第9話 マーチング

 中間試験が終わった次の土曜日、梓達は打ち上げに遊園地に行くことにした。

 あやめ池パークという、東京のディズニーランドや大阪のUSJに比べれば規模も小さく全国的な知名度も低いが、この辺りではデートや行楽の定番スポットになっている遊園地である。施設の老朽化や少子化の影響もあって一時は人気にかげりが見えたが、最近は「あやパー」という新しい愛称で息を吹き返している。

 テスト明けの心を写しているかのように晴れ晴れとした空だった。数日雨が降り続き冷え込んだ天気から一転、汗ばむぐらいの陽気である。

 梓は電車を降り、待ち合わせ場所へと階段を上る。土曜日の朝のターミナル駅には多くの人が行き交っている。

梓の格好は白のカットソーにウエストにビジューが入った白黒チェックのフレアスカートだ。ツーサイドアップの髪をピンク色のリボンが彩っている。

 ちらりと駅の時計を見て時間を確認した。集合時間十分前。梓は常に五分前行動を心がけている。ここからなら余裕で間に合う。

 さて、他のメンバーは既に集まっているだろうか?

「花月ちゃんは時間前に来る方だよ」

 メンバーの中では一番の常識人である。

「和ちゃんは、深夜アニメを観たり、徹夜で原稿をしたりしていなければ大丈夫だろうな」

 大丈夫でない可能性はかなり高いが、約束は守る方なので、眠い目をさすりながら頑張って来るだろう。

「たっかみーは、遅れるだろうな」

 多佳美は全く当てにならない。遅れてくるのが当たり前ぐらいの気持ちでいなければならない。何せ、高校に初めて登校したのがゴールデンウィークの前日だったのだ。遅れるなんてものではない。

 遅れてくるとして、どれぐらい遅れるかが問題だ。

「楽しみにしてたから、絶対に来るとは思うけど」

 そんなことを想像しながら通路を渡り、階段を降りて、改札を出る。

 果たして答えは?

 目の前の待ち合わせ場所に居たのは聡子だけだった。赤と白のボーダーシャツの上にグリーンのパーカーを羽織り、デニムパンツをはいた歳上の従姉は、辺りをキョロキョロと見回し、そわそわして落ち着きがない。

「そんなに楽しみだったんだ」

 梓は呟きながら微笑む。

聡子はようやく目の前にいる梓に気が付いた。

「おはよう、お姉ちゃん」

「おはよう」

 梓と聡子が挨拶を交わしていると、和がすっと現れた。

「おはようございます」

 花柄のチェニックにデニムスカートを合わせている。

「おはよう。もしかして同じ電車だった?」

「ううん、私はバスよ。少し早く着いたからコンビニにいたの」

「そっか。後は花月ちゃんとたっかみーだね。どっちが先に来ると思う?」

「それは……、花月ちゃんかな。でも、遅れるなんて珍しいね。奥さんは予想通りだけど」

 時計は待ち合わせ時間を一分過ぎている。

 確認しようとスマートフォンを取り出した時、銀色の大型SUVが改札口に横付けされた。

「ごめーん」と花月が転がり出てきた。

「道が混んでいて、本当にゴメンね」

「おはようございます」

 謝る花月の後ろから、はきはきとした明るい声が響いてくる。

「雨月君」

 花月の小学生の弟の雨月だ。

 キャラクターが描かれた大き目のTシャツにホットパンツの花月と、ポロシャツに短パンの雨月が並ぶと、いつも以上に男の子の双子に見える。お揃いのキャップを被っているところを見ると、もしかしたら本当は狙っているのかもしれない。

「雨月君、今日はどうしたの?」

「いやーごめんね」

 梓が雨月に尋ねていると、車から男が降りてきて詫びた。

 白髪交じりのくせのある前髪は長く、目を隠してしている。細身で中背の身体に、細かい柄の入った黒系のしわくちゃなシャツと、ビンテージなのか古いだけなのか俄かには判別できない風合いの細身のジーパンを履いている。口は緩やかな笑みを形作っている。

