第8.5話 美章園正知子のグルーミーデイズ#4

 雲は水蒸気の集まりらしい。

 水蒸気は水が気体になった状態だ。

 私達が生活している地上では水は約百度で沸騰して液体から気体になる。上昇気流に乗った水蒸気は空へと運ばれる。標高が百メートル上がるたびに気温は一度下がる。気温が下がることによって水蒸気は水へと戻り始める。その時、水は空気中に無数に浮いているとても小さな塵に張り付く。その状態を雲粒と呼び、雲粒が集まった物を雲と呼ぶ。


 なんだ、なら雲は水蒸気が集まった物ではなくて水が集まった物ではないか。

 論理の矛盾に気がつくが今は無視して先に進む。


 雲粒は更に上空に押し上げられることによって、その周りに張り付く水が増える。雲粒は大きくなり、雲粒どうしがぶつかることによって更に大きくなる。

 大きくなり重量が増えた雲粒は、上昇気流の力よりも重力に屈することになって、雨となって地上に戻ってくる。


 文字は水のような物だ。

 その時々で、状況で、発する人によって、その形を、意味を様々に変える。

 周囲にふわふわといっぱい浮かんでいるのに、それだけでは人は認識しない。

 ちょっとした刺激を与えることによって言葉は集まってくる。雲粒ぐらいの集まりでは人はまだ認識できないけれど、雲粒が集まって雲になれば、多くの人がその存在を認識して、気にすることになる。

 雲の姿は様々だ。

 うろこ雲、すじ雲、ひつじ雲、わた雲、入道雲

 雲の形によって人が浮かべる印象が違うように、言葉の集まりから人が受ける印象も違う。

 雲は自然現象の産物だが、言葉は人が集める。人によって言葉の集め方は違う。

 更に言葉を集めることによって、言葉は雨となって降り注ぐ。人の上に。野に。海に。コンクリートの道に。



     駄目だ。



 手帳に書き連ねていた文字の羅列を塗り潰す。

 塗り潰しながら、よくもこんなつまらないことを長々と書けたものだと自分で呆れる。

 手帳とシャープペンシルをスカートのポケットに突っ込み、空を見上げる。つまらない想像の元になった雲はまだ空に浮かんでいた。駄文を書き始めた時は青いかった空が、少しグラデーションを帯びた始めていた。空の色が変わるのは確か光の波長が変わるから………


   駄目だ駄目だ駄目だ


 頭の中から陳腐な文章を追い出す。さっきと同じではないか。授業で習ったことばかり浮かんでくるなんて、発想が貧困過ぎてイヤになる。

 やはり自分には才能がないのだろうか……


 先日の同人誌即売会に行った後、自分でも恥ずかしくなるぐらい、熱に浮かされたような状態になってしまった。

 何かを生み出したい、そしてそれを人に見てもらいたい。そんな病気にかかった。

 あれだけ大勢の人が何かを生み出しているのだから、自分にも簡単に生み出せると錯覚した。


 とんでもない間違いだった。


 比与森和のように画を描くことはできない、吉本花月のように曲を作ることはできない、奥多佳美のような動画は撮れない、有村梓のように歌えない。

 比与森和を敵対視していた久宝寺未来達を好ましく思っていなかったが、彼女達でも自分よりは何かを生み出せているはずなのだ。

 勿論自分には何か特別な能力があって、最初から皆に賞賛を浴びるような物を作り出せるなんて思ってはいない。何事にも修練が必要なことは分かる。しかし、多少なりとも才能があるのではないかと期待していた文章でさえ、思い通りにはならなかった。

 文字を連ねることはできる。でもそれが誰かの心を動かすような物だとはとても思えなかった。

 なにより自分が、目の前の文字列を好きになれないのだ。


 鬱積する言葉を振り払うように歌がこぼれ出た。最近は気がつくとこの歌は口ずさんでいることが多い。

 ARIAこと有村梓の歌だ。おバカで能天気で後先考えずに突っ走る猪突猛進なあの娘をイメージして作ったのであろうことが丸分かりの歌をなぜ口ずさんでしまうのか分からない。

 何より、私は有村梓のことが嫌いなはずだ。

 校舎の屋上にあるこの小さな空間、亡くなった姉との秘密であるはずの空間に何故かあの娘が居るのを見た時から、この感情が生まれて、胸の中でずっとしこりのように残っている。

