第12話 十回目の夏休み

 小柄な身体が宙を舞い、大きな水柱を立てる。

「冷たーい」と悲鳴を上げるが、顔は笑っている。

 吉本花月に続いて有村梓も水柱を立て、同じように悲鳴を上げ、笑う。

「あんまりはしゃぎ過ぎるなよ」

と注意していた座間聡子であったが、キャイキャイと水を掛け合う二人を見ていると我慢ができなくなって飛び込んだ。

 一際大きな水飛沫をかぶって、梓と花月が嬌声をあげる。

 ここは海でも川でもない。自然から隔絶された、ビルに囲まれた場所にあるホテルのプールだ。すぐ横には高速道路も走っている。

 東京に来た一行は、奥多佳美のコネを使って一般入場よりも三十分早く入場させてもらったのだ。

 朝早いためにまだ水温は低い。

 しかしテンションの上がった三人は、水温などには負けずにはしゃぎまくっている。

 髪をツインテールにしている梓はAラインのスカートつきの赤白チェックのビキニ。花月はタンキニで、トップは白地で縁に青のライン、ボトムは同色の青。聡子はオレンジを基調とした幾何学模様のビキニを着ている。

 プールの縁で脚を水につけてパシャパシャしている比与森和は、前をリボンで結ぶタイプの花柄のビキニで、白のシャツとロングパレットでグラマラスな身体を隠している。

「何やってるの?」

 その背後に忍び寄った多佳美は、黒一色のワンピースを着ている。モデル体型の彼女には似合っているのだがいかんせん胸が小さ過ぎる。長い黒髪は結い上げている。

 楽しそうに水を叩いていた巨乳の和は、後ろからぶつけられた冷たい言葉に、シャツで胸元を隠しながら顔をこわばらせる。

「……水が冷たいなーって」

 容赦ない蹴りを背中に入れて和を頭から水に落とした多佳美は、梓を大きな声で呼んだ。

「梓!水着カットを撮るからこっちに来て!あーもう!髪を塗らして!」

「あははははははははは」

 梓は怒られても、楽しそうに笑い声を上げていた。


 多佳美の指示に従って梓はプールサイドで様々なポーズを撮るが、水着撮影など撮る方も撮られる方も慣れていないために難航した。結局は普段どおりに楽しそうに遊んでいるところを動画で撮ることにした。そんなことをしていると三十分はあっという間に過ぎていった。一般客の入場が始まったので撮影は終了となった。多佳美は撮り足りない様子であったが、さすがに入場を遅らせろと係員に要請したりはしなかった。

 聡子と和は撮影の補助に疲れてベンチチェアで一休みし、多佳美は撮った画像をチェックしている。梓と花月はまだ元気よくプールで遊んでいる。

「これこれ。さっきちょっとだけ浸かったけど気持ちいいよ」

 細長い楕円形のプールの横に、円形の小さなプールがくっついている。花月が覗き込むとぶくぶくと泡が出ており、手をつけてみると水温が高かった。

「ジャグジーだ!」

 二人がジャグジーに浸かっていると、一般客も次々とジャグジーに入ってきて、すぐに満員になった。一方、プールに浸かっている人は疎らで、デッキチェアに身体を横たえている人の方が多い。

「大人って不思議だね。プールに来て泳ぎもせずにジャグジーに入って、しかも本を読んでいる人までいる」

「ほんとだね」

 二人はジャグジーの縁に顔を並べてひそひそと話しつつ、しばし温もりに癒された。


 梓達が入っているジャグジーからプールを挟んで反対側にあるドリンク売り場の前で、和が男二人に声をかけられているのが見えた。若くてちゃらいが品は良い、金持ちのボンボンといった感じの男達だ。和は必死で断っているようだが、諦める様子を見せない。