「やあおはよう。花月と雨月の父です。いつも二人と仲良くしてくれてありがとう」

 男は白髪頭にしては若々しい、年不相応なチャラさが感じられるほどに、軽い感じで挨拶してきた。

「お楽しみのところ本当に申し訳ないのだけれど、お願いがあるんだ」

 全員に話しかけつつも、年長者である聡子に視線を向ける。

「花月が遊園地に行くって話をしていたら雨月も行きたいって言い出しちゃってね。本当は僕が付いて行ければいいのだけど今日中に片付けなきゃいけない仕事があるんだ。申し訳ないけど、雨月も連れて行ってくれないかな」

 人に物を頼むことに慣れている大人のお願いだった。

「雨月君なら大歓迎だよ」

 梓が即答する一方、聡子は男の顔を覗き込みながら恐る恐る尋ねた。

「失礼ですけど……もしかして吉本修二さんですか?」

「あー、分かっちゃったか」

「音楽プロデューサーの」

「うん、はい、そうです」と軽く答える。

 聡子、そして和は一拍置いた後、「えー」と驚きの声を上げた。

「大きな声は勘弁してね」

 修二は口に人差し指を当てながら、スマートに二人を宥めた。

「ご、ごめんなさい。あの握手してもらっても良いですか」

「私もお願いします。えっと、ジャックポットのファンです。大好きです」

「ありがとう」

 修二は興奮冷めやらない二人を相手に、慣れた感じで握手をする。

「音楽プロデューサー?」

 梓だけが話について来ていない。

「知らないの?ジャックポットとか、デッチベア、森山美月、笹檸檬とか、全部手がけているのよ」

「中学の時はクラシックばっかり聴いてたから、流行歌はあまり知らないんだよね。最近はちょっと聴いてるけど」

「日の丸兄弟は?」

 和が訊いたのは、小学生の頃に流行っていた音楽グループだ。それには梓も勢いよく頷いた。

「それなら知っているよ。あの曲を作った人なんだ。凄いね。それで花月ちゃんと雨月君のお父さんなんだ」

「凄いのは凄いよね」

 花月は肩をすくめながら答える。

「それで、雨月をお願いしてもいいかな?」

「喜んで」聡子と和が勢い良く了解すると、雨月は笑顔でブイサインを作った。

「やりぃ」


「たっかみーはまだ来てないの?」

 父親が帰って行った後、花月が確認する。花月達が来てからすでに十分程経っているが、多佳美はまだ姿を見せていない。

「連絡も来てないね。かけてみるね」

 梓がスマートフォンで電話をかけると、多佳美はすぐに出た。

「たっかみーおはよう。今どこに居るの?あやパーの前?違うよ、待ち合わせは駅だよ。うんうん、分かった。急いでいくね。待ってて」

 梓は通話を切ると、既に事情を察して呆れ顔の仲間に笑顔で告げた。

「レッツゴー」


       *


 電車に乗った後も、聡子は有名人に会った興奮の中にいた。

「実は花月ちゃんのことを不思議に思っていたの。でも、その疑問が解消したわ」

「疑問ですか」

「そう。春休みに作曲活動を始めたって言っていたでしょ。それにしては、ソフトや機材を色々持っているなって思っていたの」

「ああ」と花月はぽりぽりと頬をかく。

「確かに、楽器や音楽関係のソフトはパパがいっぱい持っているからそれを使っています。そういう点では恵まれているかな」

「物理的な面だけじゃないでしょ。あれだけの曲がすぐに作れちゃうってことは、やっぱり才能も受け継いでいるってことでしょ。いいなー、羨ましい」

「そんじゃないですよ。アドバイスはしてくれるけど、ちゃんと教えてもらったりはしてないし」

「ほら、教えてもらってないのにできるってことは才能よね。アーンド環境。幼い時から音楽に囲まれているという恵まれた環境が生まれ持った才能を引き出すのよ。正に、持つ者には更に与えられってやつね」

「う、うーん」

 しつこくいじってくる聡子に花月が困っていると、「そんなことないよ」と梓が助け舟を出した。

「環境に恵まれているとか、才能があるとかじゃないよ。花月ちゃんが作ろうって思ったから曲が生まれたんだよ。お父さんじゃ作れない、花月ちゃんの曲ができたんだよ。私は花月ちゃんの曲が好きだよ」

