第11話 遠雷

 数日前に梅雨明け宣言があり、それから暑い日が続いていた。

 座間聡子はニートになってからも昼型の生活を続けている。今日も朝からクーラーが効いた部屋でパソコンに向っていると呼び鈴が鳴った。

 世間から隔絶された生活を送っているはずなのだが、来客は意外に多い。町内会に公共料金の支払い、売り込み、そして命の綱であるネット通販の宅配便。しかしそれらは普通、表門に来るのだが、今の呼び鈴は勝手口の方だった。まだ学校の時間なので、梓ではない。

「誰だろう?」

居留守を使うことも多いのだが、胸騒ぎがしたのでのそりと立ち上がった。

 部屋を一歩出た途端にもわっと熱気が襲ってくる。屋外に出ると厳しい太陽光線も降り注いでくる。庭は草木が伸び放題でジャングルになりかけていた。これはさすがに花月には頼めない

「植木屋さんを呼ぶか。電話番号とかどこにあるのかな」

 今度母親に確認しなければならないと考えながら勝手口を開けると、制服姿の奥多佳美が立っていた。

「おはよう」

「おはようって、どうしたの?」

「あなたが呼んだのでしょう」

 多佳美は美しい眉間に皺を寄せる。

「そうだけど、まだ学校でしょ」

 応えながら、常人の理屈は目の前にいる娘には通用しないことを思い出した。

 なにしろ入学して一ヶ月間平気で学校さぼったぐらいだ。

「人生をさぼっている人に言われる筋合いはないわ」

 こんな暑いところにいつまでもいられないと、聡子の横を通り過ぎると、自分でドアを開けて家に入っていった。

「人生をさぼっている……か」

 聡子は小さく繰り返した後、クーラーの効いた部屋へと急いだ。


「気になるメールが来たの。見てくれる?」

 部屋に戻ると聡子はメールソフトを起動させ、一本のメールを多佳美に見せた。

 歌い手ARIAである有村梓は母親にSNS等を禁止されていることもあり、パソコン用のメールアドレスを持っていない。その為、聡子が取得した捨てアカウントを使ってごきげんビデオに投稿を行っている。その為、ARIA宛てに送られたメッセージなどは聡子が受け取るようになっていた。

 聡子がその内容を確認し、ファンメールなどは梓が来たときに見せたり、梓のスマートフォンメールに転送したりしている。不要と思われる宣伝メール等は見せる前に削除しているが、それらは梓も了解して行っていることだ。

 今回届いたメールはARIAに曲を提供したいという物だった。それ自体は珍しい物ではない。ARIAが有名になるにつれてパラパラと送られてきていた。今までは梓に確認を取って断っていたのだが、今回のメールは少し事情が違った。

「瘡乃刃(カサノヴァ)……、本物?」

 送信者名を見た多佳美は冷静にまずはそこを疑った。

「メルアドはホームページに載っているのと同じだった。ヘッダーにも怪しいところは見つからなかったわ。それ以上は分からないけど」

 聡子はお手上げのポーズをする。

「ARIAも認められてきたということね。素直に喜んで良いのかどうかは判断が難しいところだけど」

 瘡乃刃、それはごきげんビデオ内で作詞家、作曲家として人気のある作り手の名前だ。最初はボカドルの曲で投稿していたのだが、すぐに作詞作曲を求める歌い手が殺到する人気作り手となり、その中にはプロデビューした者もいる。すでにプロの作詞作曲家としてもその実力を認められてきているのだが、あくまでも主な発表の場はごきげんビデオであるとしており、その姿勢がファンからも絶大な支持を受けている。

 その瘡乃刃がごきビデで作品を発表している実力者達を集め、自らも作詞作曲、ギターを担当しているのが梓の旧友である野上わこがリングとして歌い手を勤めるユニット「A Girl in Opera Grasses」である。