「ナンパだ」「ナンパだ」

と二人は声を合わせるが、ジャグジーから出ることはなく、様子を見守る。

 しつこい男達から逃れようと、和は手を振ったり頭を下げたりしているが、そのたびにメガネがずれたりシャツに飲み物がかかったりしている。

 ナンパ男達は逆に大喜びである。

「委員長って、ああいうところがちょっと天然ぽいよね」

「そうだねー」

 ナンパに気が付いた聡子が駆けつけて来て、ナンパ男を追い払った。

「聡子さんかっこいいねー」

「委員長の連れであんな金髪の女の人が出てきたらびっくりするよね」

 そして二人でまた声を合わせる。

「まぁ、ニートなんだけど」


 時間が経ち、入場者もかなり増えてきた。梓達は遊び疲れた身体をデッキチェアの上に横たえていた。

「こんなところがあるんだなー」

 手で強い太陽光を遮りながら聡子が呟く。

「こっちのビルはホテルだけど、あっちはオフィスビルでしょ。あれもこれもオフィスビル。人が一生懸命仕事をしているすぐ横で、優雅にプールサイドで寛ぐ。格別な気分ね」

 多佳美が冷ややかな目で応じた。

「あのビルから水着を覗いている人達も、ニートがこんなところでそんなことを言っているって知ったら、みんなで殴りに来るでしょうね」

 聡子は目を大きく開いた後、ゆっくりと頭にタオルをかぶった。


「わお、ゴージャス!」

「おしゃれ!本当にこんなところで食べていいの?」

 ホテルの一階にあるレストランのランチはブッフェ形式で、ご馳走がずらりと並んでいる。

「ええ。父が皆にご馳走したいってことだから遠慮せずに食べて」

 多佳美の言葉に、皆の目が輝く。

「たっかみーのお父さんありがとう。花月ちゃん、ローストビーフだよ!カニだよ!」

「こっちには釜焼きのピザがある」

「このロールパン美味しそう」

 梓と花月、和が料理の海の中をぐるぐると回り始める。時間が早いためまだ人は疎らであり、興奮する女子高生達を遮る物はない。

「でも悪いわね。プールにご飯まで奢ってもらって。もっとも、あなたのお父さんにとっては大したことないんだろうけど」

 日本を代表する中之島財閥の総帥である多佳美の父にとっては、ここも傘下のホテルの一つでしかない。

「ええ、気にすることはないわ。それに父も見返りは得ているはずだし」

 多佳美は皿を取り、サラダを盛りつけ始める。

「見返り?」

「ええ、一緒に住むようになってから、むしろ一緒に過ごす時間が減ったから」

 サラダにドレッシングをかけながら、顔に疑問符を浮かべている聡子に説明する。

「父のような人間にとっては愛人の家に行くのは普通のことなの。母が生きている間は大手を振って私と遊ぶこともできたわ。でも今は一緒に住んでいるから、義母に遠慮して私とあまり話せずにいるわ。だから今日は、私にお願いされて喜んでいると思うの。お昼も、一緒に食べたがっていたし」

「仕事が忙しかったの?」

「いいえ」多佳美は笑いながら首を振る。

「私が断ったの。だって嫌じゃない。友達と楽しんでいるところに父親が来るなんて。もしかしたら離れた席から見ているかもしれないし、部下に写真ぐらい撮らせているかもしれないけど。ちょっと梓、そんなに食べられるの?」

 聡子が口を挟む前に、多佳美は梓達と合流していった。

 ぐるりと辺りを見回してみるが、視線もカメラも見当たらない。一度力を抜いた後、聡子は気合を入れてブッフェを回り始めた。


       *


 お腹をいっぱいに膨らませた後は、街へと繰り出した。

 色んなお店を回り、プリクラを撮り、クレープを食べながら歩き、パワースポットで更なる飛躍をお願いした。

 八時を回ってようやく、花月の東京の家に帰り着いた。花月の母親から急な仕事が入って今夜は帰れないかもしれないとの連絡が入っていたため、デリで買って来た惣菜をテーブルの上にずらりと並べる。精一杯遊んで腹ペコだった五人はそれらをあっという間に食べつくした。

「疲れた。今日はこのまま寝ちゃいそう」

 ソファに倒れこんだ梓が呻く。

「遊んでばかりで、合宿っぽいことなにもやってないと思うんだけど……」

と和が弱々しくつっこむ。

ちなみに和を除く四人は四日前から東京に来ていた。他の用事があった和は昨晩合流した。そして四人は明後日帰る予定であるが、和は残ってコミケに参加することになっている。

