの?画を描いてたの?またイベントがあるんだっけ?それともたっかみーから……、ええっ、あれだけ画を描いてるのに暇つぶしでも画を描くの?そうだよね、うん、練習も必要だよね。私もボイトレしてるよ。そうなると良いよね。それよりも今時間ある?私の家に来られない?難しい?そっか。ううん、委員長、宿題終わったかなと思っただけだから。私は終わってるよ。なんで急にそんなに卑屈になるのよ。委員長にはいつもいっぱい画を描いてもらってるんだから、お願いされたら断れるわけないじゃない。そんなの全然気にしないで。うん、うん、分かった。待ってるね。外は暑いから気をつけてね。待ってる」

 ニコニコと電話を切って妹に伝える。

「来てくれるって」

 レイチェルはじとっとした目で姉を見返す。

「梓って、たまに怖いよね」

「なにが?」

 梓は小首を傾げるが、レイチェルは答えなかった。


 階段を降りてくる音がしたと思うとリビングのドアが開かれ、二人の兄の徹也(てつや)が入ってきた。

「なんだまたゲームなんかして!」

「お兄ちゃんもする?」

 小言を言おうとする徹也をレイチェルが封じる。

「今は良い」と兄もすぐに引っ込む。末妹には弱いのだ。

「こんにちは」

 徹也の後ろからさわやかなイケメンが現れた。

「健太郎さん!いつのまに来ていたんですか?というかどうしてうちに来てるんです?」

 多佳美の腹違いの兄である中之島(なかのしま)健太郎は爽やかな笑顔を見せて梓の質問に答える。

「徹也君が勉強で分からないことがあるっていうから、ちょっと先生をしに来ていたんだよ。二人には挨拶が遅れてごめんね」

「私も色々と教えて欲しいです」

 レイチェルはコントローラーを持ったまま、ぴょこんとソファーの上に立った。

「とりあえず、ゲームします?」とコントローラーを恥ずかしそうに差し出す。

「ごめん。今から徹也君と出かけるんだ」

 健太郎はレイチェルの誘いをさらりと交わす。

「えー、私も行きたい」

「お前は勉強があるだろう」

「お兄ちゃんだってそうじゃない」

「オレは教えてもらいに行くの」

「私も教えて欲しいの」

 止まりそうにない兄妹喧嘩に、健太郎はするりと入り込んでくる。

「今日は徹也君の用事なんだ。レイチェルちゃんの勉強も今度見てあげるから今日は許してくれないかな」

「えー、絶対見てくださいよ」

「ああ、絶対だ。それじゃあ行こうか」

 健太郎は真摯な顔で了解し、健太郎の肩を抱いて出て行った。

「いつの間に仲良くなったんだろう?」

 梓は健太郎が来ていることに全く気がつかなかった。いつ来て、徹也の部屋で何をしていたのだろうか?

「イケメンが来るのは良いことでしょ。それより委員長が来るまでゲームしよ」

 レイチェルはすでに浮かれていた気分を切り替えている。梓は釈然としない気持ちを抱きながら、コントローラーを握りなおした。


       *


 東村(ひがしむら)流星(きらら)は己の身の不幸を嘆いていた。上司の理不尽さにうんざりしていた。そもそも上司などではない。自分は生徒会の副会長で向こうは会長というだけだ。一生徒としての立場は同格であり、主従関係にはない。

 なのになぜ自分は公務でもないのに貴重な高校生活最後の夏休みをこの横暴な人に付き合って費やしているのだろうか?

「なんで私がこんな目に会わなくちゃいけないのよ」

 流星の代わりに悪態をついてくれたのは、汗をダラダラと流して端正な顔を歪ませている奥(おく)多佳美(たかみ)だった。長い黒髪がべったりと顔に張り付いている。

 多佳美の質問に答えて、熱灼の中を目に見えぬモノが通り過ぎていく。

「会長(あんた)のせいでしょうが!」

 多佳美と流星は揃って光陣(こうじん)はるかにつっこんだ。

 日傘と共に大きな縦巻きツインテールを持つつり目でちびっ子の生徒会長の声は特殊な周波数のため、常人は聞き取ることができない。ごく稀にそれが可能な者がおり、二人は幸か不幸かそれが可能な者だった。