「梓は何て言っているの?」

「まだ話してない。あなたが始めてよ」

「どうして?」

 多佳美はモニターから目を離し、切れ長の目を更に細める。

「本当なら悪い話ではないと思うけど、どちらにせよ影響が大きいわ。それに梓と野上さんの関係を知っているのかも分からない。今、ARIAのプロデュースをしているのは実質あなたでしょう。だから先に意見を聞いておきたかったの」

「それは違うわ」

 多佳美は強い口調で否定した。

「花月は作詞作曲ができるし、おっぱいメガネは画が描ける。しかも高校生レベルの話ではなくて、ネットとは言え世間できちんと評価されるレベルだわ。でも私には何もない」

「動画の評判だって良いじゃない」

 聡子の言葉に多佳美は首を振る。

「正確には何もなかった。私は梓に見つかっただけ。お兄様を追いかけていたところを、カメラが回せる人がいると声をかけられただけ。それまでは何にもなかった。動画の編集なんてできなかった。だから、見離されるのが怖くて頑張っているだけ。いつメッキが剝がされてしまうのか、いつもドキドキしている」

 感情をぶちまけてしまうのを恐れているかのように、淡々とした表情で言葉を紡ぐ。

「意外ね。いつも自信満々に見えていたけど」

「愛人の娘が、本家に一人で引き取られるっていうのは、自分を守る方法を見つけなきゃいけないってことよ。しかも、普通に帝王学を学ばされるような家にね」

 この子にはそんな事情もあったなと聡子は思い出すが、だからといって改めて同情したりするわけではない。

「あなたの事情が分かった上で訊くわ。どうすれば良いと思う?」

「決めるのは梓です」

 多佳美は再び迷いなく答えると、すっと立ち上がった。

「私達はまだ、どうして自分が梓に選ばれたのかを知らないの」

 私、ではなく私達であることが聡子には引っかかった。

「花月や和も?」

「確認はしていないけどきっとそう。メールの件は、お任せるわ」

 言い残して、多佳美は部屋から出て行った。

 今の一連の言動は、どこまでが作った物なのだろうか

 聡子は窓の外を見た。あいかわらずとても外出する気にはなれないほど眩しい日差しだった。


       *


 多佳美が学校に到着すると、すでに昼休みに入っていた。

「あ、たっかみー。おはよう」

 教室に入るとすぐに梓が抱きついてきた。

「あっつい」

 悲鳴を上げて引き剥がす。

「なんでそんなに体温高いのよ!」

 非難すると梓は不本意な表情を返す。

「たっかみーが低過ぎるんだよ。ひんやりしてて気持ちいいけどね」

「私は熱いのよ!」

「それに花月ちゃんの方が高いよ。ほら」

 梓は横に座っていた吉本花月に、多佳美の二の腕を触らせた。

「あっつ!」

 多佳美は先ほど梓が抱きついた時以上のリアクションを見せた。

「本当に高いわね。やっぱり小学生なんじゃない?」

「体温で決めるな!」

 とばっちりのように言いがかりをつけられた花月が元気よく抗議の声を上げた。


「そうだ。たっかみーの家って別荘持ってる?」

「別荘?持っているんでしょうけど私は……、子供の頃に行った気がするけど、あそこは別荘だったのかしら?」

 梓の質問に多佳美は遠い目をした。

「はっきりしないから帰ったら訊いてみるけど、どうして?」

「もうすぐ夏休みだよ!夏休みときたら、合宿でしょ!みんなで一緒に寝泊まりして、新曲をバンバン作るの!」

 梓は拳を作って宣言する。

「合宿、良いわね」

「楽しそう。合宿ってやったことないなー」

 多佳美と花月がすぐに賛同する。

「中学校の時に吹奏楽部で合宿したことがあるから任せて!」

「梓に任せて大丈夫なのかは疑問だけれど、委員長は?」