 何の根拠もない、結局は好きだけで押し通してしまうような理屈だったが、梓に満面の笑みで言われてしまうと、聡子は毒気を抜かれて引き下がった。

「ありがとう」

 お礼を言う花月の手をぎゅっと握りながら、梓は笑顔を返した。


       *


「遅い!」

 多佳美はあやめ池パークの入口前で仁王立ちをして待っていた。白いブラウスに紺色のベスト、赤いチロリアン柄のロングスカートを履き、長い黒髪はツインテールにしている。長身でモデル体型の多佳美によく似合っている。

 そして右手にはいつも通りデジカムがある。美人がファインダーを覗きながら仁王立ちをしていれば衆目を集めてしまうのは当然と言えるが、多佳美は全く気にしていなかった。むしろ、多佳美に近づいていく梓達の方が気になってしまう。

 しかし聡子だけは違った。電車の中で梓に削がれた気勢が、新たな話し相手を見つけて復活したのだ。先頭を切って多佳美の所へ行き、得意気に質問した。

「さっき有名人に会ったの?すっごい人よ。しかもそれが花月のお父さんだったの。誰のことか分かる?」

「吉本修二さんでしょ」

 聡子の期待に反し、多佳美はあっさりと答えた。

「……知っていたの?」

「中之島家では年に一回、市の主だった方を招いてパーティーをしているの。吉本修二さんも来ていたから、市内に住んでいるのは知っていたの。だったら、同じ吉本という苗字の素敵な曲を作る女子高生が現れたら、二人の関係を調べてみるでしょう」

「そうね……」

 先ほどとは違う形で気勢を削がれた聡子がすごすごと引き下がる。

「ごめんなさい」

 多佳美は調べていたことを花月に謝る。

「ううん、ありがとう」

 花月は今まで黙っていてくれたことに礼を返す。

「早く行こうよー」

 待ちきれなくなった雨月の言葉に、皆は気分を切り替えた。今度は梓が先頭に立つ。

「よし!レッツゴー!」


「まずはどこに行こうか!」

 入口にある「AYAME POND PARK」と書かれた地球のモニュメントの前で記念写真を撮った後、皆の希望を募る。地方の遊園地ではあるが、多佳美の実家である大財閥中之島グループの資本が入っていることもあり、施設はそれなりに充実している。最近は人気が再燃しているので、アトラクションの幾つかは最新のものに更新されている。

「私はジェットコースター」

「同じく!」

 まず梓と聡子の従姉妹ペアが手を上げる。

「お化け屋敷」

 花月がチョイスとは似合わない元気良さで提案をする。

「最近できた3Dシアターは見ておきたいわね」

「後でで良いんですけど、フードコートにできたパン屋さんに行きたいです」

「俺はあやパー姉さんに会いたい!あっ、いた!」

 雨月は更新して「あやパー姉さーん」と叫びながら走って行った。


 あやパー姉さんとは、最近作られたマスコットキャラクターなのだが、いわゆる『ゆるキャラ』ではない。

 ボディ部分は人間の女性で、頭だけ大きな漫画絵風の被り物を被っている。服装にはコンパニオン風や町娘風などのいくつかのバリエーションがあり、アヤメの花が必ず柄として取り入れられている。その中でも一番人気なのがくのいち、女忍者風衣装である。漫画やゲームに出てくるくのいちっぽい、裾の短い着物を着て網タイツをはいている。

その格好でアクションをするのだ。ポニーテールを靡かせながら、前転、側転、バク転を軽々と決める。

 その様子に雨月を含む子供達は大喜びである。

 そして子供達の輪の外側にできたもう一つ輪からは激しいシャッター音が鳴り響いている。

 お父さん達の輪である。

 あやパー姉さんの中の人はグラマラスなボディを持っている。服の上からでも、アクションに合わせて揺れる胸の動きが分かるほどだ。

 あやパー姉さんを中心に展開されているその光景を、梓達は呆れるよりはむしろ感動しながら見ていたが、一角からは歯ぎしりが聞こえてきていた。

「おのれ、やはり胸か、胸なのか」

 憤怒の形相の多佳美の呪詛に、和はそっと自分の大きな胸を腕で隠した。


 あやめ池パークの人気アトラクションの一つが、池の上を走る宙返りジェットコースターである。池に飛び込むのではないかという角度で水面に突進し、風圧で派手な水しぶきが上げながら疾走するのが大人気である。