「花月ちゃんのママも、夏の想い出も作れないようじゃ良い曲なんて作れないって行ってたから、こんな日もあって良いと思うよ」

 ひっくり返ったままの梓の言葉に、和は作り笑いを浮かべながら言う。

「えーと、曲作りをしないなら、私の夏の想い出作りを手伝って欲しいとか思うんだけど」

「なに?」

 後片付けをしていた花月が訊く。

「突発コピー本を出すという想い出を残してくれたら、とっても感謝するんだけど……」

 安易に了解した四人は、すぐに後悔した。

「突発コピー本て、普通十ページぐらいじゃないの」

「ごめんなさい。つい手が滑っちゃって……」

 多佳美のつっこみに謝りながらも、和の画を描く手の動きは止まらない。

 皆で手分けして和の原稿を手伝っていた。思っていたよりも枚数は多かったが、手が多いこともあり、今夜中にはなんとかなると思えた。

「ねぇ、そろそろなんじゃない?」

「ほんとだ。ちょっと待って。パソコンをテレビに繋ぐから」

 聡子が立ち上がって作業を始める。すぐにテレビにパソコンの画面が映し出された。

 これから「A Girl in Opera Glasses」のライブ映像がごきげんビデオでストリーミング配信されるのだ。テレビや衛星放送ではないが、ネット会社の公式コンテンツとして公共の電波に乗るのだ。ごきげんビデオの有名人が結集したユニットとは言え、四ヶ月でここまで辿り着いたのは快挙といえた。

 協賛企業の宣伝映像が流れた後にライブ会場が映る。三千人入る会場が満員で、充満する熱気が画面からも伝わってきた。チケット入手の倍率はかなり高かったらしい。

 暗いステージの真ん中に、ピンライトが落とされ、ボーカルのリングが現れるとひときわ大きな歓声が上がった。

 歌が始まってすぐに五人の表情が変わった。

「うまくなったわね」

「だよね!」

 多佳美の言葉に梓が嬉しそうに同意する。

「喜ぶところ?」

「そうだよ!わこちゃんも頑張ってるんだから、私ももっと頑張らなくちゃ!」

 作詞作曲を担当する瘡乃刃もステージ上でギターを演奏している。その姿がバックのモニターに映し出されると大きな歓声が上がっていた。

 やはり瘡乃刃の作り手としての人気は高い。そしてここまでのステージを作り上げたことを考えれば、プロデュース能力も高い。

 聡子と多佳美は一瞬ちらっと顔を見合わせたが、言葉は交わさなかった。


 ライブは大盛況のまま、そして最後にCDデビューを告知して終わった。会場では歓声が上がっていたが、すでにネットで事前情報が流れていたこともあり、五人に驚きはなかった。

「歌は全部録り直しかしらね。でもそうなると、過去映像は貴重価値が出てくるわ」

「そこまで考えてわこちゃんを起用したのだとしたら、瘡乃刃の先を読む能力は凄いわね」

 止まっていた手を再開させながら、多佳美と聡子が意見を交わした。

「でも、同級生がCDデビューするなんて信じられないです」

「そんなこと言って、委員長だってすぐに漫画家デビューするんじゃないの?」

「私なんてまだまだ全然」

 花月のつっこみに赤面しながら否定する和は、ライブ放送中もずっと手を止めていない。

「私達も委員長が来る前にいっぱい曲作りしてたんだからね。ちゃんと合宿やってたんだよ」

 梓が自信ありげに言う。

「そうそう。委員長も遅れてきたのだから、こんな原稿さっさと終わらせて早くこっちの画を描いてもらわないと困るわ」

 多佳美の軽い言葉に、それまで常に動き続けていた和の手の動きがぴたっと止まった。

「……こんな原稿ってどういうこと?」

 原稿を見つめたまま静かに言うが、怒っているのは明らかだった。

「それは……」

 思いがけない和の様子に、多佳美も戸惑って言葉が出てこない。先に和が続ける。

「私には私のやりたいことがあるの。梓ちゃんに協力するのはイヤじゃないけど、私の一番ではないわ」

「いい……、和ちゃ……」

「梓ちゃんは悪くないです。ちゃんと分かってくれているから。感謝もしてる。でも、前から思っていたけど、奥さんが仕切っているのが変なんだと思う」

 突然吐き出された感情に室内は凍りつき、誰も次の言葉を発せないでいた。

「ごめん。あっちの部屋でやる」

 終始感情を抑えたまま、和は原稿と道具を持って立ち上がり、静かに部屋を出て行った。


「作業を続けてて」

 梓はすぐに和の後を追いかけて行った。

「え、どうしたらいいの?どうなるの?」

 花月はオロオロと残った聡子と多佳美、そして二人が去って行ったドアを見る。

 黙って作業を再開した多佳美に聡子が訊く。

「良いの?」

「私が行っても、火に油を注ぐだけでしょう」

 静かに答えるが、原稿に消しゴムをかけようとしていた手が止まる。消しゴムを離し、二三度手を閉じたり開いたりする。

「大丈夫かな?」

 花月はまだ心配そうにドアを見ている。

「梓に任せるしかないわ。梓で駄目ならどうしようもない。私達を繋いでいるのは梓だけなんだから」

「そんなことない」

 多佳美の言葉に、不安そうだった顔を一変させ、花月は立ち上がって反論した。

「梓ちゃんがきっかけだったのは確かだけど、今はみんな友達だよ。違うの」

「違うって、委員長もさっき言ってたじゃない」

 多佳美は顔を合せずに応える。まだ消しゴムかけを再開できない。

「一番じゃないって言っただけだよ。友達じゃないなら、コミケ前で忙しいこの時期に来てくれないよ。一番じゃないかもしれないけど、お互いに大変な時に助け合うのが友達でしょ!多佳美はどうなのよ」