 皆が話している間もずっと手を動かして画を描いていた比与森和は困った顔を見せる。

「夏は色々とイベントがあるから……」

「コミケとか?」

「他にも色々と……」

 語尾をぼかす和に梓はぐいと顔を近づけて行く。

「ダメ?」

 それを満面の笑顔で訊くのが梓だ。

「スケジュール、調整してみるね」

 そしてその笑顔を見せられると、誰も断れないのだ。


「でも別荘なら、花月の家も持っているんじゃないの?」

 花月の父、吉本修二は日本を代表する売れっ子作詞家だが、その娘はぶんぶんと手を振る。

「ないよ。パパは出不精だから。旅行にもほとんど行ったことがないの。東京に家はあるけどね」

「お父様が仕事で東京に行った時用?」

「というより、ママが住んでるの」

「お母様がって、別居?」

 多佳美が申し訳ない顔をするが、花月は慌てて手を振る。

「別居だけど、仲が悪いとかじゃないよ。パパが出かけたり人に会ったりするのが嫌いでここで活動しているんだけど、やっぱり東京でしなきゃいけない仕事も色々あるから、ママが代わりにやってるの」

「人付き合い良さそうだったけど」

 先日会った時のことを思い出す。花月の弟である雨月を一緒に遊園地に連れて行くよう頼んで来た時は、人付き合いが悪そうな印象が受けなかった。

「そりゃ、業界人だからね。必要な時にはそれっぽいこともできるんだよ」

 それはそうだろうと思うが、多佳美は少し複雑な気分になった。

「合宿は海や山って思ってたけど、東京も良いね!」

 二人の話を聞いていた梓が声を弾ませる。

「ママにはいつもみんなのことを話しているし、連れて行くっていったら絶対喜ぶよ」

 花月は嬉しそうに東京の家に泊まることを了承する。

「原宿とか行ける?」

「行ける行ける」

「行ってみたい洋服屋さんや小物屋さんがあるの」

「昨日もテレビで特集やってたよね」

 原稿を続けていた和も入ってくる。

「私も見てた!パンケーキ屋さん見た?」

「カキ氷の上にパンケーキを乗せてたよね。凄かったー」

「行ってみたいよね。そうだ!東京湾て泳げるのかな?水着を買いに行かなくっちゃ!」

「合宿じゃないの?」

 はしゃぐ梓に、多佳美が冷めた目を向ける。

「合宿ってそういうもんじゃなかったっけ?」

「やっぱり梓は当てにならないね」

 花月の指摘に、梓は反省の色は見せずに笑いながら頭をかく。

「多佳美の言う通りだよ。合宿っていうのはもっと本気でやるもんでしょ」

 会話に入ってきた謝蘭華が、こつんと梓の頭を叩く。

「蘭華ちゃんは夏休みに中国に帰るの?」

 蘭華は中国からダンスを習うために来日している留学生だ。

「帰らないよ。せっかくの休みなんだからダンスをみっちり練習するよ。本当の合宿に行って、朝から夜までダンスダンスダンスよ」

「そうなんだ。頑張って!」

「でも確か、合宿のスケジュールに東京にライブを見に行くってあったと思うよ」

「本当に?あっちで会えると良いね」

 二人でイエーイとお互いのピースサインをぶつけ合った。


       *


 楽しい夏休みの前には期末試験がある。

 試験初日を翌日に控えた放課後、梓達四人は、聡子の部屋で試験勉強に勤しんでいた。

 四人の中では一番ちゃらんぽらんそうに見えるが、実は成績上位者である梓が教える側だ。花月は学年の真ん中辺り、和は委員長などというあだ名をつけられているのに一番成績が悪い。

 多佳美は授業をまともに受けていないし、勉強をしている素振りを見せていないにもかかわらず中間試験では成績上位者であった。今も勉強会には加わらず、聡子とパソコンを見ながら話をしている。