 長い行列ができていたが、今日は多佳美の家に余っていたというプレミアムチケットで入場したので、どのアトラクションにも優先的に乗ることができる。優先レーンを通って乗り込み口まで来た梓は、あることに気が付き、後ろに続いていた花月に宣告した。

「花月ちゃんに残念なお知らせがあります」

 梓が示した先にあったのは身長制限のパネルだった。促されて花月がパネルの前に立つと、制限ラインに達していないという残酷な事実が示された。

「花月ちゃん残念!」

「うるさい!さすがにこれはプレミアムチケットを使っても乗れませんよね」

「残念ですけれどお乗りいただけません」

 訊かれた係のお兄さんは苦笑いをする。

「まぁまぁ、あっちの小さいのになら花月ちゃんでも乗れるよ」

「あんな小さいのに乗るなんて、こっちから断るわ!」

「強がっちゃって。じゃあ雨月君、行ってくるからお姉ちゃんと待っててね」

「うん。いってらっしゃーい」

 手をぶんぶんと振って見送った雨月は、四人がジェットコースターに乗り込んだのを確認してから姉の肩を叩いた。

「姉ちゃん良かったな。ジェットコースターが苦手なのがばれなくて」

「うん、ありがとう」

 花月は歓声を上げながら上がっていく四人を見ながら本気で答えた。そんな弱点を知られたら、何をされるか分かったものではない。


 多佳美はふらふらだった。両脇を梓と聡子に支えてもらいながらジェットコースターから降りてきた。和が心配そうな顔で荷物を持ってついてくる。

「ひぃい、ひひひひひひ」

 正体不明な声をもらしている。

「そんなに怖かったの?」

 恐る恐る花月が訊ねる。

「怖いではなくて、衝撃的だったわ」

 多佳美はベンチに座らせてもらいながら答える。まだ肩で息をしている。前髪が顔にかかり、陰惨な雰囲気を醸し出している。

「ジェットコースターには乗ったことがあったけど、宙返りは初めてだったの。こんなにも凄いものだったのね。世界が一瞬でひっくり返ったわ。宙返りなんだから当たり前だけど。身体が押しつぶされるような、引き裂かれるような衝動、凄かったわ」

「もう乗りたくない?」

 ジェットコースター怖い仲間ができたかと密かに期待しながら花月が尋ねるが、多佳美はギラリと目を光らせながら否定した。

「とんでもない。今までこんな素晴らしいことを知らなかった自分が悔しいわ。さぁ、二回目に行きましょう」

「行こう!」

 すぐに梓が同意し、聡子も付き合う。和は残ることにした。

「さっきは満足に撮れなかったけど、今度はばっちり撮るわよ」と多佳美はハンディカムを振り回している。

「よろしく!」梓もガッツポーズで応じた。


 四回目を乗り終わった後、「もう少し、もう少しで何かが開きそうなの!見えそうなのお!」と、なおも乗りたがる多佳美を引きずってようやくジェットコースター乗り場を離れた。

 その後はお化け屋敷に行ったり、3Dシアターを見に行ったり、パン屋でランチをしたり、その他の絶叫系アトラクションを責めたり、コーヒーカップをぐるぐる回したり、お土産を買ったりして楽しく過ごした。

 夕方、カフェで疲れを癒していると軽やかな音楽が流れてきた。

「パレードだ」

 駆け出していく雨月を花月が慌てて追いかける。皆も席を立った。

 雨月はパレードと言ったが、実際にはそれほど大層なものではなく、マーチングバンドが池の周りを一周するというものだ。

 チアガール姿のあやパー姉さんが先導する後ろにはチアガール隊が続き、その後ろにバンドが続く。小太鼓が軽やかな音を刻み、大太鼓がしっかりとリズムを支える。トランペット、トロンボーン、ユーフォニウム、チューバ、スーザホンの金管部隊が華やかな音色で観客を呼び込む。