 あの後、ここで有村梓を見たことはない。

 それは彼女がすでに居場所を見つけたからかもしれない。未だに居場所を見つけられない自分と違って。


 この曲にだって問題が無いわけではない。むしろ大有りだ。

 歌も曲も画も動画も、ある一定のレベルは超えていると思う。どれも高校一年生のレベルではないと思う。悔しいけど上手だ。このレベルならもっとアクセス数が増えても良いと思う。でも増えない。

 その理由が自分にでも分かるのに、彼女達は気がついていないということが歯がゆく、悔しい。

 この曲の問題。それは、

 全体の完成度が低いのだ。

 バランスが取れていないのだ。

 出会ってまだ一ヶ月足らずの有村梓をそれぞれが表現しようとして、全力を出した結果、ベクトルがバラバラのまとまりがつかないものができてしまい、それをそのまま公開してしまったのだ。

 個々の能力が高い故に、聞き終わった後に違和感が残ってしまうのだ。

 アクセス数が増えないと話し合っているのを見ると、彼女達はまだその問題に気づいていないのだと分かる。

 だからと言って、それを伝える気はない。


 まず、そんなことを教えてあげる義理は無い。彼女達は単にクラスが同じになった人でしかない。人気が出てアクセス数が伸びたとしても私には関係のない話だ。足を引っ張る気はないが、救いの手を差し出す必要もない。


 でも本当は分かっているのだ。私は救いの手を差し出したくないのではなく、差し出した手を拒まれるのを恐れているのだと。

 なんでお前にそんなことを言われるのかと、偉そうに言うお前は何ができるのかと問われるのを恐れているのだ。


 唐突に屋上のドアが開いた。私は慌てて跳ね起きる。ここに来るのは有村梓しか考えられない。

彼女に対して嫉妬でしかない考えられない想いを巡らせていた直後に顔を合わせるのはさすがに気まずかった。

しかし、ドアを開けたのは有村梓ではなく、とても意外な人物だった。

 背は低いが、整った顔立ちの中に光るつり目は威厳を湛えている。髪型は特徴的な縦巻きのツインテール。特徴のある外見の持ち主は、生徒会会長の光陣はるかだった。

 なんでここにいるのかと思ったが、生徒会会長であり、理事長の娘でもある彼女であれば、学内のどこに入れたとしても不思議はないと気づいた。むしろここに私が居ることの方がおかしい。

「すみません」

 慌てて出て行こうとしたが、小さな手で制された。

「構わない」

 それは電子音のような声だったが、その理由はすぐに分かった。会長は首につけたチョーカーに手で触れていた。

 噂で、会長は病気で普通には声を発せられないと聞いていた。入学式の時も副会長が代弁していた。チョーカーには声を発するための補助器具が備えられているのだろう。

 許可が下りたので元の位置に腰を下ろしたものの居心地は悪い。生徒会長と二人きりになる心構えなんてできていない。有村梓ならこんな時でも平気で話しかけるのだろう、という考えが頭をよぎった。

「もう歌わないの?」

 聴かれていたのか!恥ずかしくなりながら聞き返す。

「会長は何をしに……、されに来たのですか?」

「私も歌いたくて」

 私は歌いたくて屋上に来たわけではないが、それは黙っていた。

「気付いているでしょうけど、私は声が出せないでしょう。だから、私が歌っていると、口をパクパクと動かしているだけに見えて、変な人だと思われるの。だからたまに歌いたくなった時はここで歌うの。ここでなら誰にも見られずに歌うことができるから」

 そう話す会長の顔は嬉しそうで、ハンデを持っていることに対する負い目のようなものは全く感じなかった。

「だったら、私がここにいたら邪魔ですよね」

「せっかくだから一緒に歌ってくれない。あなたに合わせて歌うから」

 この申し出を断るほどの勇気はさすがに持っていない。

「分かりました。曲は何にしますか?」

「さっきの歌で良いわ」

「知っているんですか?」

 会長がごきビデを見ているとは思わなかった。

「だって、うちの生徒の曲でしょう。全部は覚えていないけれど、間違えてもばれないでしょう」

「ずるいですね」

 指摘すると会長は優しく笑う。こんな笑い方をする人なのだと思った。

「さあ歌って」

 促されて歌い始める。歌に自信なんてないから、さっきまでと同じように鼻歌レベルだ。

 会長も口を動かしているが、その歌は私の耳には届いてこない。

 奇妙なアンサンブルは、ほのかに輝き始めた星の瞬きの中に消えていった。

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