 数学の問題で悩みこんでしまっている和を見ながら梓が提案する。

「そういえばこの間読んだ漫画に、赤点を取ったら合宿に行けないって言うのを見たんだけど、そんなルールを作ってみる?」

「なんでそんな誰も得しないようなルールを作るんですか」

 和が息も絶え絶えに反対する。

「でも、私の時は赤点だった人は補習を受けさせられたけど、今は違うの?」

 桃陰高校卒業生の聡子が口を挟む。

「今もあるよ」

と答えた梓に、和が「えっ!」と驚きの声を発する。

「本当?」

「ホームルームで先生が言ってたよ」

「聴いてなかったです……」

 和の顔がどんどんと青くなっていく。

「委員長、最近はホームルーム寝てることが多いもんね。大丈夫、補習と合宿はかぶらない予定だから」

 フォローする花月を和がぎらりと睨む。

「原稿が落ちるんです!」

 鬼気迫る迫力で言うと、猛然と勉強し始めた。


       *


 時は進み期末試験最終日、和は時間ギリギリで登校してきた。目の下には隈ができていて顔色も悪く、髪の毛もぼさぼさだ。

「委員長どうしたの?徹夜で勉強したの?」

 呼び止めた梓が心配そうに尋ねる。

「徹夜は徹夜だけど……」

 和は遠い目をしながら、自嘲気味にふっと笑う。

「昨日、勉強にちょっと目処がついたから、華の影忍の最新話を読んじゃったの。そうしたら、新しいキャラが出てて、その子がもう萌え燃えだったもんだから……」

 フッフッフッフッと怪しい笑い声が漏れてくる。

「短編一本描いちゃいました」

 そう言い残してふらふらと席に向う。

 梓には何も言わずに見守ることしかできなかった。


       *


 一学期の最終日は良く晴れて、そして暑かった。

 体育館には夏休みを待ちわびる女子高生達を押し込めて、全校集会が行われていた。

 校長先生からの話、生徒指導の先生からの注意事項に続いて、生徒会会長 光陣はるかが壇上に立った。横にはいつもどおり副会長の東村流星がいる。

 はるかの声は特殊な周波数で常人は聞き取ることができないがごく稀に、流星や多佳美のように聞き取れる者もいる。

 チョーカー型の変声器を使って話すこともできるのだが、このような場では流星に代弁させるのが常であった。

「皆さんおはようございます。生徒会長の光陣はるかです。こうして一学期を無事に終えることができて生徒会長として嬉しく思っています。一年生の皆さんはもう学校に慣れられたでしょうか?」

 はるかが口を開いた少し後に、それを聞き取った流星が皆に言葉を伝える。内容は至極まっとうなものだ。

 皆がおとなしく聞いている中、一人の生徒がぶふっと音を上げた。噴き出すのを必死に堪えているような声だ。

 多佳美だった。

 顔を真っ赤にし、肩をぷるぷると震わせている。

 しばらくはそのまま堪えていたが、しばらくしてまたぶふっと声を上げる。今度はすぐに踵を返し、早足で歩いてそのまま体育館から出て行った。

 一年A組の生徒は多佳美の奇行に慣れているので、「またか」ぐらいにしか思わなかったが、別のクラスの者達は心配そうにその姿を見送り、静かなざわめきが起こった。

 些細なざわめきを気にすることなく生徒会長の話は終わり、校歌を斉唱した後に全校集会も終わった。

「何を言ってたんだろうね」

 教室に戻りながら、梓と花月と和は想像する。三人は、はるかが自分の声を聞くことができるものを狙っていたずらをしかけることを知っていた。流星はありきたりなことを発していたが、実際にははるかはとんでもないことを話していたのだろう。