 二人が先ほどつっこんだのは、はるかが「太陽のせいよ」と言ったからだ。同じように暑さにうんざりした顔で周囲を歩いていた人は、はるかの声が聞こえていないので、突然大声を上げた二人にぎょっとした視線を向ける。

 今日は市民ホールでコンサートが開催されていた。主催ははるかの父親が頭取を勤める地方銀行だった。関係者として出席したはるかは流星を誘った。多佳美は兄の健太郎と一緒に出席するはずだったのだが、ドタキャンされたため一人で出席することになってしまった。

 かわいい妹を相手にドタキャンするなんて!梓の話では先日は有村家にお邪魔していたらしく、最近の兄の行動は掴めないことが多々ある。

 来られないという連絡を聞いた時点ですぐに帰りたい気持ちでいっぱいであったが、様々な因縁のためにそれは難しかった。つまらない音楽にくさくさし、終わってすぐに帰ろうとしたところで二人に出会ったのだ。

「ちょうど良かったわ、あなたも付き合いなさい」

 一方的に告げてすたすたと歩き始めたはるかに付いてきたのは愚痴をぶちまけてフラストレーションを少しでも晴らすつもりだったからだ。すぐに喫茶店なりレストランなりに入ると思ったのだが、予想に反してはるかはビルの外に出て、車に乗ることもなく炎天下を歩き始めた。少し移動するぐらいなのだろうと付いて来たのだが、十五分経っても到着する兆しはない。目的地を聞いても教えてくれない。タクシーに乗ろうと提案しても却下される。

 いつもの多佳美ならとっくに帰っているところだが、暑さのために判断力が失われ、また流星という道連れもいたためになんとなくここまでついて来てしまった。

 しかしもう限界だった。

「もう帰る」

 タクシーを止めようと道に目を向けた時、はるかが短く言った。

「ついたわ」

その店の外観は明るくポップでスタイリッシュなデザインで周囲のオフィス街からは少し浮いている。店の前に立てられた「氷」と書かれたのぼりがミスマッチ感を強めている。

「ポーラーベア」が店名らしい。そしてこの暑さの中、ずらりと行列ができていた。自分達と同じぐらいか、大学生ぐらいの者が多い。

「ここでしょう、前に流星が行きたいって言っていたカキ氷屋さん」

「覚えていたんですか?」

「勿論よ。今日は付き合ってくれたお礼にご馳走するわ」

「ありがとうございます」

 流星は汗でべたべたな顔に涙まで流しそうになりながらお礼を言う。

「でも……」視線の先には行列があった。確かに食べたかったが、これからどのぐらい待てば良いのだろうか?

「大丈夫よ、予約してあるから」

 だらだらと汗を流しながらはるかは不安を消し去る。

「車に乗らなかったのはね、暑い中を歩いていった方が、その方がより美味しく食べられると思ったからなの」

「会長……」

「こんなところでまで会長は止めて。友達でしょう。多佳美さん、あなたも一緒にいらっしゃい。流星の話ではとても美味しいらしいわ」

「……私、カキ氷嫌いなんだけど」

 思いも寄らない結末に三人の時間が止まった。顎から滴り落ちた汗が、道路に小さなしみを作り、すぐに消え去って行く。

 生徒会長らしく、決断を下したのははるかだった。

「それは残念ね。それではまたの機会に。ごきげんよう」と言い残してカキ氷屋へと足を速める。流星も多佳美を気にしながらその後を追う。

「もう、分かったわよ」

 叫んでから多佳美もその後を追った。嫌いだけど、今はあえて頭をキーンとさせたい気分だった。


       *


「蘭華!タイミング遅れてたの分かってる」

 下平(しもひら)コーチは練習が終わるとすぐに名指しで指摘してきた。

「はい、すみません」

 息も絶え絶えな謝(シェ)蘭華(ランファ)は、力を振り絞って大きな声で返事をする。

「できないと、秋の発表会も出られないだけよ」

「はい、ありがとうございます」

 好意で言ってくれているのは分かるのでお礼を言う。梓に頼まれてあやパーのサマーフェスティバルに出たため、ダンス教室の夏の発表会には出られなかった。その事に悔いはない。発表会も大事だが、あれだけ大勢の人の前で踊る機会はめったにないし、とても気持ちが良かった。本番の舞台を踏むことの重要性はコーチも認めてくれた。