「どうって……」

 いつもは高飛車な態度の多佳美が、完全に花月の剣幕に押されている。

「友達だと思ってないの?」

「……分からないよ」

「分かって!」

 苦しげな答えを花月の勢いが吹き飛ばす。

「っぷ」

「なんで笑うの!」

「だって……今の花月、梓みたいだったから」

 言われて花月は頭をかく。

「そうかも。似てきちゃったのかなー。嫌だなー」

「このままみんなが梓みたいになったら大変ね」

 その光景を同時に想像してしまい、一緒に笑った。

「明日、和に謝るわ。許してくれたら良いけど」

「きっと許してくれるよ」

「花月もごめんなさい」

「うん。分かってくれてありがとう」

 多佳美は消しゴムを持つ。今度は滑らかに動かすことができた。


 一心不乱にペンを走らせていた和の手が止まった。原稿を持ち上げて、じっくり内容を確認する。ゆっくりと原稿を下ろすとメガネを外し、目を閉じてふーっと息を吐き出した。

 メガネをかけ直して横を見ると、梓が眠っていた。隣の部屋に移った和を追ってきた梓だったが、何も言わず、黙って手伝ってくれていた。途中からは指示を出すのも忘れて原稿に集中していたため、眠ってしまったのだろう。カーテンの向こうは明るくなってきている。

 梓を起さないように静かに立ち上がり、目をしょぼしょぼとさせながらベランダに出た。むわっとした熱気に包まれる。

 ベランダには先客がいた。厚ぼったい瞼をした多佳美が振り返る。

「ここから見る朝日が綺麗なの」

 そう言って目を戻す。高層ビルのマンションのベランダの前にはビルの群れがある。その群れの中にぽっかりと空いたスペースに、海が見えた。そこを中心に空が明るくなってきている。