 珍しいことに、多佳美は教室に戻っただけで帰宅まではしていなかった。

 ただ、三人にこう宣言した。

「あの馬鹿が会長をやってる限り、私は絶対に全校集会に参加しないから!」


       *


「委員長、赤点が一つもなくて良かったね」

「ありがとう。ギリギリが四つもあったけどね」

 花月の言葉に和は心底ほっとした表情を見せる。

 ホームルームも終わり、一年A組の生徒の半分ほどはすでに教室を出ていたが、残りの半分は教室に残り、しばしの別れを惜しんだり、夏休みに会う約束をしたりしていた。

「本当に梓ちゃんが作ってくれたまとめのおかげです。とっても感謝してます」

 その梓は中間から少し順位を落として四位になったが、しっかりと上位をキープした。花月と和が不正疑惑を抱いている多佳美はまたしても十位であり、疑惑は更に深まった。

「梓はどうしたの?」

 そんな疑惑を持たれていることは知らないであろう多佳美が訊ねる。教室内にいればすぐに分かる梓の姿はなかった。

「用事があるってさっき出て行ったよ。鞄は置いてあるから帰ってくると思うけど」

「では待ちましょうか」

「さっき聡子ちゃんから部屋の片付けに来てってヘルプが入ったの。先に行って片付けてようと思うんだけど」

「しょうのない人ですわね。では先に行っていましょう」

 一度腰を下ろした多佳美がもう一度立ち上がる。

 まだ残っているクラスメイト達に別れを告げながら、三人は教室から出て行った。


       *


 普段、北側の校舎の屋上には出入りができない。

 鍵がかかっているからだ。

 しかし入学式の日、梓に呼び出されてきた時には、鍵は開いていた。

 あれから何度かこの場所に来てみたが、鍵はいつも閉まっていた。

 あの日、なぜ鍵は開いていたのだろうか?

 あれから約四ヶ月が経った。梓からの呼び出しはまたしてもこの場所を指定していた。

 そして鍵は開いている。

 梓はいつも、どこで鍵を手にしているのだろうか?あいかわらず不思議な人だ。

 野上わこは軽い音をたてながらドアを開く。先ほどまで晴れていた空に暗い雲が広がってきていた。

 雲の下に梓が立っていた梓が、わこの姿に満面の笑みを見せる。

「来てくれてありがとう」

 ドアは屋上よりも階段三段分高い場所にある。わこはそこから動かなかったので梓を見下ろす形になった。

「何の用?」

 わこは長居するつもりがないことを言外に含めながら短く訊いた。

 梓は真っ直ぐな目で簡潔に答える。

「私、歌い手になったよ」

 六月の終わりにわこが所属するユニット「A Girl in Opera Grasses」とARIAは同日に新曲を発表した。アクセス数は圧倒的に「A Girl in Opera Grasses」の方が多く、デイリーでもウィークリーでも二位に大差をつけてのトップだった。一方のARIAはデイリーで九位と初のトップテン入りを果たすと、ウィークリーでも五位に入り込んだ。合わせてこれまでに発表してきた曲も急激にアクセス数を増やしていた。新人歌い手としては誇れる結果だった。

「そうね」

 わこも短く認める。

「これで、私を見てくれる?」

 梓の声はあくまでも無邪気だから、できるだけ感情を込めないように勤めているわこの声に苛立ちが混じる。

「なんでそうやってすぐに追いかけてくるの?今度は追いつかれないと思ったのに」

「そうだね。大変だったよ。今回は私一人の力では無理だったから」

 勝ち誇るのではなく、あくまでも嬉しそうに告げる。

「でも追いついた」

 梓は手を後ろで組み、空を見ながら狭い屋上を歩き始める。

「ううん、まだ全然追いついてない。アクセス数も立っている場所も。まだまだ遠く先にいる。でも、わこちゃんは私を見てくれるようになった。視界の中に入った」

 わこは再び向けられた視線から逃げるように目を逸らした。

「それでどうしたいの?私にどうして欲しいの?」

 わこは梓を見ないまま訊ねる。

「わこちゃんと一緒にいたい。わこちゃんと一緒に笑いたい」

 先ほど会ってから始めて、梓が笑顔以外の表情を見せたが、わこはそれを見ていない。

「それは駄目よ」

 素早く言い切る。

「そんな気分になれない」

 梓の返事はすぐには返ってこなかった。黙り込んだ二人の間を生ぬるい風が絡み合いながら通り過ぎて行く。

「わこちゃんは、歌い手を続けるの?」

 わこは質問の意図を掴めず、一度眉をひそめてから静かに答えた。

「ええ」

「だったら、私も続けるね」

 空(から)元気を出すのを失敗したような声だった。

「そうしたら……」

 わこは振り返ってドアを開け、薄暗い階段を降りていった。

 背後から、遠雷の音が響いてきた。

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