 しかし、発表会での実績がなければ奨学金制度の査定に響くのは残念ながら事実であった。大舞台を踏むことよりも定められた発表会が大事なのだ。夏をサボった以上、秋の発表会で結果を出さなければ来年の奨学金はもらえないかもしれない。そうなれば蘭華には中国に帰るしか道はない。憧れの下平コーチにレッスンしてもらえる機会は二度と来ないだろう。なんとしてもしがみつかなくてはならない。

 すでに下平コーチは自分専用のタンブラーで水分補給をしながら他のコーチ達と打ち合わせをしている。

 蘭華はレッスン場の隅に行き、自分の荷物からペットボトルを取り出す。中身はあっという間になくなった。室内はクーラーが効いているが、踊っているといくらでも汗が出てくる。

 タオルと着替えを持ってシャワーに向う。シャワー室はすでにごった返していたが並んでいるとすぐに順番が回ってくる。使用時間は三分までと決められているからだ。

 順番が回ってきたので汗がしみこんだウェアを脱ぎ、冷水を浴びる。たった三分では体の熱を取り除けないが、時間切れで追い出される。髪の毛についた水をタオルで抑えながら下着姿でレッスン場に戻ると素早く衣服を着る。すぐに次のレッスン生が入ってくるのでもたもたしていられない。

「えー、限定トッピングって今日までだったの?八月いっぱいじゃないの?やばいじゃん。私まだ食べてないよ」

「今から行く?」

「でも普通に並んでるでしょ。レッスン上がりに並ぶのは辛いなー」

 蘭華の隣に陣取って、軽く化粧をしている二人のレッスン生の話が聞こえてくる。

「私は行くけどね」

「え、ずるい。だったらそう言ってよ。私も行くよ」

「どこ行くの?」と聞いてみる。

「カキ氷。マンゴーバナナチョコが今日までなんだって。蘭ちゃんも行く?」と誘ってくれる。

 蘭華はじゅるっとつばを飲み込む。カキ氷は大好物だ。

「どこの店?」

「ポーラーベア、市民ホールの近くにあるんだけど……」

「知ってる知ってる」と答えながらも慌てて頭の中で計算をする。ポーラーベアはふわっふわの天然氷と豪華なトッピングでこの夏話題になっている店だ。カキ氷好きの蘭華は当然知っていた。しかしまだ一度も行っていない。問題は値段だった。ちょっとトッピングしただけですぐに千円を超える。二人が話していた限定トッピングは千五百円ぐらいしたはずだ。

 中国人の蘭華からしてみれば、いくら美味しいとは言えカキ氷に千円も出すのは信じられなかった。その上、今月は東京での合宿もあったので家計がかなり苦しい。しかし、せっかくの機会も逃したくない。

「蘭華」

 迷っていると後ろから声を掛けられた。突然の下平コーチからの呼びかけに焦りながら振り返る。

「時間があればバイトしていかない?次のレッスンのアシスタントが足らないの」

 蘭華がお金に困っていることを知っているコーチはたまにこうやって声を掛けてくれる。ここに来るまではダンスの技術の高さしか知らなかったが、ここにきたおかげでコーチが気配りなども人一倍できる人なのをしれたのは、蘭華にとって大きな財産になっていた。

「はい、ありがとうございます」

「じゃあこれは前払い分。よろしくね」

「はい」受け取ったペットボトルを胸の前で抱きしめる。

「じゃあ、私達は行ってくるね」

 荷物を持ったレッスン生達が声を掛けてくる。

「あ、ごめんね。また誘って」

 手を振って見送った蘭華はレッスン場を見回す。すでにほとんどのレッスン生は帰っており、コーチ達も事務所や休憩に行っていた。

 もらったペットボトルの封を切る。その飲み口をじっと見つめた後、口を付ける。一口だけ含み、ゆっくりと喉に落とす。水分だけではなく、ビタミンやミネラル、その他色んな物が身体に染み込んで行くのを感じる。