 和は黙って多佳美の隣に立ち、小さな海を見つめた。

 空を白く照らし、海が金色に染まる。

 太陽はゆっくりとその姿を現した。

 現れるまでは時間がかかったが、一度見えてくるとその後の動きは早い。すぐにその輝く全ての姿を水平線の上に現した。

「ごめんなさい」

 はっきりとした声で多佳美が謝る。和は答えない。

「分かっていて欲しいのだけど、私は和の画をそんなものとか思っているわけじゃなくて、あれは……」

「どう評価してくれているのかは、動画の中での使われ方を見れば分かる」

「そ、そう……」

 口ごもる多佳美に、和はいたずらっぽく笑った。

「あの後、八ページ追加しちゃった」

「八ページって……」

「仕上げ、手伝ってくれる?」

 多佳美は苦笑しながらも頷くしかなかった。

「それが終わったらARIAの画を描くから。本当は今日はもう寝たい気分だけれど」

「私もよ」

「ただいまー」

 玄関の方で声が聞こえた。花月の母親がようやく帰ってきたのだ。

「遅くなってゴメン、って死屍累々!いったいどうしたの?」

 昇る途中の陽に照らされながら、多佳美と和は笑いあって部屋に戻った。


    *


 次の日の朝、娘達が帰る日であったが、花月の母親は別れを惜しむ暇もなく朝早くから仕事に出かけていった。

 荷造りを始める皆に、メールチェックをしていた聡子が注目するように声をかけた。

「良いニュースと悪いニュース、どっちから聴きたい?」

 聡子はやけにニヤニヤしている。

「良いニュース!」

「……悪いニュースからにして」

 すかさず手を上げた梓の発言を修正させる。

「じゃあ悪いニュース」梓は素直に応じる。

 コホンと聡子はわざとらしく咳払いをする。

「来週の日曜日に開催されるあやパーサマーフェスティバルに出演予定だった演歌歌手の上高地白馬が諸事情により出演できなくなったわ」

「……誰?」

 四人は顔を見合わせるが、誰も上高地白馬を知らなかった。

「良いニュースは?」

 花月が訊ねると、聡子はにやっと笑いながら答えた。

「代役として、ARIAに出演依頼が来たわ」

 すぐにはその意味を飲み込めなかった。

「どうする?」

 ようやく胸に入ってきた。

「出るに決まってるよ」

 梓の声をきっかけに歓声が上がった。

 皆は抱き合って、涙を流し合って喜んだ。


       *


 怒涛の十日間が始まった。

 コミケがある和を残して、四人はすぐに地元に戻った。

 梓と花月は、花月の父親の協力も得ながら、急いで曲作りを進めた。

 多佳美と聡子はあやめ池パークと打ち合わせを重ね、宣伝活動を行った。

 コミケ期間中は友達の家に泊まる予定だった和は花月の母親の家に残り、夜は多佳美から送られてくる指示に従って素材作成を行った。

 五人は全力で駆け抜けた。


       *


 あっという間にサマーフェスティバルの日が来た。よく晴れていてとても暑い。

 あやめ池パークの入場ゲート前には朝から長蛇の列ができた。

 梓の友達だけではない、ARIAのファンが市内からも市外からも駆けつけてきてくれていた。

 開場するとすぐに特設ステージ前に人が押し寄せる。

 ネットでの盛り上がりを見て、最初ARIAの出演は夕方のみであったのを午前中にも行うことように変更しており、それは正解だったと関係者は安堵した。

 ステージ裏では、梓が落ち着いて出番を待っていた。

 中学校時代、吹奏楽部のコンクールで今日よりも大きなステージに立ったことはある。しかしその時の梓は吹奏楽部の中の一人でしかなかったし、梓を見に来た者など、親以外は誰もいなかった。

 しかし今日は違う。五百人の観客はARIA一人を見に来たのだ。

 それでも梓は落ち着いて出番を待っていた。

 ダンサーとして出演する花月の方が緊張しており、それを弟の雨月がからかっている。応援としてダンス合宿を抜けて駆けつけてくれた蘭華も日本での始めての大きな舞台に気合が入っている。

 あやパーのスタッフにとってもこんなに大勢の観客が入るのは久しぶりのことだった。大勢のスタッフ達が忙しそうに動き回り、競演するマーチングバンドは何度も練習を繰り返している。そんな中、あやパー姉だけはどっしりと落ち着いている。

 ごきげんビデオでライブ配信することは告知しており、すでにアクセス数は一万を超えていると聡子から報告が入った。

「お願いします」

 進行スタッフから声がかかる。

 梓はすくっと立ち上がり、満面の笑顔で、明るいステージへと早足で歩いていった。


 午前と午後、二度のステージはどちらも満員だった。

 特設ステージ会場の外も、ARIAを見たいという観客で溢れた。

 ライブ配信へのアクセス数は増え続け、最後には一部サーバーがダウンする事態にまでなった。

 ARIAはそれらに応えるべく、全力で歌い、踊り、笑顔を振りまいた。

 真夏の気温よりも熱いステージに、観客は熱狂した。

 夕方の回では二度のアンコールに応じて、ARIAの始めてのステージは大成功で幕を閉じた。


 夜空にサマーフェスティバルの最後を飾る花火が上がる。

 園内にはまだ大勢の人が残っていたが、皆一様に空に咲く大輪に目を向けている。

 梓達は管理事務所の屋上で花火を見ていた。

 ステージが終わってからすでに二時間が経っていたが、高揚感は抜けきっていなかった。

 曲がりくねったジェットコースターのレールの向こうに花火が上がるたびに「やったね」とハイタッチする。

「私、歌い手になれているよね」

 花火を背にして梓が訊く。華やかな光が身体を照らす。

「当たり前じゃない」

 花月の言葉に皆が頷く。

「今日は、ううん、みんな今までありがとう」

 梓は頭を下げた。

「でも、私はもっと先に進みたい」

 顔を上げた梓は、いつも以上の笑顔で告白する。

「進んだ先に何があるのか、何になるのか分からないけど、私は進みたいの。だからまた、これからも、私に力を貸してください」

「うん、喜んで」

 再び頭を下げた梓に花月が抱きつく。多佳美と和も抱きついていく。遅れて蘭華と雨月も加わっていった。

 聡子は嬉しいような恥ずかしいような誇らしいような表情でそれを見つめている。

「今年の夏休みのこと、私は絶対に忘れないよ」

 一際大きな花火が上がり、大きな音と光が周囲を満たした。

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