 総勢三十名程度のマーチングバンドであるが、どんどんと観客が集まってきて、池を一周して広場に到着した時には、広場がいっぱいになっていた。

 バンドをバックに、チアガールによるダンスが披露される。ここでもあやパー姉さんが被り物をしているとは思えないアクロバティックな動きを見せて観客を沸かせる。

 ウズウズしながらその光景を見ていた雨月は、ついに我慢できなくなって「踊ろうよ」と言って飛び出していった。

「ちょっと雨月!」

 花月の制止も聞かずに飛び出していった雨月はチアガールの横に並んで踊り始める。チアガール達は突然の乱入者に慌てることはなく、むしろ受け入れてフォーメーションを臨機応変に変えて組み入れてくれる。見様見真似しながらではあるが雨月はダンスにもしっかりとついていく。

 特別なダンスに、観客からは拍手と、応援の声がかかる。

「上手ね。大したものじゃない」

 聡子が花月のお姉ちゃん心をくすぐる。

「この間のダンスが楽しかったみたいで、最近ダンスを習い始めたんです」

「へぇー」

「お姉ちゃん」雨月が手招きをする。

「踊ろうよ」

 観客の視線が花月に集まる。

「むりむりむりむり」と花月は逃げ腰になるが、聡子がその背中をぽんと押すと、そのまま前に出てしまった。

 盛り上げ好きのの観客が「踊ってー」と囃し立てる。花月がそーっと振り返ると梓達は笑顔で頷いた。

「もう、仕方がないなー」

 花月は覚悟を決めて、ダンスに加わった。


 即興のパフォーマンスは拍手喝采で幕を閉じた。

 手を繋いだ花月と雨月が何度もお辞儀をする。

 雨月はあやパー姉さんに抱きしめられてメロメロになった。

「とっても良かったよ」

 梓達も拍手と賞賛の言葉で迎えた。

「たはは、やっちゃった」

 花月は照れ笑いを見せながらも、顔は達成感で満たされていた。

 その時、母親に付き添われた女の子が近寄ってきた。

「あの、お姉さん達ってごきビデに動画をアップしている人達ですか?」

「え、あ、うん。知ってるの?」

「はい、あの動画好きで何回も見てます。今日のダンスも楽しかったです」

 そう言ってその場でピョンピョンと跳ねる。

「ありがとう。うわー、見てくれている人がいるんだ。嬉しい」

「今回はけっこうアクセス数良いからね」

 呟いた多香美は、撤収準備をしているマーチングバンドに歩み寄っていった。

「えーと応援しているので、これからも頑張ってください」

「ありがとう」

「あの、男の人だと思ってました」

 女の子は最後にそう言ってぴゅーっと母親の元へ帰って行き、花月は曖昧な笑みを浮かべた。

 女の子が立ち去ろうとした時、母親があることに気が付いた。

「ほら、こっちは歌い手のお姉ちゃんよ」

「ARIAちゃんだ」

 梓に気が付いて女の子の顔が一段とほころぶ。

「私、ARIAちゃんの歌が好きです。すっごい好きです。ファンです」

「ありがとう」

 母親に促されて差し出された小さな手を、梓は握る。

 手を放すと、女の子は何も言わずに駆け出して行った。「すみません」と頭を下げながら母親がその後を追いかけていく。

「ファン一号ね」「良かったですね」

 聡子や和が喜んでくれた。花月はダンスと曲が褒められて、二重の喜びに震えている。

 ゆっくりと喜びに浸る前に、マーチングバンドの人と話していた多佳美が呼びかけてきた。

「ねぇ、手伝って」

「何を?」

 皆は動き始めたが、梓は一歩、二歩遅れた。

「歌い手……」

 そのまま進むことができなくなり、立ち止まる。それは、思いがけない言葉であった。

「歌い手……」

 初めてそう呼ばれた。

「私、歌い手になったの?」

 自問自答の言葉がひらひらと落ちていく。

「梓、早く来て」

 多佳美がまた呼びかけてくる。

気を取り戻した梓は、いつもの笑顔も取り戻して、駆け出して行った。

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