 キャップを閉め、バッグの中に大事にしまう。

 モップ掛けをしようとロッカーからモップを取り出した時、「師匠」と声を掛けられた。

 レッスン場の入口を見ると、日に焼けて真っ黒の男の子が白い歯を見せて立っていた。

「雨月(うげつ)じゃない。どうしたの?」

 クラスメイトの吉本花月の小学生の弟がそこにいた。最近何度か一緒にダンスをする機会があり、先日のサマーフェスティバルでも同じ舞台を踏んだ仲だ。

「この間のライブがすっごい楽しくて、帰ってから、オレも本格的にダンスをやりたくなったんだ。それでどうせやるなら師匠と同じところと思って。今日から通うことになったからよろしくな!」

 かっこつけてびっと親指を立てる。

「私がいるからここにしたの?」

 自分は下平コーチに憧れてこのスクールに来た。そして今、自分を慕ってこのスクールに来てくれた人がいる。そのことは、とても気恥ずかしいことだが、とても嬉しくもあった。

「駄目だった?」

「そんなことないじゃん。歓迎する。でも、ここのレッスンは超厳しいから覚悟してよ」

「おう、望むところだぜ」

 話していると他のレッスン生達が入ってきた。

「やば、早くモップ掛けしなくちゃ。手伝って」

「任せとけ」

 モップ置き場に駆けて行く雨月を、蘭華は少し眩しい物を見る目で追いかけた。


       *


 眩しさに目を細めている間に、ハイビームを下ろさない車は通り過ぎていった。

 座間(ざま)聡子(さとこ)は繁華街から住宅地に抜ける通り道を一人歩いていた。自宅までは電車で一駅なのだが、少し頭を冷やしたくて歩き始めた。しかし、夜風は吹いているもののじっとりと湿った空気を運んでいるだけでちっとも涼しくなく、望んでいた効果は見込めなかった。

 金髪に染めたショートボブがわずかに揺れる。

 寂しい夜道に唐突に賑やかな曲が流れ始めた。梓からの電話だった。

「もしもし」

「梓だよ。元気してる?」

 聞こえてくるのはいつもながらの明るく弾けるような声だ。

「うーん。ちょっと落ち込んでる」

 素直に言ってみた。

「どうしたの?」

「大学の友達と久しぶりに集まってね。今はその帰りで歩いてるの」

 二年半前に大学に行かなくなってからは、一対一で会うことはあったが、十人以上と一度に会うのは初めてだった。

「大学の人ってみんな就職してるんでしょ。ニートなのによく行けたね」

 従妹はたまに容赦がない。

「んーでも、みんな自分の話をするのに忙しかったから。職場でどんな大変な思いをしたとか、研修で海外に行ったとか、彼氏と別れたとか。だから、ニートの生活なんか興味なかったよ」

 この四月に就職したばかりの友人達は、自分のことだけで精一杯だった。社会人生活に戸惑ったり疲れたりしながらも、新しい刺激の中で着実に前進していた。その自分の頑張りを人に効いて欲しくてうずうずしていた。

「寂しかった?」

 その質問は、ちょっと胸の奥まで届いた。

「寂しい……、寂しくわないよ」

 最後は少し小さな声になった。

「そんな寂しがり屋のお姉ちゃんにお知らせです」

 小さすぎて梓には聞こえなかったのか、寂しがり屋に認定されてしまう。

「明日から学校が始まります」

 そうか、もうそんな時期か。

「しばらく行ってないけど部屋は大丈夫?ゴミ屋敷になってない?」

 そっちの心配をしているのかと苦笑する。

「大丈夫よ。でも花月ちゃんは連れて来てね」

「了解。それじゃ明日ね」

 電話が切られる寸前に、ひときわ明るい声が届いた。

「ニートガンバレ」

 周囲にはまだぬるい風が吹いていた。

 空を見上げると、高架とビルに挟まれた空にぼんやりと光る月が浮かんでいる。

「頑張るか」

 騒々しい日々が帰ってくる。せめて花月が部屋に入れるスペースを作っておこうと、聡子は足を速めた。

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